2021/09/30
秀吉VS.家康 小牧・長久手の戦いを知る 【秀吉VS家康 小牧・長久手の戦いを知る】第1回 戦いの概要
聞けば多くの人が「ああ、聞いたことある!」と答えるであろう「小牧・長久手の戦い」。しかし、誰と誰が戦ったのか、どういういきさつでどういう戦いだったのかなど、詳しく聞かれると、「……え?」となるのではないでしょうか。小牧・長久手の戦いは「城をめぐる戦い」と言われるほど、実は多くのお城が関わっているのです。岩崎城学芸員で歴史講座を数多く担当されている内貴健太さんに、たっぷり5回連載で詳しく解説していただきます!第1回は全体的な流れを中心に解説します。 記事中、秀吉側は青色、家康側は赤色で表示しています。
天正12年(1584)、尾張国(現在の愛知県西部)を中心に羽柴秀吉と徳川家康の間で勃発した戦いが「小牧・長久手の戦い」です。両者が直接対峙した唯一の戦いでした。小牧・長久手の戦いは、その戦いの名称にもなっている「小牧」や「長久手」の地だけが戦いの舞台になったわけではありません。実は広範囲に複数の戦いが行われています。
第1回では、小牧・長久手の戦いに至る背景や各地で起きた戦いの概要、全体的な流れを解説していきます。
小牧長久手の戦いに関係する場所は、実はとても広範囲!
本能寺の変後、羽柴秀吉と徳川家康の対立
天正10(1582)年6月2日、京都で起きた「本能寺の変」により、織田信長が天下統一の野望半ばにして、家臣の明智光秀に討たれます。その後まもなく、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉が光秀を討ち果たしました。
6月27日、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀(にわながひで)・池田恒興(いけだつねおき)らが信長の後継者や遺領について、清須にて話し合いを行いました(清須会議)。秀吉は信忠(信長の嫡男で本能寺の変で自害)のまだ幼い嫡男・三法師(秀信)を推し、後継者として擁立します。清須会議の結果を受け、不満を持った信長の三男・信孝に対し、秀吉は信孝と対立していた信長の次男・信雄と手を結びます。
本能寺の変後、清須城(愛知県清須市)は尾張を領有した信雄の拠点となった。現在、正確な位置とは異なるが模擬天守が建つ
天正11(1583)年4月、秀吉は賤ヶ岳の戦いで信孝を支持する柴田勝家を破ります。岐阜城(岐阜県岐阜市)を追われた信孝も自害しました。勢力を拡大していく秀吉に対して、信雄が次第に警戒心を持ち、かつて信長と同盟者であった徳川家康に助けを求めました。家康は織田家を助けるという大義名分ができ、これを承諾します。
織田信雄の三家老殺害
3月9日、信雄方の神戸正武(かんべまさたけ)・佐久間正勝らが、秀吉方の関盛信・一政が守備する亀山城(三重県亀山市)を攻撃することで戦闘が始まりました。徳川軍の酒井忠次や信雄の重臣らは信雄本城の長島周辺が主戦場になると想定、近辺に集結します。家康自身は清須城に入城し信雄と会見、織田・徳川軍は合流し戦いに備えます。
現在、蓮生寺の山門となっている旧長島城大手門。明治時代に城の払い下げを受けて移築されたもの
伊勢における戦い
信雄方の亀山城への攻撃に耐えた秀吉方は、14日には蒲生氏郷・堀秀政・長谷川秀一・滝川一益らの部隊が到着。今度は信雄方の峯城(三重県亀山市)を攻撃します。一方、尾張方面では13日に池田恒興が秀吉の要請にこたえて、城主・中川定成が伊勢に出陣中で不在だった犬山城(愛知県犬山市)を奇襲して占拠しました。羽柴軍は尾張領内に拠点をおくことに成功します。徳川軍は尾張の侵攻に対応中で伊勢方面では抵抗できず、峯城は落城。羽柴軍の伊勢国内への侵攻を許してしまいます。
