2020/01/27
超入門! お城セミナー 第85回【構造】山城にとって井戸はどれほど重要だったの?
初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、人の生存に欠かすことのできない「水」。山城を登ったさい、「飲み水はどうしていたんだろう?」と疑問に思ったことはありませんか? 籠城戦の可能性が宿命づけられた城にとって、水の存在は不可欠。水を確保するための、先人たちのたぐいまれな努力を見ていきましょう。
春日山城の本丸裏手にある大井戸。今なお満々と水をたたえている。水の手は城にとって必要不可欠な存在だった
水の手は城のマストアイテム
人体にとって、「水」は必要不可欠な物質です。人は食べ物が得られなくても、数週間から1カ月は生き延びることができるといいますが、水の場合はそうはいきません。いっさいの水を断たれたら、人は3〜5日程度で死の危険にさらされるそうです。小学校の頃、「人間の体の70%は水でできている」と習った記憶はありませんか。人体の構成要素として、子どもの頃は70%程度、成人以降だと50〜60%が水分で占められており、水分量の20%が失われると生体機能はストップしてしまいます。それほど、人体にとって水は不可欠な存在です。
なお、城内で水を得るための場所や施設を「水の手」と呼びます。水の手のための曲輪が築かれ、土塁や石垣で囲んで守りを固めている例も少なくありません。城を訪れたさいに「水の手曲輪」「清水曲輪」「井戸丸」という水に関する曲輪名を見つけたら、ははーん、ここがこの城の水の手だったんだなと思ってもらってほぼ間違いはないです。
前置きが長くなってしまいましたが、城を築くさい、「水をどう確保するのか」は必須の課題でした。人が住み、活動するために必要であることはもちろんですが、城には「籠城戦」の可能性が宿命づけられています。もし、水の手がない城で籠城して、数日でも城外からの運搬が断たれるとしたら、たちまち死活問題になってしまうからです。
それでは、城内で水をどう確保していたのでしょうか? 真っ先に思い浮かぶのが井戸ですね。枯れたら困るので、井戸はひとつだけではなく、複数設けられるのが普通でした。築城名人とされる加藤清正は、居城の熊本城(熊本県)に100以上の井戸を設けたといわれており、今でも20近い井戸が残されています。清正は朝鮮出兵で過酷な籠城戦を戦っているので、飲み水を確保することに強迫観念にも似た思いがあったのでしょう。
とはいえ、当たり前ですが掘ればどこからでも地下水が湧くわけではありません。城を築くには絶好の地なのに、どうしても水が確保できないということもあったでしょう。その場合、解決策のひとつとして、城に面した河川があれば、そこから運び入れるという方法がとられました。
その例として、天竜川沿いに築かれた二俣城(静岡県)がありました。二俣城では井戸櫓(または水の手櫓)と呼ばれる専用の高層櫓が築かれ、水の運搬をしていました。ところが武田軍に攻められたさい、武田軍は川に大量のいかだを流して井戸櫓を破壊したため、城兵は開城を余儀なくされます。水の手に目をつけるとは、さすが武田軍は戦上手ですね。
復元された二俣城の井戸櫓
城内に井戸がない場合、水路や樋によって引き入れたという例もあります。江戸は玉川上水などの水路が整備されていたことが知られていますが、神田川や水堀に懸樋(かけひ)が架けられ、そのまま江戸城内へと給水されていました。ただし、籠城戦で水路や樋を破壊された場合は一巻の終わりですので、水路や樋は補助的な手段だったといえるでしょう。
水を確保するためには、井戸を掘るほかに、井戸櫓で河川から運ぶ、水路や樋で城外から引き入れる、溜め井で湧き水や雨を溜めるなどの方法があった(イラスト/香川元太郎)
山城の水の手は1000貫(1億円)の価値があった!
さて、ここまではお城一般の水の手事情について解説してきました。それでは、山城ではどうだったのでしょうか?
