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まさお

小田原 石垣山一夜城 (2024/11/07 訪問)

今日は冬一番が吹いていますが晴天なので小田原方面に行くことにしました。
自宅から関越・圏央道・小田原厚木道路経由で2時間半ほどで到着しました。
思っていたより石垣が素晴らしかったですが、崩落が目立ちました。
本丸跡からの眺望は素晴らしいです。小田原城を探すのが意外に大変でした。
小田原市がフィリピン海プレートと北米プレートでのプレート境界上にあるとの
掲示があり、プレート境界を初めて見ました。
駐車場の隣には「一夜城ヨロイヅカファーム」があり、大変賑わっていました。

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赤い城

長宗我部氏の本拠 (2024/10/27 訪問)

この日も戻りガツオを求めて2週続けて土佐に。
やっぱり美味しい!と満足した後桂浜まで足を伸ばしました。
ちょっと曇っていたのが残念ですが波が高く迫力ありました。

裏手にあるのが浦戸城です。
少し歩いて西側の登城口から登りました。
三ノ段、二ノ段と曲輪が続き、その先に三重堀切があります。
全体的に残る遺構は少ないですがここが一番の見どころかと思います。
通路を挟んだ北側の斜面を覗くと竪堀となって落ちているようにも見えます。

さらに進んで龍馬記念館が建つ主郭へ。
井戸が残っています。
主郭の北側に天守台があり、小さな祠が二つ鎮座します。
手前には発掘調査で見つかった石垣が移設されていました。

長宗我部氏最後の居城で、秀吉配下になった後朝鮮出兵に備えるなどの理由で海上交通の利便性からここを拠点としたと考えられます。

朝田さん、やっぱり考えすぎでしたか。
城めぐりは自由に気の向くまま、が良いと思いますので気になさらないよう。
ただあのお寺、土塁っぽいのがありますが遺構なのかどうかは?です。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:寺岡砦 (2024/10/03 訪問)

長居西二丁目バス停から徒歩5分ちょっと、神須牟地(かみすむち)神社(34.611551、135.509870)に着き、その後、眞光寺山門付近にある説明板前(34.610358、135.509953)に向かいました。

寺岡砦は寺岡城とも呼ばれ、環濠集落から発展した砦と考えられるが詳細は分かっていないようです。
戦国時代、畠山、三好、細川、桃井各氏らの抗争が続く中で、寺岡付近でもたびたび合戦が行われ、その戦場となりました。
1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では徳川方がここに陣を構えたとされます。
また、夏の陣ののち、大阪城の多くの浪人が寺岡に集まり土民となったという伝承もあるそうです。

現在、跡地は神須牟地(かみすむち)神社となっています。
遺構などはなく、眞光寺山門付近に説明板があるだけです。
雨の中、攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう前に、動物園前駅でコインロッカーより荷物を取り出し、本日の宿泊先の十三駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=30285歩、攻城距離=21.22Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:宇利和利城 (2024/10/03 訪問)

出戸駅から徒歩5分ちょっとで、花塚山古墳石碑前(34.605907、135.562551)に着きました。

宇利和利城(瓜破城)は、楠木正成の3男である楠木正儀の居城とされます。

現在、瓜破東小学校がある場所の西側が城跡と推定されますが、遺構などはまったく残っていなく花塚山古墳の石碑が建っているだけです。
雨の中、攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺岡砦を目指す為、瓜破(うりわり)東口バス停から大阪シティバスを利用して長居西二丁目バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:古河藩陣屋 (2024/10/03 訪問)

正覚寺城(畠山政長墓所)から徒歩20分弱で、平野小学校門脇陣屋石碑付近(34.626457、135.554102)に着き、その後、大念仏寺移築陣屋門(34.626536、135.551423)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、天明年間(1781年〜1789年)に下総国古河藩土井氏によって築かれました。
下総国古河藩土井氏の飛領地12,635石を管理するための陣屋でした。

古河藩陣屋は現在の平野小学校付近に築かれていましたが、ここには遺構はなく小学校の門脇に陣屋の石碑が建っているのみです。
遺構としては、かつての陣屋門が近くの大念仏寺に移築され現存してます。
雨の中、攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=宇利和利城を目指す為、平野(地下鉄)駅から電車で出戸駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:正覚寺城 (2024/10/03 訪問)

平野(関西本線)駅から徒歩10分ちょっとで、旭神社鳥居前(34.631220、135.558343)に着き、その後、畠山政長墓所(34.631662、135.561104)に向かいました。

正覚寺城は「応仁の乱」を引き起こしたともいわれる、畠山政長の最後の地として知られています。
1493年(明応2年)に起きた「明応の政変」における「正覚寺合戦」の舞台でもあります。
それに先立つ1477年(文明9年)に政長が正覚寺に陣を置き、畠山義就と争った際に城郭化されたものとみられています。

