逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第4回【伊達政宗・前編】天下を目指した「独眼竜」はシャイボーイだった!?

「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。第4・5回は「独眼竜」の愛称で知られる伊達政宗を前後半に分けて紹介します。歴代のNHK大河ドラマでも屈指の人気作『独眼竜政宗』で一躍メジャーな存在になり、テレビゲーム『戦国BASARA』を始め、漫画や小説など様々な作品で主人公として登場している政宗。幅広い年代層から人気を集める武将である彼が、奥州の覇者となるまでの激動の前半生について今回は掘り下げていきたいと思います。

政宗公騎馬像
仙台城跡に建てられた「政宗公騎馬像」。弦月型と呼ばれる特徴的な兜の前立ては政宗のトレードマークとなっている。派手な意匠を好んだ政宗を指すという「伊達者」という言葉は現在でもお洒落な男性を指す言葉として浸透している

伊達政宗

独眼竜が戦国に羽ばたくまで

テレビ朝日系列で放送された「国民10万人がガチ投票!戦国武将総選挙」において並居る武将を押しのけ3位に輝くなど、屈指の人気を誇る政宗。しかし、人気に反して史実での活躍ぶりを知らないという人は多いようです。確かに、「本能寺の変」や「関ヶ原の戦い」など時代を大きく左右するような事件の当事者ではないものの、その実力と大胆な生き様に関しては様々な逸話が残っています。
 
政宗が生まれたのは永禄10年(1567)の8月のこと。伊達家8代目当主・宗遠によって奪取されて以来、伊達氏3代が居城とした米沢城(山形県米沢市)で産声をあげた政宗は、母である義姫(のちの保春院)が出産前に夢の中で見た神仏にあやかり「梵天丸(ぼんてんまる)」という幼名を与えられました。

伊達政宗、米沢城、石碑
米沢城に残る石碑。敷地内に「米沢上杉博物館」があり、上杉家・直江兼続ゆかりの地として有名な米沢城だが、伊達政宗生誕の地としても歴史マニアに親しまれている

幼少期に天然痘に侵され、右目を失明。痘痕面の梵天丸を義姫は忌み嫌い、弟である竺丸(じくまる)に愛情を注ぎました。これらの出来事により幼少期の政宗は劣等感を抱き、内向的な性格だったと言います。しかし、そんな梵天丸を精神的に支え、やがては天下を目指す野望の武将にまで育てた人物が、その後生涯にわたって政宗を支えていくことになる近侍・片倉小十郎景綱でした。

伊達政宗、片倉小十郎景綱
片倉小十郎景綱は生涯にわたって軍師として政宗を支え続けた。武芸に優れ、また笛の名奏者だったとも言われている。写真は景綱の墓所がある傑山寺(宮城県白石市)境内の銅像。その手には愛用した笛「潮風」が握られている

景綱の献身で文武両道に励むようになり、快活な性格になっていく梵天丸。やがて元服した梵天丸は「藤次郎政宗」を名乗り、4年後には金山城(宮城県伊具郡)の相馬氏を相手に初陣を飾ります。この時、政宗は14歳。内気だった少年の面影は何処へやら、鮮やかな采配で父の失地回復戦に尽力していきます。

伊達家当主であった父・輝宗はその姿を見て家督を政宗に譲ることを決心。正式に家督を譲渡したのは政宗18歳の時でした。かなり若くしてその座を得ることになりましたが、これには弟・小次郎(竺丸)を当主に推す義姫一派と、政宗派が一族内で火花を散らしており、その騒動に一刻も早く決着をつけたいという輝宗の事情があったからです。

かくして、独眼竜・政宗は戦国の世に羽ばたいていくこととなったのでした。

家督を継いでわずか5年で奥州掌握を成し遂げた伊達政宗

家督相続後の政宗の活躍に対し、奥州各勢力は警戒を強めていきます。そんな中、二本松城(福島県二本松市)城主・畠山義継によって父・輝宗が拉致される事件が勃発。家臣により義継は討伐されますが、味方からの攻撃に巻き込まれる形で輝宗も命を落とします。この事件には謎が多く残っており、駆けつけた政宗の姿を見た輝宗が「自分ごと賊を撃て」と命じたとも、政宗の陰謀によって打たれた大芝居だという説もあります。

