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スプラNNNN

織田 (2018/05/27 訪問)

庭園あった。

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スプラNNNN

普通普通普通普通 (2018/10/08 訪問)

暇つぶしに行ってみた。

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スプラNNNN

西尾は抹茶。 (2019/02/11 訪問)

西尾茶おいしかった

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とってぃ

箕輪城まつり (2019/10/27 訪問)

ちょっとだけ箕輪城まつりを見に行ってきました。

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チェブ

やっぱり、あの路地でしたか! (2019/10/20 訪問)

今井 四郎兼平さんの居城と伝わる「今井砦」=「今井城」に、またしても限りなく近くに行きました。

グーグルの地図頼りで到着した場所で写真を写し散策です。
この前の台風の影響か、民家近くなのに大きな木が倒れていました。
「今井城趾」の石碑があるとの情報ですが、私が来た場所は住宅街です。再度、検索。
バス停近くの路地を入るようで、バス通りに移動しました。
駐車場、ありません。
コンビニに駐車し入口を探しましたが、どこの細い路地も私有地っぽく入りにくい感じです。
「今井砦」はあの辺りだろうと目指す方向に、いくつか車が入れない細い路地があります。
車も心配なので、退陣しました。

先ほど、トーダイさんの「今井砦」の投稿を見て、やっぱり、あの路地だったか!と悔やんでます(笑)

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黒猫

台風19号で被災 (2019/10/26 訪問)

一部通行禁止になっており、芝生がはがれた箇所がいくつかありました。ただ全エリア鑑賞することはできました。日曜ということで、親子三代の家族連れや女性グループなど訪城者が多くてビックリ。

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橋吉

蟹江城 (2011/01/22 訪問)

蟹江城へ行ってきました。
場所は名古屋の西、海部郡蟹江町のほぼ真ん中です(現地案内板です)。

予習のため、まずは蟹江町歴史民俗資料館へ行きました。
ちなみに、ここの住所は愛知県海部郡蟹江町城です。

同じ建物に、産業文化会館と中央公民館分館が同居しています。
最上部が城を意識したデザインになっています。
資料館は、入場無料でした。

ここでの、予習した成果を紹介します。

現在では、内陸となっているこのあたりですが、戦国時代は海岸線でした。
したがって、桑名(伊勢国)あたりからの攻めに対する防御のために、永享年間(1429~1441)に北条時任が築いたそうです。

この城が脚光を浴びたのは、1584年(天正14年)の蟹江合戦の舞台となったときです。
小牧長久手の戦いで、徳川家康に大敗を喫した羽柴秀吉は、その雪辱と伊勢湾の制海権、そして織田信雄と家康の間を離反させるために挙兵いたしました。
滝川一益を主将に九鬼水軍を伴いいったんは優勢に進んだのですが、支城である大野城(尾張国海東郡)主の山口重政は助力を拒み、織田徳川連合軍の反撃の前に、秀吉は撤退を余儀なくされます。
こうして、秀吉と家康の表だった戦いは終焉を迎えました。

資料館では、蟹江城への道順を記したプリントを配布しています。
路地のような細い道を歩いて数分です。

住宅地の一角に石碑が建っているだけでした。
唯一、本丸の井戸が残っていました。
おそらく、最近まで使っていたのではないでしょうか。
それでなければ、じゃまなので取り壊してしまいますよね。

小さな城の小さな戦いですが、蟹江合戦が後世に与えた影響は大きいです。

まずは、羽柴秀吉と徳川家康
この戦いを最後に軍事的な争いを避けました。
秀吉は得意な外交戦略に方針を変えました。
関白となり家康よりも上の立場となるとともに、妹の旭姫を嫁がせ、母の大政所まで人質に出し、懐柔をはかります。これには家康も折れて、豊臣の政権が樹立することとなりました。