現在城跡には旭神社があり遺構は残っていませんが、境内の神木脇に城址碑が建てられています。
畠山政長墓所はフェンス等の中で、中に入ることはできませんでした。
雨の中、攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=古河藩陣屋へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:久宝寺城 (2024/10/03 訪問)

八尾城から徒歩15分くらいで、城址碑付近(34.629825、135.586510)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、畠山家国によって築かれたと云われています。 家国の子孫畠山満基の長子満貞は渋川郡を領して渋川満貞と名乗り久宝寺城に居城したそうです。
渋川満貞の子光重(光貞とも)は播磨国安井郷を領して移り安井氏を称しました。光重のあと、光長、光行と続き、安井定継のときに久宝寺城に戻ったそうです。
安井定継の子定重・定正兄弟は織田信長に仕えましたが、1577年(天正5年)本願寺の兵によって攻められ定重は討死、定正もこのときの傷がもとで没しました。
安井氏はその後も久宝寺寺内の支配権を有して江戸時代まで続いています。

久宝寺城は久宝寺寺内の一角に築かれていたそうです。
遺構はなく、細い路地脇に石碑と案内が建っているのみです。
電車の時間が迫っていたので、攻城時間は2~3分くらいで速攻撤退でした。次の攻城先=正覚寺城を目指す為、久宝寺駅から電車で平野(関西本線)駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:八尾城 (2024/10/03 訪問)

近鉄八尾駅前バス停から徒歩10分弱で、八尾神社鳥居前(34.630073、135.599692)に着き、その後、常光寺にある大阪夏の陣古戦場碑前(34.630598、135.598243)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、八尾別当顕幸によって築かれたと云われています。
顕幸は当初北朝方として小山城の志貴右衛門などと対立していましたが、1333年(正慶2年)頃には南朝方となり、敗れて八尾城は北朝方の城となったそうです。
その後の動向は定かではないようですが、1573年(天正元年)若江城主であった三好義継が織田信長の家臣佐久間信盛によって攻められると、若江三人衆の裏切りもあり若江城は落城しました。
この三人衆の一人池田丹後守教正が信長から八尾城を与えられています。1584年(天正12年)小牧長久手合戦では池田恒興に従って参加しており、合戦後は家督を継いだ池田輝政に従って美濃国へ移り八尾城は廃城となりました。

八尾城は現在の八尾神社から西の常光寺一帯に築かれていたと云われています。
遺構はなく、八尾神社に石碑、常光寺に「大阪夏の陣古戦場」石碑があるのみです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=久宝寺城へは、ここから徒歩で向かいました。

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にのまる

創建1300年おめでとうございます。 (2024/09/29 訪問)

2016年・2021年に続いて3度目の訪問です。
2021年はまだすっぽりとベールに包まれ、完成時を想像するだけだった南門。
みなさま方のご投稿で南門と築地塀復元の様子を時系列に拝見できるのが楽しくて、来春の一般公開を待ちきれずに行ってきました。

どのあたりまで近づけるのか?
果たして全容を見られるのか?
もしかしたらこっそり覗いて見るだけかも…?と、フライング訪問の不安を抱きつつだったのですが、そんな心配を払拭して余りあるかっこよさでした!
行ってよかった!!

被写体が素晴らしいので拘りのないiPhoneカメラでも、ものすごくかっこよく写ります。
立ち入り禁止なので私自身も入れなかったけれどまわりの皆さんも入れないので“人が入り込まない写真”が撮れたのもよかったです(笑)
ひっそりと佇んでいて初訪問時になかなか見つけられなかった多賀城碑が南門とリンクしたのも驚きでした。
終始ドキドキしっぱなし、ソワソワも止まらない感覚を存分に楽しみました。


前回訪問時に外郭西門~奈良時代の外郭東門跡まで3時間かけて見て歩いた感動と満足感が残っているので南門と政庁跡周辺を見たら今回こそ東北歴史博物館に寄ろうと考えていたのですが、久しぶりに仙山線に乗りたいという気持ちが抑えられず、またしても博物館はパスしてしまいました。

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小城小次郎

長野氏の性格によるものなのか (2024/03/02 訪問)

城の全域を200条以上の畝状竪堀が囲むという知る人ぞ知るクレイジーなお城だが写真映えはすこぶる悪い(腕が悪いせいもあるが)。平氏一門を称し長野の地にとことん執着した粘着質な長野氏の性格が城の姿に現れているような。

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しんちゃん

畑城・番外 脱出編 (2024/10/06 訪問)

