秀吉VS家康 小牧・長久手の戦いを知る 第2回 織田・徳川連合軍の城・砦①(小牧山城と周辺の砦を中心に)

天正12年(1584)、尾張国(現在の愛知県西部)を中心に羽柴秀吉と徳川家康の間で勃発した戦い「小牧・長久手の戦い」を岩崎城学芸員で歴史講座を数多く担当されている内貴健太さんに解説していただくシリーズ。第1回戦いの概要に続いて、第2回、第3回の2回にわたって織田・徳川連合軍の城・砦をご紹介します。第2回である今回は、徳川家康の陣城となった小牧山城とその周辺に築かれた徳川軍の砦、そのほか三河中入り作戦に関連した城を中心に取り上げます。記事中、秀吉側青色家康側赤色で表示します。

天正12年(1584)3月13日に羽柴軍犬山城(愛知県犬山市)を占拠したことを受け、犬山方面からの尾張侵攻を阻止すべく、徳川家康小牧山城(愛知県小牧市)を本陣として蟹清水砦北外山砦宇田津砦田楽(たらが)砦といった砦群を築き、守りを固めます。
対する羽柴秀吉は3月27日には尾張国内に入り、本陣である楽田城(愛知県犬山市)へ着陣。小牧山城を包囲するように、内久保砦青塚砦二重堀砦田中砦小松寺山砦岩崎山砦といった複数の砦を築き、諸軍を配置しました。こうして羽柴徳川両軍が小牧周辺に砦を構えて対峙することになります。

小牧・長久手の戦い,内貴健太

それではまず、織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍の本陣が置かれた小牧山城から紹介します。

小牧山城(愛知県小牧市堀の内) 

小牧・長久手の戦い,内貴健太
小牧・長久手の戦いの際、徳川軍によって築かれた土塁。現在、復元整備がされている

かつて小牧山には永禄6年(1563)に織田信長が築いた先進的な石垣の城が存在しましたが、小牧・長久手の戦いの際、家康によって大改修され、織田・徳川連合軍の陣城へと変貌することになります。犬山方面から侵攻する羽柴軍に対して、家康は尾張北部を防衛する拠点として小牧山に本陣を置くことを決めます。小牧山城は尾張平野を一望できる独立丘陵に築かれた城で、軍事上の要衝地でもありましたが、「織田信長の城を本陣とする」ことに特別な意味があったようにも思います。

『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』 天正12年(1584)3月16日の条には、
「神君小牧山ヲ御本営トセラルベキ二依テ、今黎明康政彼山二至リ、相図ノ烟ヲ揚ケレバ 神君忽小牧山二 御動座有テ、整々ノ陣ヲ設ケ柵ヲ附ラル、峯高カラヌ小山ナレバ諸軍大略麓二屯ス」
とあり、小牧山城において徳川の軍勢が戦に備えている様子も記されています。

家康は家臣の榊原康政に改修を命じ、山の中腹や山麓に堀や土塁・虎口を築造させました。
「三月廿二日、榊原小平太康政、小牧山の砦成就して、家康公江申上けるは、小牧山の砦を敵方江取れ候てハ、国中を見透され候而悪かるべし、早々此方の砦江御移り可然と申上す」(『長久手合戦記』) 

小牧・長久手の戦い,内貴健太
同じく改修された空堀。山頂部分(本丸)を取り囲むように大規模な横堀がめぐる

家康は3月28日に自陣を小牧山に移します。29日には信雄も長島から小牧山へ移りました。
「廿八日、乙巳、小牧へ陣替候」「廿九日、丙午、信雄川内より小牧へ被移候」(『家忠日記』)
これにより、主戦場が尾張国内に移り両軍が対陣することになります。長久手の戦いに家康が出陣した際は、家臣の酒井忠次本多忠勝松平家忠らが守備しました。

小牧長久手の戦い,内貴健太
名古屋市蓬左文庫所蔵の『春日井郡小牧村古城絵図』。江戸時代初期に描かれた小牧山城の絵図。小牧山を取り囲む堀や土塁の様子がよく分かる

小牧山周辺の姥ヶ懐などで小競り合いは起こりましたが、両軍とも対陣したまま大きな動きを見せず、その後も膠着状態が続きます。最終的に小牧山城が戦いの舞台になることはありませんでした。
「秀吉ノ勢三百余リ、雑兵共二千計リニテ小牧山ノ東ノ方へ人数ヲ指向クル、時二小牧山ヨリモ御人数ヲ御指向ケ、姥ヵ懐ト云フ所ニテ迫合ヒアリ」(『小牧陣始末記』)
 
