長篠城を抜け出した強右衛門が上陸したと伝わる地点まで辿ってみた。
私は何度かこの川をリバーカヤックで下ったことがあるので、川面からいつも本丸を見上げ、これは登れんなー、すごい崖だなー、と思っていた。
飯田線鉄橋の水面からの高さをみれば、この城が断崖で守られていることが実感できると思うのだが、皆さんはどうですか?
そして、私はこの川のどこの瀬がヤバいのかを知っている。
牛渕橋から下流の写真をみてほしい。 中洲の左側が白く波立っているのが少し見て取れるだろうか。
その瀬に行くまでは深い淵で穏やかなのだが、そこは落差が大きく、大岩がゴロゴロあり、波がうねって暴れる、ヤバイ場所なのだ。(私の川下りのカヤックテクニックでは)
写真は水量が少ない時期だし遠目には大したことはなさそうに見えるが、どうしてどうして、これでも実際はかなりの急流なのだ。
しかも当時は梅雨の真っ只中。 増水した川にライフジャケットも着けずに身ひとつで突っ込むなど・・・。
(ジャッケットとヘルメットをおまけしてくれても 絶対に ム~リ~~!!。)
それが戦国の世、戦の最中と言われればそれまでだが・・・。
旧暦五月十四日はほぼ満月だが、当夜は霧雨が降っていたと言われており、ほぼほぼ真っ暗であったろう。 激流の轟音が近づいてくる闇の中、行く手に恐怖はなかったのだろうか。(通常水量でさえ瀬音はかなり大きく響くので、ビビりの私にはとても考えられない。)
日本の川は、ふつうなら何度も瀬と瀞場を繰り返すのだが、増水時は瀞場は皆無。 ただただ急流に翻弄されながら、ただただ流されただけだったはず。
波にたたかれ、岩にぶつかり、川底に引き込まれ、しこたま水を飲まされたことだろう。 (長良川で経験済みなので、実感です。)
上陸場所は連吾川の流れ込み地点と言われている。 その場所に行ってみた。(もちろん今回はカヤックではない)
勝楽寺の参拝者用駐車場を拝借し、軽く(?)参拝を済ませ、伝山本勘蔵信共の墓の前を通り、豊川(寒狭川と大野川が合流してからは名前が変わる)にぶつかるまで南進。
橋があるが渡ってはダメ。 しかし川沿いに道はないので少し戻って、今度は連吾川にぶつかるまで西進。
そこには、それと分かる標柱が、ひっそりと待ってくれていた。
水上のカヤックから眺めていたとしても、うっかり通り過ごす、何でもない川岸だ。
廣瀬渡という地名も残っており、朽ち掛けた船が放置されていたので最近まで「渡し」があったのかも。
この連吾川の上流は設楽原の決戦場である。 ここから飯田線の線路に交差するまでは、深く切り立った峡谷なのをご存じだろうか。 馬防柵のある設楽が原の連吾川の下流とは、とても思えない様相なのだ。
ここまで来なくとも、決戦場からのんびりと田園風景の中、飯田線線路直下まで行って覗いてみてはいかがでしょうか。
ちなみに線路の北側付近は、大久保忠世、忠佐兄弟と、山県昌景が対峙した場所だという。
昌景の討ち死に場所は、もう少し北の地点なので、よほど縦横無人に駆け回ったのであろう。
この古戦場一帯には、討ち死にした武将たちへの鎮魂墓碑や地元の皆さんが苦心して考えた『いろはかるた』四十八句の句碑が其処かしこに建てられているので、あわせて散策するのも良いと思います。
(かなり広範囲です。鵜の首にも建っているので歩くと、かなりキツイが、滝(??)を眺めていれば疲れが飛ぶかも)
ネット投稿というものを、生まれて初めてしてみました。
過去に多くの方々が長篠城を紹介しているので、ビビッて城と関係ないものになっちゃいました。
写真は、数回分の抜粋です。
こんな内容でも容認されるのかな~?? やっぱり、疲れた~。
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