逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第5回【伊達政宗・後編】天下を諦めない政宗は稀代の「愛されキャラ」だった!?

「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。第4・5回は「独眼竜」の愛称を持つ伊達政宗の生涯を前後半に分けて紹介します。前回の記事では政宗が若くして奥州の覇者となるまでを紹介しましたが、今回はその後半生について掘り下げます。天下という大きな野望を抱えながらも挫折を多く味わうことになる政宗。ですが、決して諦めることなく挑み続ける政宗の姿は多くの人々に愛され、今も「遅れてやってきた英雄」として親しまれています。

▶前編「逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第4回【伊達政宗・前編】天下を目指した「独眼竜」はシャイボーイだった!?」はこちらから!(https://shirobito.jp/article/1391
伊達政宗胸像
仙台市博物館の裏庭にある「伊達政宗胸像」。元々は仙台城に全身像として設置されていたが、太平洋戦争時の金属不足により回収さることに。しかし、結局再利用されることはなく解体された状態で上半身が返還された。現在仙台城跡で見ることのできる騎馬像はこの銅像の2代目として建立された

伊達政宗

秀吉への従属とお家騒動の顛末

摺上原(すりあげはら)で蘆名氏(あしなし)を滅ぼした政宗はその勢いのまま関東への進出を狙います。しかし、中央では関白・豊臣秀吉が政宗に対し怒りの炎を燃やしていました。朝廷の威光を使い、大名同士の争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を掲げたにも関わらず、政宗が武力により奥州を掌握してしまったからです。

天下人として全ての大名を支配下におきたい秀吉としては、まさに政宗は目の上のタンコブ。秀吉は政宗に上洛と釈明を要求しましたが、政宗は家臣のみを上洛させ、自身は関東進出の関門である佐竹氏の攻略の準備を進めていました。

伊達以外にも「惣無事令」に背く諸大名らに秀吉は業を煮やし、ついには反・惣無事令大名の中でも、関東の一大勢力であった北条氏への攻撃を決定します。この小田原攻めへの参陣要請は奥州の諸大名にもかけられ、これを拒めば北条氏と同じく次の攻撃のターゲットとなるのは明白。とうとう政宗は片倉景綱の後押しもあり、参陣を表明。小田原攻めに参加することとなります。 

石垣山城
小田原攻めの際に陣城として使われた石垣山城(神奈川県小田原市)跡。極秘裏に建築され、完成の際に周囲の木を切り倒してまるで一晩で築城したように見せかけたという逸話から「太閤一夜城」とも呼ばれる。秀吉と政宗の謁見もこの城で行われた。現在は「石垣山一夜城歴史公園」として整備されている

参陣の日が近づく中、政宗は疎遠となっていた母・義姫(のちの保春院)に黒川城(福島県会津若松市)での宴に招かれました。前回でも紹介した通り、弟・小次郎(かつての竺丸)ばかりを贔屓する母から見向きもされずに育ってきた政宗としては意外な提案でしたが、大仕事が待っている政宗はひと時の安息として参加することに。

義姫自らが用意したお膳に箸をつけた政宗。すると激しい腹痛に襲われ、毒を盛られたことに気づきます。解毒剤で事なきを得ましたが、この事件により政宗と義姫は完全に決裂。激怒した政宗は義姫の寵愛する弟・小次郎を自ら斬殺し、義姫は兄である最上義光のいる山形城(山形県山形市)へと逃れたのでした。

この毒殺未遂事件により、伊達家のお家騒動はひとまず決着したと伝わっていますが、未だに怪しい部分が多い事件でもあります。反乱分子をあぶり出すための政宗の狂言だった、叔父・最上義光が伊達家を乗っ取るために仕組んだ……などの説がありますが、そもそも義姫の出奔はこれよりも4年も後であるという説が有力視されているほか、この事件が起こったとされる時期より後に交わされた義姫と政宗の文通が発見されていることなどから、毒殺未遂事件の存在そのものが近年では疑問視されています。

わかっているのは、この時期に弟・小次郎が政宗とのトラブルの中で命を落としたという事と、そのトラブルにより政宗の北条征伐への参陣が遅れたという事。やっと従属の意を見せたと思ったら今度は大遅刻してきた政宗に秀吉は激怒し、両者の緊張が高まる中、政宗と秀吉は対面の時を迎えます。