小牧・長久手の戦い,内貴健太
羽柴軍が来襲したとされる姥ヶ懐古戦場(小牧高校と小牧市市民会館の間付近と考えられる)。小牧高校北東にある道端に石碑が建てられている

では次に、小牧山城周辺に築かれた徳川軍の砦を見ていきましょう。

蟹清水砦(愛知県小牧市小牧4丁目) 

小牧・長久手の戦い,内貴健太
昭和20年代までは堀や土塁跡も残っていたとのことだが、その後の開発により宅地や駐車場へと変化。現在は石碑があるのみで遺構は残っていない

かつては織田信安(岩倉城を拠点に尾張上四郡を支配した織田伊勢守家の当主)の居城でした。永禄6年(1563)、織田信長が小牧山に城を築き、清須から居城を移した際には、丹羽長秀の屋敷が置かれたとも伝わります。小牧・長久手の戦い時に、屋敷跡は砦に改修され、徳川家臣の本多広孝らが交代で守備しました。

蟹清水砦にいる本多広孝に宛てた家康の書状に、蟹清水砦・外山砦・宇田津砦の各砦では留守居の者同士で連携して、何かあれば小牧山城まで迅速に連絡するようにとあり、本陣までの連絡体制を強化していたことが分かります。
「蟹之清水・外山村・宇田津村之要害、留守居之者申合、夜ハかきを出し、遠煹を焼、珍事在之付而は、至小巻早々注進可申候」(本多豊後守・穗坂常陸守宛天正12年3月19日徳川家康書状)
 
小牧・長久手の戦い,内貴健太
江戸時代は尾張徳川家の小牧御殿の一部となっていた。初代尾張藩主・徳川義直が鷹狩りの際、この地にあった江崎善左衛門の蟹清水屋敷に立ち寄った。義直は小牧山を望む景観と蟹清水の庭園を気に入り、御殿にしたと伝わる

北外山(きたとやま)砦(愛知県小牧市北外山城前)

小牧・長久手の戦い,内貴健太
砦跡に鎮座する城嶋稲荷(しろしまいなり)の「城嶋」といった呼び名や「城前」といった地名が砦の名残を感じさせる

『張州府志(ちょうしゅうふし)』によると、北外山村に織田信安の居城としてあったが織田・徳川軍がその古城を改修して砦にしたとあります。小牧・長久手の戦い時は、松平家忠が日記の中で「外山へ番(外山での守備という意味)」と数回記録していることから、家臣の松平家忠らが交代で守備していたことが分かります。

小牧・長久手の戦い,内貴健太
「北外山城址」の石碑は、付近の民家の敷地内から移設されたものだという

宇田津(うたづ)砦(愛知県小牧市市東)

小牧・長久手の戦い,内貴健太
現在、民間企業の敷地内に「哥津(うたづ)の森」と呼ばれる小さな森があり、その中に石碑もあるが、一般の見学はできない。画像提供:小牧市教育委員会

『甲申戦闘記(こうしんせんとうき)』には、
「宇田津ト云鞍作リノ上手居住ス故ニ地名トス、(略)宇田津モ名古屋ニ居住シテ今猶在リ、其居住ノ地其祖ヲ祭リテ宇田津明神ト崇ム」
とあり、「宇田津」という鞍作りの名工が居住していたことが地名の由来であると記されています。

『長久手合戦記』
「宇多津といふは、北外山村の内に宇多津屋敷といふ、二方は大沼にて要害堅固の地なり」
との記述が見られ、砦のすぐ横を大山川が流れており、沼や川に囲まれた砦であったと推測できます。本多広孝らが蟹清水砦と北外山砦との交番で守備しました。羽柴軍最前線の二重堀砦に最も近く、記録にない小競り合いも何度かあったと思われます。

小牧長久手の戦い,内貴健太
森は往時の雰囲気を残しており、従業員の憩いの場となっている。画像提供:小牧市教育委員会

田楽(たらが)砦(愛知県春日井市田楽町) 