主戦場が尾張国内へ
美濃金山城主の森長可(もりながよし)も秀吉に呼応し、池田軍と合流します。信雄は池田・森の両者は織田家に味方すると期待していたからか、尾張は無防備の状態でした。家康は急ぎ酒井忠次を尾張へ向かわせます。忠次が小牧方面の状況を偵察したところ、森隊が孤立して犬山城から南下した羽黒に布陣していることが判明。家康はこれを討つため、酒井隊を羽黒に進軍させました。17日、戦いの末、酒井隊の大勝となります。(羽黒八幡林の戦い)
八幡林古戦場(犬山市立羽黒小学校の南にある羽黒八幡宮一帯)。現在は八幡宮が建てられ、現地には往時の雰囲気が漂っている
家康は清須城を防衛するため小牧山を拠点とします。小牧山はかつて信長が城を築いた場所であり、頂上からは尾張を一望できる軍事上の要衝でした。家康は榊原康政に命じて小牧山城(愛知県小牧市)を大規模改修、山の中腹や山麓に堀や土塁、虎口を築造します。その後、蟹清水・北外山・宇田津砦などの砦群が完成しました。
森長可の敗報を聞いた秀吉は大軍を率いて大坂を発ち、27日には尾張に入り、29日に楽田城(がくでんじょう・愛知県犬山市)に着陣します。二重堀・青塚・小松寺山・岩崎山など小牧山を包囲する砦群を築き、諸軍を配置しました。28日には家康も陣を小牧山に移し、29日には信雄も長島から小牧山へ移りました。
三河中入り作戦
伊勢国内では羽柴軍が勢力を伸ばしていましたが、尾張では両軍の小競り合いやにらみ合いが続いていました。この状況を打開するため羽柴方は家康の拠点の一つである岡崎城(愛知県岡崎市)攻めを画策。今岡崎を突けば小牧山の徳川軍はたちまち崩れるだろうと「三河中入り(なかいり。対陣のさなかに、一部の兵を分けて不意をついて攻め入ること)作戦」を実行に移します。4月6日、池田恒興・森長可・堀秀政・三好秀次ら約2万5千の軍勢が岡崎に向けて進軍を開始しました。
家康は7日遅くとも8日のうちには三河中入り軍の行軍状況を把握、これを追撃するため、水野忠重・榊原康政ら先遣隊を編成し、小幡城(愛知県名古屋市)に向かわせました。後日、家康自身も本隊を編成し出発、勝川を経て小幡城に入りました。
4月9日の早朝、三河中入り軍先頭の池田恒興は岩崎城(愛知県日進市)へ差し掛かります。城代・丹羽氏重(にわうじしげ)ら岩崎城兵の攻撃の前に恒興は岩崎城への攻撃を決めます。氏重は池田の大軍を相手に奮戦しますが、最終的に城兵は全員討死しました。(岩崎城の戦い)
しかし、岩崎城における池田軍の足止めが徳川軍の追撃を可能にし、直後の長久手の戦いを引き起こすことになります。
三河中入り軍の進軍をくいとめた岩崎城。岩崎城を攻めた池田・森軍も多くの死傷者を出した。岩崎城の戦いが長久手の戦いにおける徳川軍の勝利につながったといえる。現在、城跡には模擬天守が建つ
同じ頃、小幡城から三好秀次が駐屯する白山林(はくさんばやし)へ向け出撃した徳川軍の先遣隊は、白山林で朝食をとっていた三好隊を襲撃します。不意を突かれた三好隊は総崩れになりました。(白山林の戦い)
三好秀次が本陣を置き、徳川勢の奇襲を受けたとされる「白山林古戦場」(尾張旭市の本地ヶ原神社周辺)
三好隊の敗北を知った堀秀政は桧ヶ根(ひのきがね)の丘陵上に陣を張り、白山林から三好隊を追ってきた徳川先遣隊を迎え撃ちました。地の利を得た堀隊に鉄砲をあびせられ、徳川軍は大打撃を受けます。(桧ヶ根の戦い)
