2022/05/10
ウモ&ちえぞー!に聞く城旅のコツ ⑪ 大河ドラマで話題!! 明智光秀ゆかりの城をゆく
夫婦二人で6000近くの城を訪れているウモ&ちえぞーさんが、城めぐりの計画の立て方や山城の歩き方などをレクチャーする「ウモ&ちえぞー!に聞く城旅のコツ」。第11回は、2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公として注目を浴びる明智光秀ゆかりの城。光秀の居城や彼が攻略した城などをウモさんが紹介します!
光秀出生の地、東美濃の城
明智光秀の出自はほとんどわかっていないが、通説では土岐氏の一族、明智氏の出身で東美濃地方が生誕地とされる。そのためこの地方には光秀ゆかりとされる場所が多く伝えられている。その光秀が若き頃に暮らした城は「アケチ城」だったという。実はこの地方には「アケチ城」が二つある。一つは岐阜県可児(かに)市の明智城(長山城)、もう一つは恵那市の明知城である。このうち後者は光秀とは直接関係のない遠山氏一族の城という説が有力なので、光秀ゆかりの城としては前者の明智城ということになる。
明智城は比高約50mの丘陵に築かれた丘城で、現在は明智城址公園となっており遊歩道や看板が整備されていて歩きやすい。山頂が本丸で、周囲には二ノ丸や馬場などがあったとされる。あまり明瞭な城郭遺構は無いが、ゆかりの地としてはぜひ訪れておきたいところ。城下の天龍寺は光秀ゆかりのお寺で、一族のお墓もあるのでこちらもぜひ足を運んでほしい。
左/光秀出生の地として知られる明智城。住宅街に隣接した公園となっており全域が整備されていて歩きやすい。ただし遺構は明瞭ではない
右/天龍寺に残る明智一族の墓
余談だが、東濃地方は見ごたえのある城が多く、しかも地元の方によりよく整備されていて見やすい城が多い。先ほど触れた明知城もその一つで、巨大な堀切や畝状竪堀などの遺構が見られる城だ。可児市内にも続百名城に選定された金山城や、久々利城、今城、大森城などの見ごたえのある城が多い。金山城は明智城からもよく見える。せっかく行くなら光秀ゆかりの城とセットで東濃の名城も歩いてみてはいかがだろうか。
左/森長可や森蘭丸(成利)が居城とした金山城。天守台など各所に石垣が残る
右/森氏に仕えた豪族・小池氏の居城である今城。小規模ながら整備が行き届いており、遺構が観察しやすい
光秀終生の居住の地、坂本城
織田信長に仕えるようになった光秀は元亀2年(1571)、近江国志賀郡を与えられ坂本城(滋賀県)を築いた。名だたる信長の家臣でも、最も早く城持ちになったのが光秀だった。坂本城は琵琶湖の南端近くにあり、京と琵琶湖水運を結ぶ重要な拠点であると同時に、信長が焼き討ちした比叡山の真下でもある。光秀には比叡山と坂本の町の抑えも任された。
坂本城は光秀が終生本拠とした居城であり、宣教師ルイス・フロイスも安土城に次ぐ日本2番目の秀麗な城として称賛している。
左/光秀が終生の居城とした坂本城は琵琶湖に浮かぶ壮麗な水城だった。今は公園や宅地になっており遺構はほとんど見られないが、ここから見る琵琶湖の湖面や比叡山は当時の風景を想起させる
右/坂本の街には、城址碑や城から移築されたと伝わる門などが点在する
坂本城は光秀の死後破却され、跡地も宅地などになってしまったため、現在は目に見える遺構はほとんどない。発掘調査の結果、ある程度の規模や縄張は判明しているようだが、現在それを偲ばせる遺構はほとんどない。坂本城址公園には石材が並んでいるが、これがそのまま遺構なのかどうかは不明だ。琵琶湖の水中には石垣の一部があり、異常渇水時には水面に姿を現すこともあるというが、これを見るのは相当に難易度が高そうだ。遺構は無いものの公園には光秀の石像があり、また公園の100mほど北には本丸であったことを示す石碑、その西側にも石碑と解説板がある。またすぐ近くの西教寺の総門は坂本城の移築城門と伝えられ、境内には一族の墓所もある。また来迎寺表門も坂本城から移築されたものと伝わる。