小牧長久手の戦い,内貴健太
砦跡は長福寺一帯(東側)にあったといわれるが、宅地化され遺構は消滅している 

3月13日、池田恒興犬山城を占拠したことにより、城を落ちのびた犬山城の残党が伊多波刀(いたはと)神社(城址があったと言われる現・長福寺の東側)に集まっていたといわれます。家康が自ら出向いて残党たちを慰め、この地域の豪族であった長江平左衛門の屋敷を改修して砦を造り、守備させたのが田楽砦の始まりとされます。『小牧陣始末記』にも
「神君ニハ田楽村ニ砦被仰付、(略)其時長良平左衛門ト云フ地士有リ、此者モ此所ヲ守ル、(略)田楽ノ砦ハ中川勘右衛門ガ残兵守ルト云フ」
と記載されています。

 
小牧長久手の戦い,内貴健太
田楽砦から小牧山城を望む。田楽砦は徳川軍の砦では東端に位置し、宇田津砦と同様に二重堀砦に近く、「敵方ノ二重堀ノ陣ノ真向ヒ、スレバ田楽ノ砦ハ至極ノ場ト聞ユ」(『小牧陣始末記』)とあり、この砦が重要な地点に築かれていたことが分かる

小幡城(愛知県名古屋市守山区) 

小牧長久手の戦い,内貴健太
現在、城跡には解説板があり、本丸と三の丸の間には堀の痕跡なども残る

大永2年(1522)、織田敏信(※信安の父とも言われています)・信安家臣の岡田重篤(おかだしげあつ)によって築城されました。天文4年(1535)に起きた松平清康(家康の祖父)の「守山崩れ(松平清康が守山城に進軍した際、陣中で家臣に殺害された事件)」以降、織田信光(信長の叔父)の居城となります。『武徳編年集成』 天正12年3月24日の条には、
「廿四日、春日井郡小幡ノ旧城ヲ修シ」
とあり、廃城となっていた小幡城は徳川軍によって改修されることになります。

別の史料には、
「小幡には織田信光の古城の跡あり、直に砦を御取立本田豊後守広孝を入置る、参州江通路として岩崎迄ハ遥き故、小幡の砦にて是を繋」(『長久手合戦記』)
とあり、三河へ向かうための繋ぎの城として活用されていたことが分かります。
小幡城は三河中入り(なかいり。対陣のさなかに、一部の兵を分けて不意をついて攻め入ること)軍を追撃する徳川先遣隊家康主力部隊の出撃の拠点、また長久手の戦い後、家康が小牧山へ帰陣するための休息の城として、一時的ではありますが重要な役割を果たしました。

また、秀吉が北陸にいる丹羽長秀に宛てた書状には、
「去六日に池勝入・森武・孫七郎・左衛門督人数弐万四五千にて、至小幡表差遣、小幡城二ノ丸迄攻入、首百余討取」(惟住長秀宛天正12年4月8日羽柴秀吉書状)
とあり、4月6日に三河中入り軍池田恒興森長可らが小幡城の二の丸まで攻め込んだと記されています。しかし、この時の小幡城攻めは他の史料では確認できず、これは誇張表現だと考えられますが、「小幡城を攻めた(それも二の丸まで)」と誇張するほど、徳川方の重要な拠点の一つとして認識されていたのかもしれません。
 
小牧長久手の戦い,内貴健太
城の北側から本丸方向を見上げると、規模の大きさが分かる。現在、本丸跡には老人施設が建つ

岩崎城(愛知県日進市岩崎町市場) 

小牧長久手の戦い,内貴健太
現存する岩崎城の空堀。市街地にある城にもかかわらず、大規模な堀や土塁が比較的良好な状態で残っている城は尾張地方においてそう多くはない

織田信秀(信長の父)による築城とされ、享禄年間(1528~1532)には城が存在していたと思われますが、正確な築城年代は不明です。天文7年(1538)頃、日進市域の土豪であった丹羽氏清が入城して以後、代々岩崎丹羽家の居城となりました。
岩崎城は小牧・長久手の戦い前後の時期で大きく改修が加えられ、総構を有する城になりました。馬出や出曲輪など複数の曲輪、広く深い堀、櫓台などが造成されています。

4月9日の早朝、三河中入り軍先頭の池田恒興は岩崎城へ差し掛かかります。城代・丹羽氏重ら岩崎城兵の攻撃を受け、恒興は岩崎城を攻撃すると決め、岩崎城の戦いが起こりました。氏重池田軍を相手に奮戦しますが、最終的に氏重以下城兵約300人は全員討死しました。

