超入門! お城セミナー 第120回【構造】お城ではトイレってどうしていたの?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回は、城内のトイレについて。人が生活する場には欠かせないものであるトイレですが、お城ではどのような場所につくられ、どのように使われていたのか? 発掘された遺構や現存・復元の厠跡から戦国・江戸時代のトイレ事情に迫ります!

お城、トイレ
人間が生きる上で欠かせないトイレ。昔の人々はどのようなトイレを使っていたのだろうか?

人あるところにトイレあり……戦国時代の厠事情

私たちの生活になくてはならないものの一つである「トイレ」。当然ながら戦国時代・江戸時代の武士だって用を足す場所が必要だったわけで、生活空間には必ずトイレがありました。でもお城見学に行った時、観光客用のトイレは数多あれど、遺構としてのトイレはあまり見たことがありませんよね。そこで今回は、お城でのトイレ事情、戦国時代・江戸時代のトイレ事情、さらにトイレの遺構について迫ってみましょう。

まずは、ネーミングから。史料には「厠(かわや)」や「雪隠(せっちん)」と記されていることが多いようです。「かわや」は、奈良時代からあるトイレの最も古い呼び名です。その語源は、古くは川や溝の上に設けられたことから「川屋」というのが有力で、他に多くの人が行き交うから「交屋」、昔は母屋のそばに別に設置されたため「側屋」という説も。いっぽうの「せっちん」も明確な由来は不明ですが、一説に禅宗の用語「せついん」が変化したものだとか。

秋田城、厠
古代城柵・秋田城に復元された厠。水洗式で、右の建物内で用を足し、そばに設置されている水瓶の水で外の沈殿槽に流す仕組みだ

茶道では、門の外に設置して実際に使用した「下腹雪隠(したばらせっちん)」と、装飾用で内路地(門内の庭)に設置した「砂雪隠(すなせっちん)」があります。後者は千利休が豊臣秀吉のために考案したのが始まりといわれ、別名を「飾雪隠(かざりせっちん)」とも。きれいに掃除された雪隠が、客への心遣いを表します。名護屋城(佐賀県)跡周辺の、前田利家(まえだとしいえ)や木村重隆(きむらしげたか)など4名の大名の陣跡からは、この飾雪隠の遺構が出土。全国で最古の発見例だそうですよ。

次に、日本のトイレの歴史。起源は不明ですが、遅くとも弥生時代には排泄専用の施設があったようです。平安時代の貴族は、おまる状の「樋箱(ひばこ)」を室内で使っていました。庶民は屋外で用足しを。のちに穴を掘る汲み取り式が登場し、鎌倉時代〜戦国時代頃には、都市部の町屋では各家庭で厠が設置されていたようです。

全国で初めて「金隠し(厠の穴の前に設けた覆い)」が出土した一乗谷朝倉氏遺跡(福井県)では、復元町屋の庭に、複数に区切られた厠もあります。吉川元春館(広島県)でも、金隠しを含む厠の遺構が検出されています。貴人の厠は内部が畳敷になっていて、外から係の者が引き出しを引くように排泄物の入った箱を取り出し、健康観察を行っていました。西郷頼母(さいごうたのも)邸を復元した会津武家屋敷(福島県)には、藩主訪問時用に作られた厠も復元されていて、この引き出し式の構造を屋内外から見られるようになっています。

一乗谷朝倉遺跡、厠
一乗谷朝倉遺跡に復元された厠。一乗谷全体では、数百基ものトイレの遺構が発見されている

武家の厠は、敵襲に備えて扉の方を向いてしゃがむようになっていたとか。武田信玄は厠に籠もるのが大好きだったという逸話があり、信玄専用の厠は刺客避けのため京間6畳敷で、朝昼晩と香を焚いていたといいます。しかも、風呂の残り湯を引いて流す水洗式。かなりの快適空間だったようで、作戦を練るのも書簡を読むのも厠で行っていたそうです。また、伊達政宗も厠読書の達人(?)だったとか、加藤清正が厠で1尺(約30cm)の高下駄を愛用していたなど、戦国武将とトイレの逸話はいくつか伝わっています。