奈良県山辺郡山添村の畑城の続きです。主郭の周辺をウロウロ歩き、石垣を発見しました。ぴーかるさんの投稿にあったやつですね。あさん、ぴーかるさん、情報感謝いたします。さあ、これで帰れるぞー。
元来た道を戻って行きます。土塁や堀切などの遺構を確認しつつ先に進みますが、ちょっと変則的な入り方をしてきたので、元来た道から逸れて、西の尾根先からズボッと外に出てきました。今のままだと、ちょっと危ないので、きれいに整備されたらまた来たいかな‥。

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しんちゃん

和歌山城遺構 時鐘堂・御台所 (2024/02/25 訪問)

和歌山城の南側、道路を隔てた岡の上に岡山の時鐘堂があります。正徳2年(1712)五代藩主・徳川吉宗の時に紀州藩によって設置されました。時鐘堂の梵鐘は大坂夏の陣の際に豊臣方が使用した青銅製の大筒(大砲)を梵鐘に改鋳したものとされています。
和歌山市大垣内にある光恩寺は紀州徳川家と縁があり、明治13年(1880)和歌山城から本丸御殿の一部を移設して庫裏を築いたとされています。城内の古絵図から本丸御殿の北西隅にあった御台所であったとされています。

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しんちゃん

柳生定食ライス追加 芳徳寺・柳生家墓所 (2024/11/02 訪問)

柳生城跡の北西に位置する芳徳寺は柳生一族の菩提寺で境内からは柳生家墓所への道が続いています。境内もかつての城址の一部とされ、本堂の背後には土塁が残っています。この土塁も、なかなかの厚さをもっています。
寛永15年(1638)に柳生宗矩と沢庵宗彭によって開かれたとされ、本堂には二人の像が安置されています。寺の中には資料館もあり柳生一族や柳生藩の資料を見ることが出来ます。

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しんちゃん

柳生定食(金)柳生城 (2024/11/02 訪問)

柳生城は戦国期の柳生氏の本城と見られ、北西の芳徳寺や西の柳生正木坂道場も城域に含まれると思います。
芳徳寺の背後には土塁が残り、境内には柳生一族の墓所もあります。城址西側から城域に入ることができ、最初に深い堀切にたどり着きます。北側に南郭(水道施設)があり、さらに北側に主郭があります。主郭の北側にも郭や堀切が存在するようですが、今回は未訪問です。
最初に見た堀切の南にも郭がありますが、かなり藪化が進んでいます。この日は小雨の中の登城だったので、比較的あっさりと済ませています。

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朝田 辰兵衛

パネルの向いている方向に絶景アリ👀 (2024/09/15 訪問)

鎌倉駅から「鎌40」系統のバスに乗り,小坪バス停下車。ここから逗子マリーナの前を通り,向かいました。
まずはパネルがあり,その向いている方向に絶景があります。富士山と江の島のコラボを楽しんでください。私の場合,富士山の冠雪シーズンではなかったので,ちょっと残念ですが…。
ショートカットになるのかわかりませんが,正覚寺を抜けて住吉神社へとたどり着きました。井戸ワキの抜け穴とされるヤグラですが,覗いてみたら光が差し込んでいましたので,抜けられそうです。足元の状態が確認できませんでした。ただ,ジメジメしていましたので,高い確率でヒルが生息していると思われます。
ここのパネルは無残にも倒れていました…。

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/04 訪問)

愛媛+α城廻:第四日(最終日)
※前日広島市内泊

中国城廻の際にすっかり組み込むことを忘れていたので今回の愛媛城廻と組み合わせました
まあまあの上りがある山城で、広大な広さ。ゆっくり全部見るには2,3時間必要かと
民俗博物館でスタンプ押印時に城跡マップをゲットして行程を確認してから行きましょう
毛利元就のお墓や遺構は堀切、土塁、切岸などが多いが、本丸には医師gは気に使われていたと思われる石が散在していた
帰りに麓の清神社で鹿さんに遭遇、逃げないので人馴れしている感じだった

【本日の行程は以下の通り】
8:45広島バスセンター(路線バス:8番乗場)、10:18安芸高田市役所前
 (徒歩8分)安芸高田市歴史民俗博物館(百名城スタンプ 9:00-17:00火休祝翌休)
 郡山城散策(3時間)
13:42安芸高田市役所(路線バス)、15:16広島バスセンター
 広島市内をうろうろ観光
18:08広島(新幹線)、21:59東京

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/03 訪問)

愛媛+α城廻:第三日
※松山城と共に登城、前日松山市内泊

資料館は道後公園駅が近いですが、道後温泉駅からもすぐです。資料館は元NHKアナウンサーの松平さんが案内する数分の紹介ビデオのほか奥には10分程度の河野氏など湯築城の歴史のビデオもあるので視聴をお勧めします
城跡は土塁、堀中心で武家屋敷など復元されています