なんとなく想像がつきますが、山城は平城よりもずっと、水の手を探し当てるのが困難でした。城を築くにはベストポジションなのに、どれだけ探しても給水ポイントが見つからず、築城自体をあきらめたということも多かったことでしょう。補給基地や見張り台のような小さな山城では水の手がない例もありますが、ある程度の規模の山城ではたいがい、現在も井戸跡など給水ポイントの痕跡が残されています。
井戸の伝承を追いかけると、山城で水の手を探すのがいかに困難だったかがわかります。例えば、伊予松山城(愛媛県)の本丸にある井戸は、2つの峰を埋め立てて本丸を整地するさいに、谷底にあった泉を井戸として残したと伝わります。実際、井戸は深さ44.2mとたいへん深いもの。伝承の真偽は定かではありませんが、水の手を確保するときの苦労が込められているのでしょう。
伊予松山城本丸の井戸。この井戸は二之丸に通じる抜け穴になっていたという伝承もあったが、それは調査により否定された
水の手は城の縄張り(構造)にも大きく影響しました。敵に攻められたさい、すぐに水の手を奪われてしまったら籠城戦どころではないからです。特に最後の砦となる本丸(主郭)の内側や裏手に水の手があることが理想です。
毛利元就の本拠だった吉田郡山城(広島県)には、本丸の直下に釣井の壇が設けられていました。曲輪名からもわかるとおり、櫓づくりの釣瓶があったと想定され、現在も石積みの井戸が残されています。また、上杉謙信の居城である春日山城(新潟県)でも、本丸の裏手に井戸曲輪が存在しており、城の大手からは隠れた位置になります。このように便利な水の手があったからこそ、春日山城も吉田郡山城も長く戦国大名の居城たり得たのでしょう。
吉田郡山城の釣井の壇の井戸跡。曲輪の本丸側の付け根に井戸が設けられている
山城での水の手は、井戸だけではなく「溜め井(ためい)」という方法もありました。山の鞍部などに貯水池を設けて、湧き水や谷筋を流れ落ちる水を溜めておく施設です。土づくりだとすぐにしみこんでしまうので、岩盤を掘削して貯水池としました。
こうした溜め井を築いた山城に、岐阜城(岐阜県)があります。岐阜城の建つ金華山(きんかさん)は別名「一石山」と呼ばれているとおり、全山が岩塊で成り立っており、井戸の掘削は不可能です。そのため、現在確認されているだけでも、山頂に溜め井が4箇所も設けられていました。溜め井の水は何日間も放置されることがあるため、井戸に比べると衛生面におとりますが、背に腹はかえられないということでしょう。
岐阜城山頂に残る溜め井。金網に覆われているためわかりにくいが、岩盤が方形に削られており、現在も湧き水をたたえている
最後に、お城で井戸を見つけたら、是非その名称に注目してみてください。特別な名前が付けられている井戸がとても多いことに気づくでしょう。例えば、石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県)のメインの井戸は、「千貫井(せんがんい)」といいます。千貫(ざっと1億円ほど)もの価値がある井戸ということです。先ほど紹介した岐阜城の水の手は「金銘水(きんめいすい)」と呼ばれます。「金ほど尊い」ということでしょうか。ちなみに、山城ではありませんが、大坂城(大阪府)にも「金明水」という名の井戸がありますね。
佐和山城の山腹に設けられた千貫井。谷筋を削って湧き水を得ていた
また、羽衣石城(鳥取県)の「お茶の水の井戸」には、昔々、天女がここで水浴をしている隙に、農夫が羽衣を奪ってしまったという伝説が残ります。「羽衣石」という城名はこの伝説に由来しており、井戸は現在も水が湧き出し、枯れ果てることがありません。
羽衣石城のお茶の水の井戸。干ばつのときには、この井戸を汲み干すと大雨が降るという言い伝えも残る
これらのありがたい名称からも、山城において水の手の確保がいかに重要かつ貴重だったかがわかるでしょう。水の手は天守や虎口や堀などとは違う意味で、しかしそれに負けず劣らず城にとって必要不可欠な施設だったわけです。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、『図解でわかる 日本の名城』(ぴあ株式会社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。