堀久太郎秀政本陣地跡。 三好隊を追ってきた徳川勢を迎え撃つために、堀秀政が陣を構えた桧ヶ根(長久手市坊の後周辺)。桧ヶ根公園内に石碑が建つ
両軍の激戦となった長久手の戦い
家康は色金山(いろがねやま)にて軍議を行い、その後、仏ヶ根に陣を移します。岩崎城から仏ヶ根まで引き返してきた池田・森軍も仏ヶ根付近の高地に布陣し、徳川軍と対峙。織田・徳川連合軍(約9千3百)と池田・森軍(約9千)での激戦になりました。(長久手の戦い)
激戦地となった「長久手古戦場」。 この戦いで羽柴軍は池田恒興・元助、森長可など有力な武将を失った。現在の古戦場公園周辺が仏ヶ根
森長可が井伊直政の配した鉄砲の前に討死。池田恒興は永井直勝、恒興の息子の元助も安藤直次に討ち取られました。長久手の戦いは昼過ぎに、徳川軍の大勝利で終わります。
敗報を聞いた秀吉は大軍を率いて救援に向かいますが、家康は早々に小牧山へ戻ってしまい、なすすべもなく楽田に引き返しました。
信雄を孤立させる秀吉の占領策
長久手の戦い敗戦後、秀吉は家康の在城する小牧や清洲と信雄拠点の長島の連絡線を断ち、信雄を孤立させるため、戦線を尾張西部に移し、織田・徳川方の城の占領策に出ました。
5月7日に加賀野井城(岐阜県羽島市)、9日には奥城(愛知県一宮市)を陥落させました。竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)も水攻めの末、6月10日に無血開城となります。6月16日、滝川一益と九鬼嘉隆(くきよしたか)が伊勢湾から侵入、城主・佐久間正勝不在の蟹江城(愛知県海部郡)を占拠します。蟹江城は伊勢湾一帯の水上交通の要衝地で、家康のいる小牧や清須と信雄のいる長島の中間地点に位置しました。蟹江城の留守を預かる正勝の家臣・前田長定が秀吉に内応し一益を引き入れます。その後、織田・徳川連合軍も蟹江に集結、激しい攻防戦の末、7月3日には蟹江城の奪還に成功しました。(蟹江城の戦い)
長久手の戦いで家康に大敗を喫した秀吉の雪辱戦ともいえる蟹江城の戦い。現在、城跡は住宅地となり、城址碑が静かに佇んでいる
その後しばらく大きな戦闘は起こりませんでしたが、10月になると秀吉は再び伊勢に出陣。信雄方の城を落としながら北上し、長島城に迫りました。
信雄と秀吉 和睦へ
11月に入り、信雄と秀吉が和睦をします。家康は大義名分を失う形となり、戦いは終結しました。翌年、秀吉は関白となり天下統一を推し進めていきます。最終的に家康は秀吉に臣従しますが、その実力を全国の大名に認識させ、豊臣政権下においても強い影響力を持ちました。
小牧・長久手の戦いは広範囲に軍事衝突が行われた大規模戦役であり、約8ヶ月にも及びました。戦いの様相は諸国に伝わり、各地の武将が織田・徳川方か羽柴方に分かれるなど、全国に大きな影響を及ぼした、まさに「天下分け目の戦い」であったといえます。
全体の流れを年表でおさらい!
第2回は「小牧・長久手の戦いにおける織田・徳川軍の城・砦(前編)」です。徳川家康が本陣を置いた小牧山城とその周辺に築かれた砦群を中心に紹介します。
▶第2回 織田・徳川連合軍の城・砦①(小牧山城と周辺の砦を中心に)
▶第3回 織田・徳川連合軍の城・砦②(長島城と伊勢の城を中心に)
執筆・画像提供/内貴 健太(ないき けんた)
岩崎城 学芸員。専門・研究分野は岩崎城、小牧・長久手の戦いの城や砦、城郭全般。岩崎城歴史記念館にて多数の歴史講座や企画展、ワークショップなどを担当。日本城郭検定1級保持。城址散策(主に東海圏)が趣味。