逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将まとめ【東日本編】

戦国時代を彩った武将たちと、彼らが関わった合戦や城を紹介する「逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将」。【東日本編】では、東北、関東、甲信越、北陸、東海などの地域でその名を馳せた武将たちををクローズアップし、その波乱万丈の生涯と共に「ゆかりの城」を見ていきましょう。

【伊達政宗】奥州からひそかに天下統一を狙い続けた独眼竜

政宗公騎馬像
仙台城跡に建てられた「政宗公騎馬像」。弦月型と呼ばれる特徴的な兜の前立ては政宗のトレードマークとなっている。派手な意匠を好んだ政宗を指すという「伊達者」という言葉は現在でもお洒落な男性を指す言葉として浸透している

歴代のNHK大河ドラマでも屈指の人気作『独眼竜政宗』で一躍メジャーな存在になった“奥州の覇者”伊達政宗。本能寺の変や関ヶ原の戦いなど時代を大きく左右するような事件の当事者ではないものの、その実力と大胆な生きざまに関しては様々な逸話が残っています。

伊達氏3代が居城とした米沢城(山形県)で生まれた政宗は、幼少期に天然痘に侵されて右目を失明。それでも近侍・片倉小十郎景綱の支えでたくましく成長し、家督を継いでわずか5年で奥州を掌握。天下人・豊臣秀吉や徳川幕府に恭順な姿勢を見せる一方、どうしても天下統一の野望を捨てきれず、仙台城(宮城県)で仙台藩主として領国の経営に心血を注ぎながら、天下をあきらめきれていないような動きも見せていたのです。

仙台城、大手門脇櫓
仙台城の大手門脇櫓(復元)。上杉攻めの褒章であった「百万石の御墨付(上杉氏が所有していた旧領7郡)」を得た上での新たな本拠地として築城された

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第4回【伊達政宗・前編】天下を目指した「独眼竜」はシャイボーイだった!?
第5回【伊達政宗・後編】天下を諦めない政宗は稀代の「愛されキャラ」だった!?

【太田道灌】首都・東京の原点をつくりあげた名将

太田道灌像
東京国際フォーラムに立つ太田道灌像。製作にあたり像のモデルとなったのは、道灌の子孫で掛川藩主となった太田氏の、製作当時の当主だという

現在の江戸城(東京都)を築いたのは徳川家康ですが、その前身となる城は別の武将が築いたことを知っていますか? その人物とは、戦国最初期の名将・太田道灌(おおたどうかん)。連戦連勝を重ねる軍略家でもありながら、和歌にも優れた文武両道の武将だったそうです。

残念ながら道灌時代の江戸城の遺構は、家康が築いた江戸城の下に埋まっていて分かりませんが、当時の史料からその様子を伺うことは可能。道灌が居城とした江戸城は、北の丸から本丸にかけての台地上にあったと考えられています。

江戸城、汐見坂
江戸城本丸と二の丸をつなぐ汐見坂。坂をのぼると本丸に出る

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第8回【太田道灌】江戸城を築いたのは道灌だけじゃない!?

【武田信玄】信長も恐れた“甲斐の虎”の拠点は居館だった

武田信玄像
JR甲府駅に立つ武田信玄像。最強武将にふさわしい堂々とした居住まいである

最強の騎馬軍団を率いて乱世を席巻し、その強さに織田信長・徳川家康も恐れたという“甲斐の虎”武田信玄。隣国・信濃をめぐって上杉謙信と5度にわたって激突した“川中島の戦い”は今も語り草で、最盛期には西の駿河まで侵攻しました。

信玄が拠点としたのは、城ではなく躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(山梨県)という居館。京の将軍御所を模した館造りで枡形虎口などの防御施設を備え、さらに背後には信玄の生誕地でもある詰城・要害山城が強固な防御としてそびえていました。また、各地に築かれた支城には、武田流築城術の特徴が顕著に表れています。

躑躅ヶ崎館
武田神社の本殿は、かつて武田家当主の屋敷があった中曲輪に建てられている

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第9回【武田信玄・前編】父子の相克と龍虎相打つ川中島
第10回【武田信玄・後編】武田家の運命を変えた駿河侵攻

【上杉謙信】軍神が生涯を過ごした居城は意外と不用心?