滝川一益
蟹江城主の留守を預かっていた前田長定は、かねて羽柴方の滝川一益に通じており、一益軍を蟹江城へ招き入れてしまいます。
しかしながら、織田・徳川連合軍に包囲された一益は対抗できず、長定の首をはねて降伏
してしまいます。
かつては、織田家有数の武将と言われていましたが、本能寺の変のあたりから凋落し始めた一益にとってこの件は決定的打撃となりました。
「命惜しさに長定の首をはねた卑怯者」と誹られ、以降漂泊・餓死したと伝えられています。

佐治一成・お江
佐治家は、知多半島の大半を領した豪族です。
秀吉は佐治一成を懐柔しようと考え、お市の三女のお江との婚姻をまとめたようです。
しかし、一成は合戦後に家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡において、家康に船を提供し、秀吉の怒りを買ってしまいます。
このため、お江は最初の夫と離縁させられてしまいました。

茶粥
米をほうじ茶または緑茶で炊いたものです。
調べてみると茶粥は奈良・京都・大阪・和歌山で見られる食文化で、北前船の影響で西日本の各地に広がったそうです。
ただし、私の知っている限り尾張にはこの文化が残っていません。
唯一、この蟹江町だけ存在するのです。
これは蟹江合戦の折、連合軍に包囲された場内では、水をくむことも米をとぐことも満足に出来ず苦肉の策として茶の湯に米を入れたのが始まりだそうです。

蟹江町歴史民俗資料館より

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よーすけ

犬山城 (2019/10/27 訪問)

GWの名古屋旅行で行けなかった犬山城へ。
まさかまさかの修理中。
GW無理矢理にでも行くべきだったな〜。
それでも木曽川越しに見る犬山城が美しい。
晴れて輝く木曽川と天守の姿があまりに美しいので
遠回りして駅まで歩いた。

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国境の城 (2019/10/26 訪問)

 越中と加賀の国境にあり小原道という街道が近くを通り、交通の要衝を抑える目的で作られた城です。城址公園として主な場所は整備されていて歩きやすい。ただ笹などが多くの横堀や竪堀を隠してしまっていて十分見ることができないので、もう少し整備していただくよより良い城址になると思います。また絵図で大堀切と書かれている所に舗装された道路が通っていて面影があまりないことが残念です。

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雨の中を (2019/10/25 訪問)

平城ですが土塁や堀、曲輪が整備されていて見ごたえがあります。JR高山本線、婦中鵜坂駅より徒歩(徒歩10分くらい)で登城しました。

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雨中の散策 (2019/10/25 訪問)

 神通川と支流である土川の間の台地に築かれた連郭式の城址で北東西は断崖絶壁で囲まれています。圧巻は本丸を囲む大空堀です。登城口から入って本丸に向かうとすぐに見ることができます。大手口へ行き、その後各曲輪や竪堀、空堀、井戸跡などを見ながら城生口へ出て来ました。かなり見ごたえにある城址です。非常に楽しみにしていた城址ですが、訪れたときは気合の入った雨が降っていて傘を差しながらの見学になったのが痛恨の極みです。撮った写真を見てみると傘を持って雨中に撮ったためだと思われますがボケている写真が多く悲しかった。最後に腰曲輪に行きましたが、一人が通ることが何とかできる程度の道を進みます。片側は急峻な崖になっていてかなり怖かった。

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朝田 辰兵衛

根知城散策 2/2(上城山城,栗山城)を。 (2019/10/26 訪問)

根小屋城,詰城の上城山城,館城の栗山城(ウツグラ館)を総称して根知城と呼称しています。
信濃・葛尾城主だった村上義清が武田信玄に領地を奪われ,上杉謙信に救援を求め越後へ。謙信は,村上義清をこの根知城の城主として,信濃国境監視に当たらせました。栗山城(ウツグラ館)登城ルートからちょっと外れたところに,村上義清の墓所もあります。
なお,子の国清は,不動山城を越えた先の徳合城の城主に命じられています。さすがの謙信も,親子で領地が隣接していると良からぬと考えたか…?
上城山城は,標高:527m,比高:420m。根小屋城の南側尾根伝いに徒歩約20分。
登城タイミングが早かったせいか,主郭の標柱を発見できず…<泣>。
しかし,眺望から主郭であると判断しました。
上城山城から栗山城へ抜けるルートも存在してますが,ちょっと危険と判断。ひとまず下山してから栗山城を目指しました。
栗山城は,標高:170m,比高:70m。栗山城の植物の生長ぶりは,土塁の形状も見事に覆いつくしていました。取れ高が少ないのはそのせいだと思ってください。

