秀吉VS.家康 小牧・長久手の戦いを知る 第3回 織田・徳川連合軍の城・砦②(長島城と伊勢の城を中心に)

天正12年(1584)、尾張国(現在の愛知県西部)を中心に羽柴秀吉と徳川家康の間で勃発した戦い「小牧・長久手の戦い」を岩崎城学芸員で歴史講座を数多く担当されている内貴健太さんに解説していただくシリーズ。第2~3回は織田・徳川連合軍の城・砦をご紹介しており、第3回の今回は小牧・長久手の戦いで織田信雄の居城となった長島城と信雄の領国・伊勢における戦い、その舞台となった城を中心に取り上げます。記事中、秀吉側は青色、家康側は赤色で表示します。

【シリーズ一覧】
第1回「第1回 戦いの概要」https://shirobito.jp/article/1417)で、戦いの大まかな流れが分かります!
第2回「第2回 織田・徳川連合軍の城・砦①(小牧山城と周辺の砦を中心に)」https://shirobito.jp/article/1457)で、家康側の本陣あたりをご紹介しています。

【全体の流れを年表でおさらい ※赤で囲ったところが今回の記事に関連する箇所
小牧長久手の戦い,内貴健太

小牧長久手の戦い,内貴健太

小牧・長久手の戦いの緒戦は織田信雄(おだのぶかつ)の領国である北伊勢で勃発することになります。天正12年(1584)年3月9日、信雄の重臣・佐久間正勝蟹江城(愛知県海部郡)城主)や神戸正武(かんべまさたけ・神戸城(三重県鈴鹿市)城主)らが秀吉方関氏が守備する亀山城(三重県亀山市)を攻撃しました。
九日、信雄ノ長臣佐久間駿河守正勝及ビ山口半左衛門重政五千余亀山城二押寄、城下ノ商屋ヲ放火シ(『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)』)

勢州軍記』には神戸正武が約5百の軍勢を率いて亀山城を攻撃する様子も描かれています。真偽の程は不明ですが、関盛信一政らが自ら亀山の町を焼き払い、その煙に紛れて少数の関勢が敵中に乱入し、神戸勢を追い崩したという逸話もあります。

小牧長久手
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として、激しい攻防戦が繰り広げられた亀山城。北伊勢の滝川一益は織田信孝・柴田勝家に呼応し、当時は滝川方の城となっていた。羽柴軍が亀山城を攻める際、金掘り(鉱夫)を入れて櫓を掘り崩したともいわれる。現在、本丸東南隅の多門櫓や石垣などが良好な状態で残っている

羽柴軍先手として出陣した蒲生氏郷らの援軍が来るまで、亀山城では籠城戦が行われていました。秀吉関一政らが防戦した旨を承知しています。
其城へ取懸候処二、堅固二相踏、無異議候由尤候(關兵衛(せきひょうえ・関一政のこと)宛天正12年3月12日付羽柴秀吉書状)


峯城(三重県亀山市川崎町)

信雄方の攻撃に耐えていた亀山城のもとに、羽柴軍蒲生氏郷堀秀政滝川一益ら約1万の軍勢が到着します。佐久間正勝らは峯城まで退却、今度は逆に蒲生軍の激しい攻撃を受けることになります。
十四日、辛卯、北伊勢亀山堀久太郎・長谷川藤五郎・滝川・ひのゝ掃部働候て、尾州衆おひはらい、嶺の城迄のき候由候、三百余被討捕候(『家忠日記』)

大三川志(だいみかわし)』には峯城攻防戦の一部始終が見受けられ、
一益命シテ一斎二進ミ城兵ヲ追ヒ附入二シテ城ヲ抜ントス城兵能戦ヒ城際二テ大返シテ奮戦ス
羽柴軍を相手に佐久間正勝らが城の内外で奮戦している様子が記されています。創作か否か、最期を悟った佐久間正勝が自害しようとした際、山口重政が説得するという場面もあります。