壮麗な坂本城を偲ぶ遺構はほぼ無いが、琵琶湖の湖水を眺めながら、在りし日の坂本城の姿を想像し、その立地を体感すると良いだろう。
苦悩の丹波攻略戦
丹波は山と盆地が点在し、それぞれの地方に領主が割拠する治めづらい国である。元々室町幕府の奉公衆や管領・細川家の家臣も多く、信長の台頭に協力的ではない者も多かった。京に隣接し西国への玄関口でもあった丹波国を平定するため、光秀は信長の命により天正3年(1575)に丹波国に攻め込んだ。順調に丹波の東部を平定し、氷上郡の荻野(赤井)直正の黒井城(兵庫県)を攻撃していた時に、突然背後の多紀郡八上城主の波多野秀治が裏切った。そのため光秀は黒井城攻めを中断し、ホウホウの体で撤退した。そして天正5年(1577)から、第二次の丹波攻めがはじまる。この時光秀は亀山城(京都府)を築いて拠点とし、まずは前回に手痛い裏切りで煮え湯を飲まされた波多野氏の八上城(兵庫県)を攻めた。
八上城は丹波富士と称される美しい山容の高城山に築かれた比高約250mの山城だ。城域はおよそ700m四方ある大型の城郭で、周囲には多数の支城・砦が配置されており、光秀が攻めあぐねたのも頷ける城だ。主郭部分には石垣が用いられているが、これは波多野氏が滅亡した後に光秀の勢力によって改修されたものと考えられている。主郭の南東の尾根に挟まれた谷には水の手とされている神秘的な朝路池がある。各尾根には中ノ壇、茶屋ノ壇、芥丸などの呼称のついた小規模な曲輪が多数並ぶ。縄張はシンプルだが、歩いてみると堅固さは十分に感じられるはずだ。
また南側山麓附近にある奥谷城(兵庫県)は超巨大な堀切が見どころだ。余裕があれば歩いてみよう。また周囲には籾井(もみい)城、安口(はだかす)城、荒木城、淀山城、東山城(いずれも兵庫県)など、波多野氏配下の家臣団の城が多く存在する。いずれもかなり見応えのある城だ。合戦に登場する城もあるので歴史性も十分。1日では到底まわり切れないので数日に分けて歩いてみよう。
左/八上城には光秀によって築かれたとされる石垣が残る
右/八上城が築かれた高城山。左右対称の美しい稜線を描く
丹波攻めのもう一つのハイライトは荻野氏の黒井城だ。荻野氏は丹波西部の船井郡を中心に強大な勢力を奮った丹波屈指の国衆で、中でも黒井城主の赤井直正は「丹波の赤鬼」と恐れられるほどの名将だった。光秀は天正3年の第一次丹波攻めから、天正6年(1578)の第二次丹波攻め完了まで足かけ3年をかけて落城させている。
その黒井城は標高356mの城山にあり、登山口も複数あるが、黒井小学校の北側の登山路が一般的で、よく整備されている。比高は250mほどなので、40分程度で山頂に至る。山頂は非常に綺麗に整備されており、各遺構が見やすい上に眺望も抜群だ。本丸・二の丸・三の丸が連郭式に配置されており、空堀や屈曲させた虎口が見られるほか、要所要所に石垣が見られる。これは光秀が攻略後に織豊城郭として改修したものであるとみられる。
左/光秀が苦戦した丹波の赤鬼・赤井直正の居城・黒井城。比高250mの険しい山城だが全域整備されていて見やすい。石垣は光秀の時代のものとされる
右/整備の行き届いた本丸からは黒井の町が一望できる
そしてこの黒井城のもう一つの特徴は、各尾根に多数の砦・支城を配しており、全山が巨大要塞となっていることだ。中でも、本丸北側の尾根続きにある通称西の丸はそれ自体が立派な一つの山城になっており、織豊系城郭に改修された本城とは異なる本来の土の城の姿をよく残している。さらに尾根を縦走すれば千丈寺砦へと至り、ここにも堀切や土塁がある。この縦走は険しい部分もあって体力も使うが、ぜひトライしてほしい。