政宗は反省の意を示すパフォーマンスとして髷を切り、死装束を思わせる格好で秀吉に謁見したといわれています。はじめて政宗に対面した秀吉はその心意気を気に入り、自らの杖で政宗の首を小突きながら「もう少し遅れていたらこの首は無かったぞ」と笑いながら言ったとされます。この後、小田原城の攻略方法などを秀吉から聞かされ、処分としては約114万石から約58万石の大幅な減封を言い渡されます。現在の福島県北部、宮城県南部に当たる部分のみの所領となった政宗は米沢城(山形県米沢市)から岩出山城(宮城県大崎市)へと居城を移しました。

岩出山城、伊達政宗平和像
奥州仕置後の政宗の居城であった岩出山城。その城跡である城山公園に建つ「伊達政宗平和像」は終戦して間もない時に仙台城内に建立された。仙台城内に2代目の騎馬像が建立された1962年に城山公園に移設される。戦後の金属不足の最中、セメントを使って造られた白い姿が目を引く

大幅な減封は手痛い処置だったとはいえ、一時は切腹もありえたかもしれない状況から見れば、まだ温情をかけられた方だったという見方もできます。しかし、天下への野望を胸に秘める独眼竜は一筋縄ではいきません。表向きは秀吉に従属するそぶりを見せながらも、豊臣政権に不満を持つ農民の一揆を扇動するなど虎視眈々とその座を狙っていました。

天下を諦めきれない独眼竜

政宗が32歳の時(1598年)、とうとう豊臣秀吉が亡くなり、再び天下人の座は空席となります。しかし政宗より早くその座に王手をかけたのが、のちの征夷大将軍・徳川家康でした。旧豊臣勢力の切り崩しに入った家康と、旧豊臣勢力の筆頭である石田三成が火花を散らす中、家康は上洛を拒んだ旧豊臣勢力の一人、上杉景勝に標的を定めます。豊臣政権下では謀反の疑いをかけられるなど旧豊臣勢力から信用がなかった政宗は、徳川勢にあっさりと乗り換え上杉攻めに参加。領地拡大のチャンスを伺うのでした。

慶長5年(1600)、上杉軍から旧領である白石城(宮城県白石市)を攻城戦の末に奪取した政宗。領地拡大に弾みをつけていく中、同じく上杉攻めに参加した政宗の叔父・最上義光は、直江兼続率いる上杉軍に苦戦を強いられ政宗に救援要請を出しました。しかし、ここでも抜け目ない政宗は家臣・片倉景綱と共に一計を案じます。それは、最上軍と上杉軍をギリギリまで戦わせ、最上軍が敗れ、上杉軍が疲弊したところを一気に攻め込むことで両者の陣地を総取りするというものでした。

援軍を送ったものの、ほぼ最上と上杉の戦いに手を出さなかったという政宗。しかし、ここで予想外の事態が起こります。わずか1日で家康率いる東軍が天下分け目の合戦・関ヶ原の戦いを制したのです。なおも戦闘を続けようとする政宗でしたが、上杉軍の降伏により上杉攻めも終結。さらに家康は政宗がなおも一揆を扇動していたことに気づき、上杉攻めの褒賞も撤回。奪取したわずかな所領しか得られなかった政宗は、天下への道を断たれたことを悟ります。政宗はこの時34歳。確かな実力のみならず、若さという武器をもってしても日の本の天下をつかむことは叶わなかったのです。

山形城、最上義光像
山形城敷地内の最上義光像。政宗の叔父にあたる義光は、政宗と奥羽の覇権を巡ってしのぎを削ったライバルでもあった。伊達軍と最上軍が軍事衝突を起こした時には、妹である義姫を乗せた輿が両陣営の間に陣取り、80日間その場から動かずに和解を説き続けたという血の繋がった一族ならではの逸話も残っている

その後の政宗は、仙台城(宮城県仙台市)を築城し、仙台藩主として伊達家の復興・領国の経営に心血を注いでいきます。家康が江戸幕府を開いた後は、徳川勢力として大坂夏の陣(1615年)で豊臣勢力の討伐に参加するなど、一見は幕府に恭順な姿勢を見せます。

