たじょうじょう

田城城

三重県鳥羽市


旧国名 : 志摩

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①説明板と標柱
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)6日目:田城城 (2024/09/27 訪問)

加茂駅から徒歩7~8分くらいで、九鬼岩倉神社前(34.447153、136.843725)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、田城左馬之助による築城とも、天文年間(1532年〜1555年)に九鬼泰隆(九鬼嘉隆の祖父)による築城とも云われています。
泰隆が死去したのち、北畠具教の援助を受けた豪族によって城は奪われましたが、伊勢に侵攻してきた織田信長の助けを得た九鬼嘉隆が奪還しています。
その後、九鬼氏の本拠地は鳥羽城に移ったため、田城城は廃城になりました。
現在城址には嘉隆によって暗殺された九鬼澄隆の怨霊を鎮めるため、嘉隆の子の守隆が建立した九鬼岩倉神社(九鬼惣領権現)が祀られています。

九鬼岩倉神社の参道入口前に、城跡標柱と説明板があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=坂手村砲台を目指す為、加茂駅から電車で鳥羽駅に向かいました。

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しんちゃん

怨霊が漂っていそう。 (2024/09/28 訪問)

田城城は九鬼岩倉神社が城址とされています。九鬼嘉隆の兄で九鬼家当主・浄隆の城とされ、浄隆の死後、息子の澄隆が家督を継ぎますが、まだ幼かったため成長するまで嘉隆が補佐役を務めたとされています。嘉隆は後に信長に仕え水軍を率いて活躍し第二次木津川口の戦いの勝利にも貢献します。
天正12年(1584)九鬼家当主・澄隆が病死し嘉隆が九鬼家の家督を継ぎます。澄隆の死は嘉隆による毒殺が疑われているようです。
そんな嘉隆も関ヶ原の合戦では西軍に付き、西軍が敗北した際に答志島に逃れ、家臣の勧めで自害したそうです。

田城城を訪問した際には、すでに暗くなってきておりました。なんとなく城址としての雰囲気はありますが、遺構らしきものは見当たりませんでした。

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ぴーかる

田城城 (2024/06/08 訪問)

【田城城】
<駐車場他>加茂川ふれあいパーク3台分あり。
<交通手段>車

<見所>切岸
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅5城目。現地説明板によると田城城は九鬼氏の居城で九鬼嘉隆の兄である当主九鬼浄隆の城でした。浄隆の死後、澄隆が当主となりましたが幼かった為に叔父である嘉隆が補佐役となります。澄隆は不穏な死をしたため嘉隆の毒殺説もあるようです。九鬼嘉隆は志摩国を統一後、鳥羽城が築城されると田城城は廃城となったようです。
 白石一郎氏著の「戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆」を読んで行きたかった城跡です。物語の中では当主浄隆の田城城が志摩の諸豪族に攻められる度に何度も波切城から後詰めに行くことが書かれています。澄隆の代になっても同じように何度も攻められ、ついに田城城・波切城を捨てて澄隆と一族を連れ朝熊山に逃げ再起をはかります。
 城跡は本流の加茂川と支流の河内川に挟まれた段丘に築かれています。小さな直線状の丘の上に細い曲輪が削平されています。九鬼岩倉神社の奥に竪堀状地形(判別できず)があり土塁上も少し凸凹になっています。加茂川は現在は流れが急で当時は海船が入り込めたかどうかはちょっとよく分からない感じでした。期待が大きかっただけに見応え的には少し残念でした。

<満足度>◆◆◇

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じゅんじん

九鬼岩倉神社 (2023/11/18 訪問)

九鬼氏が鳥羽城に移る前の居城になります。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 九鬼泰隆
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な城主 九鬼氏
廃城年 天正10年(1582)
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 市史跡(田城々跡)
再建造物 碑、説明板
住所 三重県鳥羽市岩倉町
問い合わせ先 鳥羽市教育委員会生涯学習課社会教育係
問い合わせ先電話番号 0599-25-1268