上杉謙信、春日山城
春日山城に立つ上杉謙信像。頭巾と甲冑をまとった姿で来城者を出迎える

越後守護を補佐する守護代・長尾為景(ながおためかげ)の四男として誕生し、家臣に擁立される形で当主の座に就いた上杉謙信。領内の反乱分子を抑えて越後国を統一した後は信濃や関東へ遠征を行い、武田信玄や北条氏康らの強敵と戦いに明け暮れます。

そんな謙信が生涯を過ごした居城は、日本海を一望する標高約180mの山上に築かれた春日山城(新潟県)。この城は山上が居住スペースになっていたものの、防御施設は曲輪を区切る堀切程度。名だたる武将の居城にしては防御が薄かったようです。

上杉謙信、春日山城
謙信像から見た春日山城の本丸方面。大小様々な曲輪が連なっている

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第1回【上杉謙信】最強武将の居城は意外と防御が薄かった!?

【朝倉義景】栄華を誇った朝倉家を滅亡へと導いた優柔不断なリーダー

朝倉義景
心月寺(福井市)に伝わる朝倉義景の肖像画。朝倉支配下最後の心月寺住職の画賛があることから、義景の没後あまり時間を経ずに描かれたものと考えられている。(東京大学史料編纂所所蔵模写)

越前の戦国大名・朝倉義景には、「蹴鞠大好きな貴族かぶれ」「信長に倒された弱小大名」など、あまり良いイメージがないかもしれません。そうしたネガティブなイメージは一体どこから湧いてきたのでしょう?

義景が生まれたのは、父・孝景が歴代朝倉氏の拠点である一乗谷を「北の京」と謳われるほどの一大都市に育て上げた、まさに朝倉全盛期。16歳で家督を相続した義景は一乗谷城(福井県)を居城に順調な統治を行い、足利将軍家とも深い関係を結んでいましたが、やがて自身の優柔不断な性格から朝倉家を滅亡へと導いてしまうのです。

一乗谷城下町、復原町並
発掘調査をもとに復元された一乗谷の復原町並

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第6回【朝倉義景】信長を追い詰めた男!優柔不断は身を滅ぼす?

【今川義元】“今川の館”は駿府城の下に眠っている?

今川義元像
桶狭間古戦場公園に立つ今川義元像。「海道一の弓取り」の名のごとく弓を携える姿が凛々しい

駿河・遠江・三河という広い領地を支配した“戦国七雄”の一人でありながら、「桶狭間の戦いで織田信長に負けた武将」という残念なイメージが強い今川義元。しかし近年は、甲斐国・武田氏と相模国・北条氏と相甲駿三国同盟を結んだり、領地に京風の公家文化を取り入れるなどの功績が再評価されています。

ところで皆さんは、義元の居城がすぐ頭に思い浮かびますか? 今川氏は今川館を拠点に領国を支配していましたが、桶狭間の戦いで義元が討ち取られた後、居館は武田信玄の駿河侵攻により焼失。さらにその跡地に徳川家康が駿府城(静岡県)を築城・改修したことで、未だに居館の全貌は明らかになっていないのです。

駿府城
現在は公園として整備されている駿府城。静岡県庁別館の展望台からは駿府城だけでなく富士山も一緒に一望できる

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第2回【今川義元】文武に優れた武将の居館の全貌は未解明!?

【武田勝頼】武田家最後の男は“愚将”だったのか?

武田勝頼像
自刃の地・天目山麓田野があるJR甲斐大和駅に立つ武田勝頼像

甲斐武田家最期の当主・武田勝頼。長篠の戦いで優秀な家臣を討死させ、武田家滅亡を招いたことから“愚将”と低い評価を受けてきましたが、実際は父・信玄も認める武功の数々を挙げた優れた武将。しかし、家督相続で重臣たちとの対立に直面してから、彼の生涯の歯車は狂いました。

徳川家康を叩くため高天神城(静岡県)を攻略した勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍と激突。長篠の戦いというと設楽原(したらがはら)での決戦がイメージとして強いですが、その決戦以前からお互いの支城をめぐって激しい攻防が繰り広げられていたのです。

高天神城
高天神城の遠景

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第11回【武田勝頼・前編】なぜオレが?四男に転がり込んできた名門当主の座
第12回【武田勝頼・中編】運命の決戦への道と勝頼の苦闘
第13回【武田勝頼・後編】追いつめられる勝頼と名門滅亡の時

執筆・写真/かみゆ歴史編集部