なお黒井城は攻略後に家臣の斎藤利三に与えられた。この利三の娘のお福がのちの春日局である。その居館は山麓の興禅寺にあり、館の水堀も見られるのでぜひ立ち寄ってほしい。
もう一つ、少々マニアックな城を紹介したい。国道176号の丹波篠山市と丹波市の境に鐘ヶ坂という峠があり、現在はトンネルが通っているが、ここに光秀の陣城である金山城(兵庫県)があった。この金山城は峠道を扼(やく)する関所的な機能を持っている城であり、遺構としては随所に石垣が残っているほか、城内を街道が貫通していて、その街道を監視するための縄張などの工夫も見られる。そして山頂からは北に黒井城、東に八上城を目視することができ、この城が丹波の強敵であった二つの城を分断するために築かれたことがよくわかる光景だ。城のすぐ脇には「鬼の架け橋」と呼ばれる奇岩もあり写真映えするのでこちらもぜひ立ち寄ってほしい。
左/光秀が黒井城攻略のために築いた金山城。黒井城と八上城という丹波の二大城郭の中間点の峠を押える城だ
右/山頂で見られる奇岩「鬼の架け橋」
丹波の拠点、亀山城と福知山城
光秀が丹波国を治めるために築いた拠点的な城郭が亀山城と福知山城(京都府)だ。いずれも近世に受け継がれ、幕末まで続いた城である。
亀山城は京から丹波への玄関口となる亀岡盆地の小高い丘に築かれた城だ。光秀はここを自身の丹波経営の拠点とした。かの本能寺の変の際も、この亀山城から出陣している。光秀の死後、近世城郭として幕末まで用いられており、2020年2月4日〜2021年1月17日の期間は「ギャラリーおほもと」の入館券(300円)を購入すれば城内を見学させていただくことができる。この期間中は、禁足地にある「明智光秀公お手植えの銀杏」の見学も可能になる(隣接する「月宮宝座」は立入不可)。天守台をはじめ禁足地となっている場所もあるので節度を持って見学しよう。北側の外濠は外からでも見ることができるので、そこから水濠に映る城跡を見て往時を偲ぶのも良い。
福知山城は丹波国の北部、旧天田郡にあり、山陰道の要衝であるとともに、但馬国・丹後国とも接する重要な地である。また由良川を経由して日本海と繋がる水運の要衝でもある。光秀はここに福知山城を築き、従兄弟(諸説ある)の秀満を城主として配置した。福知山城もその後は近世城郭となり廃藩置県まで存続した。さらに元々は舌状台地に築かれていたが、二の丸にあたる東側が宅地開発で地形が大幅に変わってしまったため、光秀の時代とはかなり様相が異なっているのは考慮する必要があるだろう。
左/昭和61年に再建された三層四階の福知山城天守。現在の福知山の基礎を作った光秀は今も親しまれている
右/福知山城の天守台には、宝篋印塔などの転用石が数多く見られる。天守だけではなく天守台石垣もじっくり見て、転用石を探してみよう
この福知山城の最大の見どころは本丸天守台の石垣だ。天守台上には昭和61年(1986)に復元された天守が上がっているが、この天守台をよく見ると宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔、墓石などの転用石が多数使われている。墓石などの転用は他の城でも見られるが、これほど転用石が多くてわかりやすい城は珍しい。これらは光秀時代のものであるとされ、築城に当たって短期で用材を確保するためになりふり構わず石を徴発したものだという。また付近には元々の福知山の領主であった塩見氏の中世城郭・猪崎城(京都府)もあり、土の城の遺構が良く残っている。城跡から福知山城も望むことができるので、セットで立ち寄るといい。
