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まめ五郎

桜はまだ (2017/04/05 訪問)

会津は寒い

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まめ五郎

真っ白 (2016/04/20 訪問)

以前改修中で見れなかったので、感激でした。

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じゅんじん

ここも古墳! (2020/01/04 訪問)

近くの公園の駐車場を利用。ここも古墳を使ったお城だったとか。特段遺構は分かりませんでした。

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じゅんじん

天皇陵 (2020/01/04 訪問)

当然天皇陵には入れません。お城の雰囲気は感じられませんでした。城址碑も見逃しました(´;ω;`)

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あかし

訪れるべき! (2020/03/22 訪問)

豊臣秀吉による一夜城。
初めて訪れました。
井戸曲輪は、かなり見応えあります。
小田原城もここから見られます。
残ってる石垣(野面積)も素晴らしかったです。

無料駐車場&トイレありです。
駐車場に併設されている”一夜城 ヨロイヅカ・ファーム”もおすすめです。

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カズサン

春の雪に遭遇 (2016/04/11 訪問)

 平成28年4月中旬桜装う涌谷城、佐沼城を終えて北方約60km程の岩手県奥州市の岩谷堂城を初探訪。

 東北道を利用し江刺藤原の郷を目指しナビに従い進むが人首川の峡谷に入りこみ東崖の細い急坂をひやひやで登り切り対岸へ橋が架かってる手間に出る、岩谷堂城の東断崖が眼前に飛び込んでくる、車は橋を渡って直前の東公園の駐車場に停める。
 高速を降りた当たりからにわかに雲が黒く成り不気味雪雲です、車を降りて中の丸に在る展望台に上りその頃より春の雪が降り始めノーマルタイヤなので積もったらどうしようと不安に成るが中の丸、二の郭、本丸、本丸には神社と二清院が在り、早々に探訪を切り上げ要害時代の二の丸は取りやめて来た道の橋を渡って広い道から下城。

 二清院は藤原清衡と父藤原経清を祀り顕彰してます、前九年、後三年役の跡清衡が奥六郡の主と成り平泉に移るまでの館跡、戦国期は江刺氏葛西氏と続き奥州仕置きで葛西氏改易、木村氏家臣が入るが大崎葛西一揆で木村氏改易、政宗の所領と成り家臣が入る、江戸期岩谷堂伊達氏が経営している明治を迎える。

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ぴーかる

信玄最後の戦いの城 (2020/03/01 訪問)

【野田城】
<駐車場他>駐車場なし。城跡入口の道路脇に1台くらいなら駐車できる。
<交通手段>車

<見所>横堀
<感想>日帰り新城市攻城の旅3城目。ご存じ信玄上洛作戦の最終地点の城。設楽原歴史資料館に野田城縄張り図・信玄を撃ったとされる鉄砲、信玄砲が展示されています。
 城跡は連郭式の平山城で本丸には深い横堀がある。二の丸・三の丸は樹木が手つかずで未整備、入れない状態です。本丸・二の丸・三の丸の曲輪に沿うように道路になってしまっているので、この部分の横堀などの遺構は潰されてしまっているようです。武田軍が掘った金堀衆の跡は城跡の案内板では道路の内側のようになっているが、どうも道路の反対側、龍ヶ淵のほうかもしれない。ちょっと発見できなかった。

 信玄狙撃場所というのが本丸内の南側、龍ヶ淵方向にあって、信玄の本陣がどこにあった調べていないが、ちょうど現在南にある法性寺あたりなら鉄砲届きそう。しかし実際本丸からのぞいて見ると、3万の軍で包囲している武田信玄の本陣がこんな野田城本丸の目鼻先に置くかなという疑問がある。狙撃後武田方の陣が騒々しくなったのは史書にあるので大将クラス以上のたれかは撃たれたのであろう。ここも歴史ロマン感じる場所です。

 この日はこの地方の旅一旦終了、2週間後に続く。この日走行距離530㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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まめ五郎

首里城 (2019/02/25 訪問)

この頃は、綺麗だったのに!