伊達政宗、二本松城
戊辰戦争時の「二本松少年隊」でも有名な二本松城は、政宗の奪取後は片倉景綱らが城代を務めた。しかし後の秀吉の命によりこの城も蒲生氏郷の支配下に置かれることになる。写真は二本松城の箕輪門と附櫓

この事件をきっかけに、伊達氏と、蘆名(あしな)氏・佐竹氏を中心とした奥州各国による反伊達同盟の対立は激化。ついには人取橋で大規模な戦闘に発展しました。

反伊達連合軍3万人に対して7千人弱の兵力の伊達軍。圧倒的な兵力差に苦戦をしいられつつも、伊達軍はこれを撃退。勢いに乗る政宗はそのまま二本松城を落とし、米沢城に凱旋します。これらの戦功によって「独眼竜」の名は広く知れ渡ることになるのでした。

伊達政宗、人取橋古戦場
現在の人取橋古戦場(福島県本宮市)。記念碑に記されている「仙道」とは主に阿武隈川・久慈川の流域にあたる土地を指し、政宗の奥州掌握は「仙道制覇」とも表現される

その後も出羽を席巻した政宗の叔父・最上義光との和睦などを通し、奥州への影響力を高めていく政宗。その地位を決定的なものにしたのは天正17年(1589)、政宗が23歳の時の「摺上原(すりあげはら)の戦い」でした。
 
奥州制覇の最後の障壁であった黒川城(福島県会津若松市)城主・蘆名義広に対して猪苗代湖の畔、摺上原で勝負を挑む政宗。最初こそ圧倒されたものの、みるみるうちに状況は逆転。蘆名義広は佐竹氏の元に敗走し、政宗は黒川城を手中に収めます。

その後、いくつかの和睦を経て、天正19年(1591)には奥州をほぼ掌握。家督を相続してからわずか5年での快挙に誰もが奥州統一は時間の問題だと考えました。ところが、この後に天下人・豊臣秀吉を中心とする時代のうねりが政宗を襲うことに……。

今回はここまで。次回は日本が天下統一へと向かう中での、政宗の挫折と野望をお届けします。

政宗の居城と攻めた城

伊達政宗、居城と攻めた城
 
【居城】米沢城(山形県米沢市)
現存する石垣や土塁などは後に城主となった上杉氏の影響が多く見られ、伊達氏のものというより、上杉氏の居城のイメージが強い米沢城。春には堀沿いに200本もの桜が咲き誇り、冬には「上杉雪灯篭まつり」が開催され、毎年多くの観光客が訪れます。

伊達政宗、米沢城
桜の名所として知られる米沢城。本丸の南側にかかる「菱門橋」は特にフォトスポットして人気

【居城】黒川城(のちの会津若松城、鶴ヶ城/福島県会津若松市)
「会津若松城」として有名な黒川城。黒川城の名は、蘆名・伊達の両氏が城主を務めていた時のものでした。のちに蒲生氏郷(がもううじさと)の手によって改修が加えられ、現在は伊達氏の時代の縄張はほとんど残っていませんが、それでも伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝ら著名な武将の居城として認知されているほか、戊辰戦争での籠城戦の舞台にもなっており、幅広い層の歴史マニアから聖地として愛されています。

伊達政宗、黒川城
黒川城(会津若松城)の再建天守。氏郷の時代に建てられた天守閣が元になっている

【攻めた城】小手森城(福島県二本松市)
小浜城主・大内定綱の支城である小手森城は、天正13年(1585)に「政宗の撫で斬り」と呼ばれる攻撃が行われた現場として有名です。もともと政宗に奉公を申し出た定綱が、蘆名氏に懐柔され裏切ったのが事の発端だとされています。籠城者800余人を皆殺しにするという凄惨な処置は周辺諸大名にも衝撃を与えました。

伊達政宗、小手森城
「政宗の撫で斬り」の3年後、政宗に小手森城の城主を命じられていた家臣・石川弾正が謀反を起こした際の籠城戦の舞台になり、廃城となった。写真は現在の大手口(写真提供:二本松市役所)

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(原田郁未)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中!

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