最先端の築城技術が注ぎ込まれた周山城
数ある光秀関連の城の中でも極めつけは京都市右京区の周山城だ。ここは京都市といっても旧丹波国桑田郡にあたり、奥まった山の中ではあるが交通の要衝だった場所である。ここに築かれた周山城は標高353m、比高が250mもある堅固な山城で城域も非常に広い。そして何よりも特筆すべきは総石垣の織豊城郭であることだ。
左/光秀の城の決定版・周山城。総石垣の壮麗かつ壮大な城で、至る所に破城痕があるが西尾根には破城を免れた高石垣があり必見。さらに堀切や小さな土の城もある
右/本丸中央には天守台が残る
石垣は本丸をはじめ中核部に広く見られ、石段のある門跡も明瞭だ。これらの石垣は隅や天端が意図的に破壊されており、破城の痕跡が明瞭に読み取れる。とくに本丸の天守台などは徹底的に破壊されている。これは光秀死後、おそらく秀吉の命で城割(しろわり)が行われたものだろう。築城はおおよそ天正7年(1579)頃とされるから、3、4年程度しか存続せず、当時の織豊系城郭の築城術が見られると同時に、城割の実態が生々しく残っている事例だ。さらに西側には在来の中世山城的な大堀切があり、さらに尾根続きには小さな土づくりの中世城郭が付属する。南側の緩斜面には竪石垣に囲まれた一角があり、後の倭城をも彷彿とさせる。
光秀はこの城に連歌師の宗祇(そうぎ)を招いて月見の宴を催したという。当時はさぞかし壮麗な城であっただろう。月光に映える姿もまた趣があって美しかっただろう。この壮大かつ壮麗な城が当時の最新技術で築城され、光秀の死とともにわずか数年の歴史を閉じ、そのままの姿で現在に残っていることを考えると、この空間だけが天正10年(1582)の空気をそのまま現代に伝えてくれているかのようである。
ここで紹介した以外にも、光秀に直接的・間接的に関係した城は多数ある。須知城(京都府)のように、直接的な史料での裏付けはないのものの、光秀による改修と考えられる城や、光秀の陣城と伝わる城もある。また光秀に敵対した波多野氏や赤井氏らの関係する城郭も多数ある。城だけでなく寺社仏閣や史跡・伝承地も数多くあるので、城めぐりとセットで足跡を追ってみるのも良い。直接光秀に関連しない城でも特に丹波国は遺構の残存度が良いものが多いので、せっかく行くなら一緒に歩くのも良いだろう。
左/光秀の娘・玉(ガラシャ)と細川忠興が婚礼をあげた勝龍寺城。山崎の戦いに敗れた光秀が落ちのびた城でもある
右/光秀が丹波攻略で陥落させた八木城。本丸などに石垣跡が残る
ただし、光秀関連の城や史跡には多くの観光客が押し寄せる事態が想定される。ここでこの文章を読んでいるお城ファンは大丈夫だと思うが、中にはマナー違反をする観光客や、自分の体力やスキルに見合わない登山をして怪我をしてしまうような人もいるかもしれない。そうした事案が重なると本人にとって不幸なばかりか、近隣に迷惑をかけ、城跡も立ち入りや歩ける範囲が制限されたり最悪見学できなくなってしまう事態も十分考えられる。近年のお城ブームの影でそうした悲劇も起きているのが現実だ。ここの読者の皆さんのようなお城を愛するファンには釈迦に説法かもしれないが、多くの人が来るからこそ一人一人が気を付けて、マナーを守って安全で楽しい旅を楽しんでほしい。
執筆:ウモ
新潟県出身。Webサイト「埋もれた古城」管理人。城めぐりを趣味としており、ちえぞーさんと一緒に年間約500城(再訪含む)をめぐり、これまでに約6000城に訪城している。主な執筆協力に『図説 茨城の城郭』(国書刊行会)、『廃城をゆく』シリーズ(イカロス出版)、『完全詳解 山城ガイド』(学研)など。
<お城情報WEBメディア城びと>