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まめ五郎

今帰仁城 (2019/02/24 訪問)

曲線美に感動

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ぴーかる

新城城 (2020/03/01 訪問)

【新城城】
<駐車場他>新城市役所駐車場
<交通手段>車

<感想>日帰り新城市攻城の旅2城目。小学校の向こう側に資料館と城跡碑が見えたのだが、行く道がわからず小学校を抜けて行くのもあれなので、遠目で確認したのみです。

<満足度>◆◇◇

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じゅんじん

東京奥地 (2020/01/25 訪問)

あきる野から奥に走ります。役場に停めて登城。なかなか急坂でした。主郭近くは整備されています。3重の堀切がみどころです。

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じゅんじん

2度目の箕輪城 (2020/03/20 訪問)

レンタカーで1日群馬県のお城めぐり。最後のお城は箕輪城。5年ぶり2度目です。城門も拝見できました。あいかわらず堀がおおきい。あと橋?も復元中でした。

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街道おじさん

高天神城登城 (2020/03/16 訪問)

武田と徳川の戦いの舞台となった城。
一城別郭の城としても知られる。
本丸跡、堀切と歴史を感じさせる。
登城した日は天気も良く、富士山や遠州灘を望むことが出来た。

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ねりきり

使いこなせなかったARアプリ😭 (2020/03/18 訪問)

観光案内所で親切にタクシーを呼んで頂き、そこから八幡口まで行きました。八幡口から歩き始めは人気がなく何となく不気味で怖かったですが、次々に現れる壮大な石垣にテンションが上がり、いつの間にか夢中で写真や動画を撮りまくってました📸

山の上にどうやってこんな立派な石垣を⁉️そして、それが今に残っていることが神秘で堪らなかったです👀✨

帰りのタクシーを予約していたので、ゆっくり出来なかったですが本丸まで片道20分なので、地図を見たり、ジーンと感激したり、ボーッと物思いにふける時間を含めると1時間半くらいあると良いのかなと思います。(タクシーで行かれる方はご参考までに)

地図もARアプリも全然使いこなせなかったですが、それでも大大大満足でした❗️

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姫街道

新城市の名前の由来となる城 (2020/03/26 訪問)

長篠の戦で、15,000の武田軍に対して500人で長篠城を守りきった奥平貞昌氏が築城。長篠の戦い後に、「新しく城を与えられた城」→「新城城」かな。この城への着目点は後に野田城主の菅沼定盈の孫菅沼定実らが城主となった事だ。菅沼定盈は遠江国井伊氏の重臣井伊谷三人衆の一人である菅沼忠久の親戚で、今川方であった井伊領において家康の遠州侵攻を手助けした重要人物だ。そのためか後々まで家康に重宝され、一族は新城城にて明治維新まで主に陣屋として居住して栄えた。井伊谷三人衆の動向は今川・武田と強敵に対峙してきた家康にとっていかに大事だったかがこの城に来て感じ取れた。今は小学校になっているが、学校の雰囲気は陣屋の感じを取り入れている。
城のすぐ南には豊川が流れており、西入船や東入船といった地名が残る事から豊川の舟運や伊那街道の要所としても栄えたようだ。城から鬼門の方向に妙見堂が祀られており、開運のご利益があるとの事。平和な雰囲気が漂う。

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姫街道

松平対今川の激戦地 (2020/03/26 訪問)

宇利城は今川系の城によく見られる連郭式で主曲輪とニの丸が眼鏡のように対で広く、標高もあまり高くはないが、主曲輪だけはかなりの高低差がある城だ。当時の宇利川がどのような形態だったかは不明だが、城の前面や側面は明らかに沼地で攻めにくい地形だ。
家康の祖父である松平清康が東三河の国人が次々従うなか、最後まで抵抗した宇利城城主熊谷氏を攻め落し三河国統一を成し遂げた。清康方で活躍した野田城主初代菅沼定則は家康の遠江侵攻のキーマン野田城主三代目菅沼定盈の祖父。菅沼一族は清康→家康と東三河における松平家の重臣だったのがわかる。この戦で清康方について戦ったであろう近藤氏はのちの井伊谷三人衆の一人である近藤氏で、宇利城は、熊谷氏から菅沼氏→近藤氏と城主が変わっていった。東三河と遠江井伊領の結び付きも垣間見える。国境の城で様々な歴史があったであろう。

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姫街道

姫街道を見下ろす国境の城 (2020/03/26 訪問)

1523年に本坂通(姫街道)を押さるため、西郷氏によって築城された山城だ。西郷氏はその後、月ケ谷城を嫡男に譲り、北方の山あい中山道沿いに居館城である五本松城を築いて本城とし、月ケ谷城を支城としたようだ。西郷氏は一帯を治める国人衆で、当初は今川方であった。ところが、1530年には松平清康について宇利城攻めに加わったかと思えば、清康が暗殺されると今川方に戻り、1560年に義元が討たれると再び松平方についたため、さすがに怒った今川方の武将で遠州宇津山城主朝比奈氏に夜襲をかけられて討ち死にした。この西郷氏、松平・家康にブレずに仕えた野田菅沼氏と親戚であったが、よくブレた。なんとなくだが、三河・遠江地方、一回のブレは許されるが、二回ブレると許されない感じを受ける。さて月ケ谷城主郭への登山道は程良く手を入れてくれてあり、山城登城を楽しむには丁度良い感じだ。主郭には大きなヤマモモの木があり、御神木の雰囲気がある。遺構は虎口や郭跡などわりとはっきり残っていて楽しめる。浜松方面から姫街道・嵩山宿を散策しながらの城巡り、登山口入口がなかなかわからず苦労したが、五本松城もセットでまわって楽しめた。