丹羽家の史料からは、氏重が疱瘡を患いながらも刀を取って奮起する様子や池田の進軍を阻止するため立ち向かうその覚悟が見て取れます。
「是時氏重患疱瘡、膿血尚未乾、急執刀奮起、氏重之母見氏重在病而尚驍勇無所畏怯、軽死将赴敵喜歎交至曰、今兄氏次従徳川殿家康于小牧、使汝留守当城為任既重矣、願善遮駐勝入等之兵、以死報君、則倶死亦不以為恨、因取鎧授氏重、領意訣別」(『丹羽氏軍功録』) 

また『当代記』には、徳川に忠義を尽くして討死した岩崎城兵を称える記述も見られます。
「四月九日、於岩崎表討死之時見之、誠に士の本意、哀なりし事共也」

岩崎城での三河中入り軍の足止めが功を奏し、追撃してきた徳川軍池田・森軍との間で長久手の戦いが起き、結果家康の勝利を導きました。
 
小牧長久手の戦い,内貴健太
櫓台の上に立つ表忠義碑。石碑に刻まれた「表忠義」の題字は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の書である。岩崎城の戦いにおける徳川家への忠義が記されている

ここまで小牧・長久手の戦いにおける徳川軍の城や砦を紹介してきました。この時期に複数の古城が砦として改修されたことはお分かりいただけたかと思います。
また、この戦いで築かれた砦の多くが平地部あるいは集落に近い丘陵部にありました。特に徳川軍が小牧周辺に築いた砦は、その後の開発行為によりほとんど残っておらず、未だ詳細が分からないのが現状です。しかし実際、その場所に足を運んでみると、敵味方の砦の距離感やそこに砦が築かれた理由など、両軍がどのように対峙していたのか、その様子を窺い知ることができます。

第3回は、「織田・徳川連合軍の城・砦②(長島城と伊勢の城を中心に)」です。織田信雄の居城である長島城(三重県桑名市)や信雄の領国・伊勢における戦い、その舞台となった城を紹介します。

▶第1回「第1回 戦いの概要」はこちら(https://shirobito.jp/article/1417)をご覧ください。

■記事中の史料一覧■
・『武徳編年集成』 
木村高敦(1680〜1742)、江戸幕府の幕臣。徳川家康の一代記を記す。天文11年(1542)~元和2年(1616)までを編年体で記述。8代将軍・徳川吉宗に献上された。

・『長久手合戦記』
丹羽氏次(1550~1601)、天正13年(1585)に岩崎城主の丹羽氏次が記したとされ、その後氏之・氏張が追記。岩崎城の戦いにおける氏重の奮戦や戦死者、家臣団などを記す。

・『家忠日記』 
松平家忠(1555〜1600)、徳川家康に仕えた家忠の日記。天正5年(1577)〜文禄3年(1594)まで、家忠が体験したことを基に記述。日常生活から合戦の様子まで幅広く記されている。

・『小牧陣始末記』
神谷存心(1646~1729)、存心の口述を門人が筆記したもの。存心の祖父は水野忠重に仕えていたとされる。合戦の経過などを詳細に記す。明治22年(1889)に戦史研究の資料として刊行。

・『張州府志』 
尾張藩の官撰地誌、尾張藩主・徳川宗勝の命で作成された。宝暦2年(1752)成立。古城や古戦場、郷村について詳しく記されている。

・『甲申戦闘記』
三浦浅右衛門(年不詳)、水戸藩主の使者として尾張藩主・徳川宗勝の病気見舞いに訪れた折、地元の者に長久手の戦いの詳細を聞き取り作成。宝曆13年(1763)田中平右衛門の奥書による。

・『丹羽氏軍功録』
丹羽氏福(1762~1843)、寛政2年(1790)編纂。丹羽氏従から氏信までの事績が記されている。長篠の戦いや小牧・長久手の戦いなどにおける丹羽氏代々の武功を詳細に記録。

・『当代記』
著者・成立ともに詳細は不明、戦国時代末期から江戸時代初期の政治や社会の状況を編年体で記す。

執筆・画像提供/内貴 健太(ないき けんた)
岩崎城 学芸員。専門・研究分野は岩崎城、小牧・長久手の戦いの城や砦、城郭全般。岩崎城歴史記念館にて多数の歴史講座や企画展、ワークショップなどを担当。日本城郭検定1級保持。中日文化センター講師。城址散策(主に東海圏)が趣味。

関連書籍・商品など