小牧長久手の戦い,内貴健太
峯城は信雄の北伊勢における前線の城であり、羽柴軍を迎え撃つ重要な拠点であった。峯城も亀山城と同様、賤ヶ岳の戦い時に激戦の舞台となっている

しかし、蒲生軍の猛攻に耐えきれず峯城は数日のうちに落城、羽柴軍の伊勢国内への侵攻を許してしまいます。この峯城攻めに関して、戦いに加わっていた関一政らの奮戦を称える秀吉の書状が残っています。
昨日巳刻、於大峯表被為一戦、息時首数多取勝由神妙之至候(関右兵衛宛天正12年3月15日付羽柴秀吉書状)

小牧長久手の戦い,内貴健太
現在、峯城には櫓台や屈曲する土塁、桝形虎口といった遺構が残る。天正11~12年頃に発達した築城技術が導入されたと思われる

神戸城(かんべじょう・三重県鈴鹿市神戸)

神戸城も峯城と同じく信雄の前線の城になります。神戸城といえば、織田信長の三男・織田信孝が神戸氏の養子になり、信孝がその後居城したことで知られます。小牧・長久手の戦い時は神戸正武が城主となっており、神戸勢はここから亀山城に向けて出陣しました。
亀山で戦闘が開始されたことを受けて、信雄は桑名に着陣していた水野勝成刈谷城主)に、次の戦場として想定される神戸への加勢を要請しています。
水野藤十郎(勝成)、申刻桑名まて著陣之由、則神戸江加勢として(土方彦左衛門宛天正12年3月13日付織田信雄書状)
その後、勝成の神戸城普請に何か怠慢が見受けられたのか、信雄が城の完成を催促する書状なども残っています。
請取口之普請由断之様二聞え候、(略)早々出来候様二被申付尤候(水野藤十郎宛天正12年3月17日付織田信雄書状)

小牧
天守台の石垣は自然石を用いた野面積み。天正8年(1580)頃、織田信孝が神戸城の修築を行い、石垣を持つ城へと変貌させたといわれる

しかし、城主・神戸正武も峯城が落城したとの知らせを受けて、城から撤退してしまいます。
嶺ノ城落タリシカバ、是ヲ聞伝テ神戸ノ城二篭リタル、林与五郎モ城ヲアケテ濃州へ落ユキ(『東武談叢(とうぶだんそう)』)
神戸城も20日までには落城し、秀吉方滝川一益に奪われてしまいました。

小牧長久手の戦い,内貴健太
現在、城跡は神戸公園として整備されているが、本丸周囲では土塁や水堀などを見ることができる

さらに信雄領の南伊勢への侵攻を防ぐ拠点であった安濃津城(あのつじょう。津城の別名)の城主・織田信包(おだのぶかね・織田信長の弟)が秀吉方に呼応したことで羽柴軍の伊勢攻略が加速する形となります。

松ヶ島城(三重県松阪市松ヶ島町)

かつて織田信雄が居城としていた松ヶ島城。信雄が長島城に本拠を移した後は家老の津川義冬(つがわよしふゆ)が城主となっていました。しかし、義冬は信雄の手で殺害され、松ヶ島城には信雄方の滝川雄利(たきがわかつとし)が入城します。
氏郷記』によると、蒲生氏郷の軍勢が3月15日に松ヶ島城へ押し寄せ、城を幾重にも取り囲んだとされます。しかし後日、秀吉の命で氏郷を含む大勢は尾張方面に移動、残留した羽柴秀長(秀吉の弟)、筒井順慶織田信包九鬼義隆(くきよしたか)田丸直昌(たまるなおまさ)らの軍勢が城を攻めました。
船手之義者、九鬼、其方此人数以、船を寄、これも柵もかりを結せて、不北様二可被仰付候(田丸直息宛天正12年3月17日付羽柴秀吉書状)

次の秀吉の書状からは、九鬼義隆率いる九鬼水軍による海上封鎖も含め、松ヶ島城が約2万の羽柴軍に包囲されている様子が分かります。
松賀嶋一城瀧川三郎兵衛尉相籠居申候を、市場儀者不及申、惣城乗破、天守計江追上、弐万余二てとりまかせ置申候事(池勝入宛天正12年3月20日付羽柴秀吉書状)
やや誇張表現が含まれているかもしれませんが、この内容を信じるのであれば包囲されて5日後の20日には天守を残すのみとなっていたと思われます。