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カズサン

政宗が陰で操ったと噂の大崎・葛西一揆拠点の城 (2016/04/11 訪問)

 平成28年4月中旬桜に浮かぶ涌谷城を終えて北方向約20km程の登米市佐沼城を初登城。

 車は佐沼城の南側に在る公園駐車場を利用。 南側の登城階段から本丸へ、本丸周囲に土塁、東に櫓台現在は神社が鎮座、東は迫川が外濠の役目か?河岸段丘の丘城、東緩い崖、西虎口が本来の大手現在は神社の階段参道、本丸周囲に内濠、余湖図コレクションさんの俯瞰図では本丸を二の丸が囲み中濠、大沼が囲み、更に四の丸三の丸が囲む梯郭式城郭、現在は本丸のみ遺構残ってます。
 西に明治期を迎えた亘理氏邸と博物館が在る。

 小田原合戦に参陣しなかった大崎氏葛西氏が合戦後秀吉の奥州仕置きで改易、新しく秀吉家臣木村氏が新領主として太閤検地を行うが大崎氏葛西氏の旧家臣の一揆で拠点の寺池城を追われて佐沼城に逃げ込むが捕られられ、伊達政宗、蒲生氏郷に救出され、木村氏は改易、大崎葛西一揆を操ったのではと秀吉の嫌疑が掛り秀吉に釈明上京、政宗書状の伊達の家紋の雀に目が在る無いとかで大河ドラマの一コマに成ってましたが、旧領は一揆後政宗に与えられ政宗重臣の津田氏が城主、江戸期は佐沼要害とし継承するも故あって江戸中期改易、後亘理氏が佐沼に移り明治を迎える。

 桜も咲いており月曜日でしたが何人か城址公園に来て居ら得ました、薄曇りでしたがここも桜で装われて居りました。

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チェブ

地元の方に感謝です。 (2020/03/21 訪問)

新しく専用駐車場と案内板がお出迎えしてくれた「島崎城」で感動しました。
行方 宗幹さんの息子、高幹さんが築城し島崎を名乗ります。
島崎氏はこの辺りの同族を攻め、諸豪族のTOPになりました。
その後、常陸国を安堵された佐竹 義宣さんが島崎氏をお花見だと誘い謀殺し島崎氏は滅亡、「島崎城」も廃城しました。
島崎氏、やっつけておかないと佐竹氏もヒヤヒヤするような方だったのかな?
駐車場から「島崎城」の入口が分からず困っていたら畑仕事をしていた方が声をかけてくれました。
駐車場から写真③が見えますが、ぐるーっと道を回らないと到着しません。
駐車場を背に、左に向かい左折。すぐに細い道があるので、左折すると写真②③の前の道に着きます。
写真③の階段は下の方は坂になっていて、滑ります。
帰りに分かったのですが、もう少し歩くと緩やかな登り道もありました。
登ってしまえば遺構が見えます。虎口、掘り、曲輪と良い状態で保存してありました。
戻って畑仕事の方に挨拶すると「島崎城」、まだまだ整備をして奥まで見られるようにするそうです。
多分、この方も保存会の方だと思います。
見どころを教えてくださいますし、今度「島崎城」の縄張り図を置いておくとも言ってました。
本当に感謝します!ありがとうございました。

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刑部

岩村城下町 (2020/03/19 訪問)

ここは、私が1度は来たかった城址! 念願かないついに来ました。 まず、城下町を散策 朝ドラ 半分青いのロケ地だけあり風情が最高 気分が上々 食べ歩きとお土産買っていよいよ城址へ、その車で裏から上がれば簡単ですがここは、城下から城攻めのつもりで・・・前半は結構きついですが石垣が見えてくると疲れはどこかへ。見事な石垣に圧倒されながら歩く事40分程で本丸へ。 この岩村城は織田信長が本能寺の変80日前に訪れたようです、この時は武田氏を滅ぼして有頂天だったのに運命はわかりませんね。 とても良い城址で気に入り初めての御城印を買いました。

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