うしろやまじょう

後山城

三重県北牟婁郡

別名 : うしろ山城
旧国名 : 紀伊

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①上から見た水門
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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:後山城 (2025/06/01 訪問)

相賀駅から徒歩25分くらいで、長泉寺と集会所の間の道(34.100455、136.225612)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、13〜14世紀頃に新宮荘園の荘司である木本盛房が居として築いたと云われています。
盛房が木元に移ったあとは廃城となり、その跡地に三浦の豊浦左衛門が屋敷を構えたと云われています。現在城址には石積や土塁のほか、石垣の水門が残っています。とのこと。

小山浦集会所の横から登城します。登城口の集会所側に案内板があるのでお見逃しなく(だいぶ傷んでます)
現在城址には石積や土塁のほか、石垣の水門が残っていますが、水門を見つけるのに苦労しました。

電車の時間があったので、長泉寺のナギ(34.100581、136.225366)を見学しました。
境内の説明板によれば、地上1. 2mでの幹周/3. 03m、樹高/15m。
本堂前の境内のど真ん中にナギの木があります。

ナギはイヌマキと同じマキ科の常緑針葉樹。日本一のナギは、同じ紀伊半島にある熊野速玉大社のナギの木で樹齢850年以上とか。
ナギは雌雄異株ですが、このナギは雌株です。ナギは「凪ぎ」(なぎ)に通じることから航海安全を祈願して植栽されました。
また葉は葉脈が平行に走っているために、横方向に引っ張っても切れにくく、このことから夫婦の縁が切れにくいように、昔の人は鏡の裏や裁縫箱に入れてお守りとしたそうです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=長島城へ向かう為、大泊駅から電車で紀伊長島駅に向かいました。

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しんちゃん

石積みがあるのだが (2024/09/29 訪問)

イオさんの投稿にある小山浦集会所の脇の道をひたすら登り、どうもここじゃないと気づき引き返します。橋を渡り「うしろやま城跡」の石碑を確認して、東屋のあたりまでのぼって引き返します。正直縄張りが分かりにくいです。季節も良くないので遺構がわかりにくい、最近夏場が長くなって山城が散策しにくくて困ります(ここは平山城ですが)。
なんとか石積の遺構は確認しましたが、イオさんの投稿にあった「水門」は確認できませんでした。ちょっと残念。ここに来るのは十数年ぶりになりますが、前回は城址にたどりついたか怪しいものがあります。たしか山頂まで登って戻ってきたような‥まったく無駄骨お疲れ様です、我ながら。

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イオ

沢の中の水門 (2021/04/25 訪問)

鎌倉期に木本盛房が築いた城で、木本盛房がこの地を去った後は豊浦左衛門が移り住んだとされます。

小山浦集会所の駐車場に車を駐めさせてもらって登城開始。豊浦左衛門創建と伝わる長泉寺と集会所の間の道を上って行くと、環境防災林整備事業の案内板があり、後山城についての記載もあるんですが、文字がかすれてしまって判読しづらくなっています。案内板から少し行くと津波避難場所に続く舗装道からの分岐があるので、朽ちかけた木橋を渡り、その先の沢に架かる二本目の木橋を渡ったあたりからが城域になります。

木橋を渡ったところには自然石に彫られた城跡碑があります。正しくはこの城跡碑の左側に進むべきところ、右側の登山道を進んでしまい、砂防ダムを過ぎ、東屋に着いたあたりでどうも道を間違えたらしいと気付いて引き返す羽目に。城跡碑から左奥に進むと沢沿いに石積みが見られます。さらに行くと右手に巨石による石塁が続き、その先に後山城最大の見どころの石組みの水門があります。水門の遺構というのはこれまでに見たことがありませんでしたが、沢の間の立地のため、しっかりした水門が必要だったということでしょうか。

下調べで縄張図を入手できずに登城したため、道に迷った上に見落としもあったかも知れませんが、春になり藪化しつつある山中をかき分けて進み、石塁や水門にたどり着いた喜びは格別でした。
 

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 息長氏
築城年 鎌倉時代
主な城主 息長氏
遺構 石垣、水門
指定文化財 町史跡
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県北牟婁郡紀北町海山区小山浦
問い合わせ先 紀北町役場
問い合わせ先電話番号 0597-32-3903