小牧長久手の戦い,内貴健太
かつては金箔瓦で飾られた五層の天守が存在したとされる。天守山と呼ばれる台地状の地形に当時の面影が残る

家康から派遣された伊賀忍者の頭領・服部半蔵らも参戦していましたが、松ヶ島城への補給路が断たれてしまったこともあり、4月に入ると秀吉方の手に落ちました。
勢州松か嶋儀、三郎兵衛助命(滝川雄利)、城可相渡由種々令懇望候条、(略)助首、城を可請取由申遣候間(惟越州(これえっしゅう・丹羽長秀のこと)宛天正12年4月8日付羽柴秀吉書状)
上の書状の通り、松ヶ島城の城主であった滝川雄利を助命して、明け渡された城を受け取るよう秀吉からの指示が出されています。

長島城(三重県桑名市)

長島城は織田信雄の本城になります。清須会議で信雄は尾張国を相続し、清須城を拠点としていましたが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで織田信孝が自害した後、信雄はその領地を没収、尾張・伊勢・伊賀の3国を領有します。その際、本拠を清須城から長島城に移しました。天正12年(1584)に信雄秀吉に通じる自身の3家老を殺害したのもこの城です。

こうして小牧・長久手の戦いは北伊勢で開始されることになりました。信雄の重臣である佐久間正勝をはじめ、中川定成といった犬山城主までもが桑名方面に出陣しています。また、徳川軍に関しても先陣の酒井忠次松平家忠が3月14日に伊勢の桑名に到着しており、このことからも織田・徳川連合軍が桑名周辺に集結していたことが分かります。これらのことから、当初は信雄方秀吉方信雄の本城・長島城近辺が主戦場になると想定していたと思われます。
十四日、辛卯、桑名へ出陣候処、犬山城池田紀伊守取ていちへ川より帰り候、酒左ハ被返候(『家忠日記』)

小牧長久手の戦い,内貴健太
本願寺派寺院の願証寺が自治する領域となっていた長島。かつての寺跡は明治時代の河川改修工事で水没してしまい、現在の願証寺とは異なる。寺縁のある寺が「願証寺」を引き継ぎ、現在に至る。境内には当時の激戦を偲ぶものとして「長島一向一揆殉教之碑」が建てられている

かつて織田信長を長期にわたって苦しめた長島一向一揆(1570~74)。本願寺の顕如が信長に敵対したことで、それに応じた長島の一向宗門徒が蜂起。その一揆勢が籠った城こそが長島城でした。
尾張国河内長島と申すは、隠れなき節所なり。濃州より流れ出づる川余多有り。岩手川・大滝川・今洲川・真木田川・市の瀬川・くんぜ川・山口川・飛騨川・木曾川・養老の滝、此の外、山■の谷水の流れ、末にて落ち合ひ、大河となつて、長島の東北西五里・三里の内、幾重ともなく引き廻し、南は海上漫々として、四方の節所申すは中■愚かなり。(『信長公記』)(注:■=くの字点)
多くの河川が入り乱れ、川中に形成された無数の中洲(島)が、一向宗門徒の拠点となりました。

小牧長久手の戦い,内貴健太
江戸時代、長島城の本丸隅に位置していたとされる樹齢約300年を超えるクロマツ 

天正12年(1584)10月下旬になると、秀吉は再び伊勢に出陣。信雄の城を落しながら北上を続け、長島城に迫ります。秀吉はいよいよ長島城を攻略するための城や砦を数ヶ所構築し始めます。
今度北伊勢へ秀吉出馬、敵城一ヶ所アルニ付、城あまた被申付也、然処三介殿ヨリ懇望二ヨツテ和平二相調(『顕如上人貝塚御座所日記』)