意外と少ない?城に残るトイレ遺構

お城には当然厠・雪隠があったはずですが、現存遺構はごくごくわずかで、細部の構造は不明なことも多いようです。特に天守に遺構がほとんど見られないのは、生活は御殿で行っていたため(天守は戦時に詰める場所で、ほとんど出入りしなかった)。織田信長は唯一天守に住んだ城主ですが、史料によると安土城(滋賀県)天主には厠が3箇所。ところがそれは、門内すぐに1箇所と地階に2箇所で、3階で生活していたという信長は、かなり不便だったはず。また、幕末に焼失する前の熊本城(熊本県)天守には、石垣から外へ張り出した空中トイレが1箇所あったようです。中世ヨーロッパの城に多いタイプで、おそらく排泄物は外にたれ流し。うーん、これも防御の一つだったのかも?

天守に厠が現存している珍しい例は、かの姫路城(兵庫県)大天守です。地階に2箇所あり、構造はどちらも3連式で囲いと間仕切りは板壁。片開きの板戸付きで、金隠しも木製です。下に大壺が埋められていますが使った痕跡はなく、同じく地階にある台所も含めて籠城戦に備えたものだったと考えられています。

姫路城、厠
天守地階の厠。他にも姫路城天守には流しなど、籠城を想定した設備が設けられている

また、現存天守のある備中松山城(岡山県)には、二の丸南西隅に石積みの竪穴遺構があり、「雪隠跡」と表示されています。五つ区切りで穴に瓶を据え、石段を使って汲み出されていたようです。一部史料から天守の廊下にも五つ区切りの雪隠があって、一つは外から出入りできたようです。残念ながら廊下部分は解体修理以前に朽ちていたため、現存天守に遺構はありません。松本城(長野県)二の丸御殿跡にも植え込みで囲まれた雪隠遺構がありますし、建物内部には入れませんが、彦根城(滋賀県)の埋木舎(うもれぎのや。井伊直弼が藩主になる前に過ごした屋敷)には、4箇所の厠が良好な状態で現存しているそうです。

備中松山城、雪隠跡
備中松山城の雪隠跡。長さ2.5m×幅1.3mほどの穴に石組みを施した竪穴になっており、この穴に壺や瓶を設置して用を足していたと思われる

いっぽう、四つの現存御殿のうち厠も一緒に現存するのは、高知城(高知県)・二条城(京都府)・掛川城(静岡県)ですが、残念ながら厠内部の見学はできません。でも、現存厠がない川越城(埼玉県)では、大用・小用の二つが扉で仕切ってある復元厠を見ることができます。このつくりは、最近まであった日本家屋のトイレとよく似ています。この他、津山城(岡山県)の備中櫓、安中城(群馬県)の武家長屋、箱館奉行所(北海道)など、各地の城郭関連施設の復元建造物の多くで、復元された厠を見ることができます。

津山城備中櫓、厠
津山城備中櫓に復元された厠。備中櫓は城主の婿をもてなすためにつくられたことから、厠も畳敷きの格式高いものになっている

お城では、天守や櫓や門といった豪華な外観のものについつい目がいってしまいますが、トイレ事情に注目してみると、戦国武将たちの普段の生活や内面が読み取れるような気がしてきますよ。ぜひぜひ今後は、お城のトイレ事情もチェックしてみてくださいね!

手筒山城、トイレ
最後に登城者用のトイレもご紹介。写真は天筒山城(福井県)のログハウス風トイレ。お城の登城車用トイレは蔵風など城内の雰囲気にあわせた外観が多い。ただし、山城ではトイレが設置されていない場合もあるので、登城前にはトイレの有無も忘れずにチェックを!

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
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