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朝田 辰兵衛

根知城散策 1/2(根小屋城)を。 (2019/10/26 訪問)

根小屋城,詰城の上城山城,館城の栗山城(ウツグラ館)を総称して根知城と呼称しています。
信濃・葛尾城主だった村上義清が武田信玄に領地を奪われ,上杉謙信に救援を求め越後へ。謙信は,村上義清をこの根知城の城主として,信濃国境監視に当たらせました。栗山城(ウツグラ館)登城ルートからちょっと外れたところに,村上義清の墓所もあります。
なお,子の国清は,不動山城を越えた先の徳合城の城主に命じられています。さすがの謙信も,親子で領地が隣接していると良からぬと考えたか…?
根小屋城は,標高:370m,比高:270m。勝蓮寺の南側に登城口アリ。JR根知駅から徒歩約20分で登城口。登城口から主郭までは徒歩約100分。
私の登城タイミングは,少し早かったな…と感じました。しかし,週末貴重な登城日和に恵まれた上越地方に呼ばれてる気がしたもので…<笑>。

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cafeline

守谷市の原点 (2019/07/28 訪問)

ニュータウンとして栄える守谷市の原点を見ることができます。

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勝興寺 (2019/10/24 訪問)

勝興寺付近が城址です。
櫓かと思う鼓堂が印象的です。外から回ると土塁や空堀が良好に残っていることを確認できるようですが、今回は確認できていいません。

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神保氏の城 (2019/10/24 訪問)

 射水市立放生津小学校が跡地です。北側に案内板があります。土塁がありましたが当時ものではなく、遺構は地下に眠っているようです。

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越中三大山城 猪注意 (2019/10/24 訪問)

 越中三大山城のひとつですが、公園となっていて遺構はあまりありません。曲輪と思われるような平場がいくつかありますが、どこまで当時のものかはわかりませんでした。石垣も一部残っています。頂上入口にも看板がありましたが、地元の方の話では最近は猪が多くなったようで要注意とのことです。早々に退却しました。

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岬の城 (2019/10/24 訪問)

 富山湾の面した半島の独立丘陵にあり海側は断崖絶壁となっています。神社などがあり歩きやすのですが、これといった遺構はありません。いくつかの平場が城の雰囲気を伝えています。

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陣城かも (2019/10/24 訪問)

 「氷見あいやまガーデン」を通り過ぎて森寺方面へ進むと右手に堀底道のような通路があります。標識も案内板もありません。その通路を進んでいくと左手に階段があり登って行った先が城址です。こじんまりしていますが浅くはなっていますが横堀や竪堀、土塁などを見ることができます。草木もある程度見学しやすい城址です。ネットにて何人か述べられているように陣城のような雰囲気があります。

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良好な遺構 (2019/10/24 訪問)

 かんり広い城域があり遺構も見ごたえがあります。主な場所は道も整備されていて歩きやすかった。
初めに搦手へ行き食違い虎口、堀切などを見て、引き返し主郭へ向かいました。牛ヶ窪から百間馬場日向かう途中に左手にいくつもの堀切を確認できます。本丸および二ノ丸周囲にも一部石垣を見ました。カンジャ屋敷から金戸山へ行こうとしましたが倒木などで行くことができませんでした。野崎屋敷の先にある二重堀切等の遺構はすばらしく、この城址の見所の一つでしょう。展望台先にも二重堀切はありましが、西念寺へ降りて行く道から確認できます。ただ西念寺方面へ向かって森寺集落に降りて行くと30分近くかかりました。

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