最終的には秀吉のこの動きを信雄が見て取って、講和を懇願したとされます。

戸木城(へきじょう・三重県津市戸木町)

信雄方で唯一、戦いが終結するまで落ちなかった城です。天正12年(1584)6月に蒲生氏郷が南伊勢の領地を得て松ヶ島城に入城しました。しかし、南伊勢には木造氏(戸木城主)など未だ信雄方の抵抗勢力が残存していました。そのため、木造氏との間で起きた戸木城の戦いは蒲生氏郷にとって南伊勢平定の戦であったともいえます。
戸木城は南に雲出川(くもずがわ)が流れ、西は深い谷、北は深田という自然地形を生かして築かれた城です。東には大きな堀を造ることで四方の守りを固めていました。
此城南は、出雲川岸阻ち両淵深し、西は伊奈白川(稲代川)水をたたへ谷深く、北は深田、東は漂々たる広野なるを処々堀切って柵をくみ、寄手攻め抜き難く」(『改正三河後風土記(かいせいみかわごふどき))

小牧長久手の戦い,内貴健太
現在の津市立戸木小学校付近が戸木城の主郭にあたる

木造記』によれば、
木造左中将具康ハ戸木の城に楯篭、嫡子右中将具政ハ木造の城に楯篭りしか、具政申けるは、僅の勢を二ツに分て、両城に篭り候而者、大敵防き難かるへし、如何有へしと相談し給ヘハ、具康、尤也、左あらバ要害よく得は、戸木の城へ一所に篭城すへき也とて、具政木造の城を開て、戸木の城に楯篭る(※具康に関しては長政との説も)
とあり、木造氏には本城の木造城がありましたが、少数の軍勢を分けるのはよくないというので、要害の地にある戸木城に籠城することになった、と記されています。

伊勢侵攻が順調に進んでいく最中、秀吉木造氏が籠る戸木城の攻略に手こずっており、付城(つけじろ・攻城戦のための城)を複数普請するよう命じています。
木造之城未相済由候、民少被相談、取出四ツ可被申付候(津田四郎左衛門尉・富田平右衛門尉・八重羽左衛門尉宛 天正12年4月12日付羽柴秀吉書状)

小牧長久手の戦い,内貴健太
戸木小学校敷地内には城址碑が建つ(関係者以外立入禁止)

天正12年(1584)5月に入り、蒲生軍木造氏の支城である牧城・川方城・宮山城などを落城させ、戸木城に迫ります。木造軍約1千人に対して、蒲生氏郷織田信包を総大将として、約2万の大軍で攻め掛かりました。
しかし、木造勢は度々夜襲をしかけるなど巧みな戦術で抵抗を続けます。最終的には秀吉信雄の和睦により、戸木城は開城しました。
勢陽雑記(せいようざっき)』には
一騎当千の勇士、其外隣郷に有合ふ遊客のあぶれ者共、猛威を一度に震ひしかば、寄手毎度利を失ひ、攻屈してぞ見へける
とあり、木造軍には強者が揃っていたとされ、氏郷が自領を平定した後、木造氏旧臣のうち勇士を召し抱えたともいわれます。

織田信雄の領国、北伊勢で開始され、南伊勢まで戦火が広がった小牧・長久手の戦い。序盤は羽柴軍の蒲生氏郷ら先遣隊との戦いが繰り広げられます。氏郷筒井順慶滝川一益らと共に近江や大和、伊勢、伊賀といった各地の兵を率いて伊勢を侵攻しました。信雄方の城を次々と落城させ、早い段階で伊勢の大部分が攻略されてしまいます。伊勢における戦いは秀吉方の圧勝であったといえます。

秀吉としてはこの勢いで伊勢方面から信雄の本城・長島城まで迫ることができたかもしれません。しかし、秀吉は犬山城の占拠をきっかけに尾張方面からの侵攻に路線を変更していきます。
これは推測ですが、秀吉としても長島周辺を主戦場とすることに対して、懸念があったのかもしれません。「長島」という地は、かつて主君の信長が一揆勢の抵抗に苦戦した場所であり、もちろん秀吉もそれを熟知していたと思われます。それに当時、伊勢の一向衆門徒が秀吉に敵対する動きもあったといわれます。
結果的に秀吉は小牧や蟹江からの侵攻を諦め、伊勢方面から長島城に迫ります。その様子を見て取った信雄が講和を決意することとなります。信雄側から人質が差し出され、伊勢・伊賀の一部を除く信雄領の割譲を条件に戦いは幕を下ろしました。