仙台城、大手門脇櫓
仙台城の大手門脇櫓(復元)。上杉攻めの褒章であった「百万石の御墨付(上杉氏が所有していた旧領7郡)」を得た上での新たな本拠地として築城された

ですが、そこは野望の男・政宗。江戸幕府が発布した、居城以外の城を廃城にする法令「一国一城令」が出た時には、ルールの隙間をついて「要害」と冠した実質的な城(伊達21要害)の各地への設置や、スペインとの軍事同盟が目的とされている使節団の派遣など、天下を諦めきれていないような動きも見せています。徳川への謀反も多く企てたとされますが、いずれも未遂に終わっています。

サン・ファン・バウティスタ号
支倉常長を正使としたスペイン使節団は慶長18年(1613)に派遣された。写真は使節団が乗船した「サン・ファン・バウティスタ号(復元)」。実物大の復元模型が「宮城県慶長使節船ミュージアム(宮城県石巻市)」に展示されていたが、2021年内の解体が予定されている

晩年は、能をはじめとした芸事や酒などを嗜みながら過ごしたとされています。すっかり牙を抜かれた様子ではあったものの、家督は生涯譲らなかったことから野心家であった彼の片鱗が伺えます。最期の瞬間は江戸の伊達屋敷で迎え、「少年の頃より死地に多く訪れたが、畳の上で死ねるとは思わなかった」という言葉を残し、70年の生涯に終止符を打ちました。寛永13年(1636)の出来事です。

戦乱の世では、野望を胸に秘めつつ大胆な動きを多く見せた政宗でしたが、実は「愛されキャラ」としての面も多く持ち合わせる人物でした。茶道や和歌を通して多くの武将との交流を持ったほか、「食」に対する深い知識で饗宴の献立を考案し、将軍家をもてなしたとの逸話もあります。その一方で、酒に酔って三代目将軍・家光が主催する宴から無断で帰宅、公家の人々への絡み酒、酔った勢いで家臣を刀の鞘で殴ってしまい、後日反省文を送るなどの失敗談も多く残っています。上手な立ち回りだけでなく、人間味を感じるどこか憎めない部分も彼の魅力の一つと言えます。

政宗の人生を振り返ると、秀吉や家康などの権力者を激怒させるなど多くの命の危機がありましたが、それでも天寿を全うできたのは、武将としての手腕の他にも、「許してやろう」と思わせる魅力が彼にあったからなのでしょう。そして、彼の生き様は今なお多くの人々を魅了しています。「独眼竜」という猛々しい二つ名とは裏腹に、政宗が現代まで多くの人に親しまれている理由は、彼が時代をも超越した「愛されキャラ」だったからかもしれません。
 

政宗の居城と伊達21要害

伊達21要害

【居城】仙台城(別名、青葉城/宮城県仙台市)
元々は戦闘用に築城されましたが、後に藩の行政府として活用されました。「仙台」という名は、唐の伝説に登場する、仙人の住む高台「千代」からもじって政宗が名付けたとされています。現在の敷地内には仙台市街を見下ろす位置に「政宗公騎馬像」が建っており、歴史ファンのみならず多くの人々から「独眼竜の城」として親しまれています。

仙台城本丸
仙台城本丸から見晴らす仙台市街の景色。城と城下町の間には広瀬川が流れ、本丸が位置する青葉山の丘陵と合わせて、地形を活かした堅牢な山城となっている

【支城】白石城(宮城県白石市)
上杉景勝との攻城戦の末に奪取した白石城は、のちに片倉景綱が城主を務めることになります。「一国一城令」が発布された後も、仙台藩は例外が認められ、仙台城とこの白石城を持つことが認められました。復元天守は平成になってから建てられたものであり、大河ドラマ『独眼竜政宗』の人気が復元への後押しとなったそうです。

白石城
続日本100名城にも選ばれている白石城。景綱が城主になって間も無く、上杉から城主が変わったことを恨んだ妖狐が狐火などの怪現象を起こしたという伝承が残っている

【伊達21要害】岩出山城(宮城県大崎市)
「伊達21要害」の一つ。「奥州仕置」の翌年に行われた「奥州再仕置」で米沢城を没収された政宗の新たな居城となりました。仙台城ができるまでの12年間をここで過ごしたとされ、政宗が仙台城に移った後は「岩出山要害」と名を改め、政宗の四男である宗泰の実質的な居城として利用されます。

岩出山城
かつては「岩手沢城」と呼ばれており、政宗の入城時に「岩手山城」に名を改められた。麓には、現存する日本最古の学問所として知られている仙台藩の教育施設「有備館」が残る

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(原田郁未)
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