【本日の行程は以下の通り】
8:00黒門口~戸無門へ登城
 松山城(百名城スタンプは切符売り場横 9:00-17:00無休)
10:30(下城)県庁裏道(登石垣見学)
11:07県庁前(市電)、11:19道後公園駅
 (徒歩1分)湯築城資料館(百名城スタンプは館内 9:00-17:00無休、無料)、湯築城跡散策
13:00道後公園(市電)、13:20,13:32大手町駅(伊予鉄)、13:51高浜
(徒歩10分)14:15松山観光港(フェリー)、16:10呉中央桟橋ターミナル
 (徒歩7分)大和ミュージアム(9:00-18:00火休,祝翌休)
18:02呉(JR)、18:47広島
 泊:広島市内

※松山から広島のフェリーは豪華な内装、座り心地良い椅子でした
 直接広島港行けますが、大和ミュージアムに立ち寄りたかったので呉港で途中下船
 大和ミュージアムおすすめです、1/10サイズの模型やゼロ戦も見どころですが、海底に沈んだままの大和の映像もおもしろい。それに何といっても戦争への警鐘を改めて感じることができました

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/11/03 訪問)

愛媛+α城廻:第三日
※湯築城と共に登城、前日松山市内泊

何度目かの松山城、今回はリフトなど使わず大手門跡から黒門口道を登って登城。途中早速人懐っこい猫が出迎えてくれて挨拶したら「にゃ~ん!」と返事が。後ろ髪をひかれながら戸無門、筒井門(隠門)、太鼓門を経て本丸へ。開城の9時前だったが20人くらい並んでいた。開城時には後ろにさらに何十人も・・・、さすが人気のお城
連立式天守はぐるりと回ることができ、江戸時代のままの柱や床などは残存天守ならでは!野原櫓(中は入れませんでした)や乾門もチェックして、登り石垣のある県庁裏道から下城しました
見どころ満載なので、たっぷり時間を取っておくことをお勧めします

【本日の行程は以下の通り】
8:00黒門口~戸無門へ登城
 松山城(百名城スタンプは切符売り場横 9:00-17:00無休)
10:30(下城)県庁裏道(登石垣見学)
11:07県庁前(市電)、11:19道後公園駅
 (徒歩1分)湯築城資料館(百名城スタンプは館内 9:00-17:00無休、無料)
13:00道後公園(市電)、13:20,13:32大手町駅(伊予鉄)、13:51高浜
(徒歩10分)14:15松山観光(フェリー)、16:10呉中央桟橋ターミナル
 (徒歩7分)大和ミュージアム(9:00-18:00火休,祝翌休)
18:02呉(JR)、18:47広島
 泊:広島市内

※松山から広島のフェリーは豪華な内装、座り心地良い椅子でした
 直接広島港行けますが、大和ミュージアムに立ち寄りたかったので呉港で途中下船
 大和ミュージアムおすすめです、1/10サイズの模型やゼロ戦も見どころですが、海底に沈んだままの大和の映像もおもしろい。それに何といっても戦争への警鐘を改めて感じることができました

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:若江城 (2024/10/03 訪問)

若江岩田駅から徒歩20分弱で、石碑/説明板前(34.654512、135.603831)に着きました。

若江城は畠山基国によって築かれた城で、重臣の遊佐氏が城主をつとめました。
「応仁の乱」の原因ともなった畠山氏の相続争いにはじまり、織田信長が三好義継を攻めた「若江城の戦い」など数々の戦乱の舞台となった城です。
また、義継の死により、三好本家が滅亡した城でもあります。その後、信長による石山本願寺攻めの際には攻略拠点として使用されましたが、本願寺開城・退去後の1583年(天正11年)に廃城となりました。

東大阪市立若江小学校の側に、道を挟んで石碑と案内板がありました。
雨の中、攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=八尾城を目指す為、若江バス停から近鉄バスで、近鉄八尾駅前バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:岡山砦 (2024/10/03 訪問)

大池橋(北)バス停から徒歩10分弱で、御勝山古墳説明板前(34.654107、135.535568)に着きました。

岡山砦は桃谷駅東側の御勝山古墳に、1614年(大坂冬の陣)の際、徳川二代将軍・秀忠が本陣を置いた砦です。
翌年の夏の陣でも秀忠はこの岡山砦を利用し、勝利を収めたことから、従来「岡山」と呼ばれていたこの墳墓を御勝山と名づけられたとされます。

古墳の一部が残っているようですが、柵によって囲われているため中を確認することはできません
遺構は確認できませんでしたが、石碑、説明板が設置されています。
雨の中、攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=若江城を目指す為、生野区役所バス停からバス➡電車を乗り継ぎ、若江岩田駅に向かいました。

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