以上、第2回・第3回と2回にわたって織田・徳川連合軍の城・砦を取り上げました。第4回・第5回は羽柴軍の城・砦を見ていきたいと思います。次回の第4回は、「羽柴軍の城・砦①(楽田城と周辺の砦を中心に)」です。羽柴秀吉の本陣を置いた楽田城(愛知県犬山市)とその周辺に築かれた砦群を中心に紹介します。

【シリーズ一覧】
▶第1回 戦いの概要

▶第2回 織田・徳川連合軍の城・砦①(小牧山城と周辺の砦を中心に)

■記事中の史料一覧■
・『武徳編年集成』
木村高敦(1680〜1742)、江戸幕府の幕臣。徳川家康の一代記を記す。天文11年(1542)~元和2年(1616)までを編年体で記述。8代将軍・徳川吉宗に献上された。

・『勢州軍記』
神戸良政(年不詳)、神戸氏一族。良政が氏郷の家臣であった父親の記録をもとに戦国時代の伊勢国の出来事をまとめた軍記物。紀州藩初代藩主・徳川頼宣に献上された。寛永年間(1624~1645)の成立とされる。

・『家忠日記』
松平家忠(1555〜1600)、徳川家康に仕えた家忠の日記。天正5年(1577)〜文禄3年(1594)まで、家忠が体験したことを基に記述。日常生活から合戦の様子まで幅広く記されている。

・『大三川志』
松平頼寛(1703~1763)、陸奥国守山藩2代藩主。頼寛が編纂した徳川家康の伝記。宝暦13年(1763)成立。家康の誕生から死去までを編年体で記す。

・『東武談叢』
著者・成立年代不明。徳川家康の誕生から死去までの事績について、数多くの書物を引用して記述。

・『氏郷記』
著者・成立年代不明。蒲生氏郷の事績を記した軍記物。

・『信長公記』
太田牛一(1527~1613・おおたぎゅういち)が著した織田信長の一代記。牛一は信長に仕えた武士で、信長の生涯を実見していた。首巻および巻一から巻十五まで、信長の幼少時代から天正10年(1582)の本能寺の変に至る信長の事績を編年体で記述。

・『顕如上人貝塚御座所日記』
宇野主水(年不詳)、本願寺11世・顕如の右筆であった主水が記した日記。「宇野主水日記」とも。天正8年(1580)から14年(1586)までの記録が残る。

・『改正三河後風土記』
成島司直(なるしまもとなお・1778~1862)、江戸時代の儒学者。天保3年(1832)、第11代将軍・徳川家斉の命を受けた司直が『三河後風土記』(徳川創業史の一つ)を改撰したもの。

・『木造記』
著者・成立年代不明。伊勢国司北畠氏の一族である木造氏に関する軍記物。北畠顕能(きたばたけあきよし)の次男・俊通が木造氏を称してから天正12年(1584)に居城の木造城が落城するまでの事績を記す。

・『勢陽雑記』
山中為綱(1613~1682)が著した伊勢国の地誌。伊勢国内の様々な地誌情報を記録。津藩2代藩主・藤堂高次に仕えた。為綱は伊勢や伊賀の奉行を歴任。明暦2年(1656)成立。

小牧長久手の戦い,内貴健太執筆・画像提供/内貴 健太(ないき けんた)
岩崎城 学芸員。専門・研究分野は岩崎城、小牧・長久手の戦いの城や砦、城郭全般。岩崎城歴史記念館にて多数の歴史講座や企画展、ワークショップなどを担当。日本城郭検定1級保持。中日文化センター講師。城址散策(主に東海圏)が趣味。

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