2021/07/21
逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第2回【今川義元】文武に優れた武将の居館の全貌は未解明!?
逸話とゆかりの城で知る!戦国武将、第2回は駿河・遠江・三河を支配した今川義元! 公家かぶれの武将で、桶狭間の戦いで織田信長に負けた…。と現在ではあまりいいイメージのない義元ですが、実は武田や北条、織田と対等に渡り合えるだけの武将なのです! 今回は彼の勇姿と、未だ全貌が明らかになっていない居城・今川館について解説していきます。
桶狭間古戦場公園に立つ今川義元像。「海道一の弓取り」の名のごとく弓を携える姿が凛々しい
京風文化を構築した、高貴な今川義元の実像に迫る
みなさんは今川義元をどんな武将としてイメージするでしょうか。桶狭間で信長に敗れた、「公家かぶれ」で「軟弱」というように思う人も少なくないかもしれません。このイメージは大人気ゲーム「信長の野望」シリーズに登場した今川義元のグラフィックが置眉を施したビジュアルだったことが理由のひとつ。1994年の“天翔記”が発売してから“天道”で置眉を卒業するまでおよそ15年。この期間で義元の「公家のような風貌」というイメージは確固たるものになってしまいました。武田信玄や毛利元就と並ぶ「戦国七雄」と称されるうちのひとりであるにも関わらず…。
では義元の実像はどのような姿なのか。その生涯を追って行きましょう。義元は駿河・遠江を支配する守護大名・今川氏親の五男(三男とも)として今川館で生まれました。すでに後継ぎがついていたため、義元に家督の継承権はなく、4歳で僧籍に入りました。成長すると、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称するようになります。しかし、家督を継いでいた長男・氏輝が病死すると還俗し名を義元に改め、次兄の玄広恵探と家督をめぐり対立します(花蔵の乱)。争いに勝利した義元は家督を継ぐと、今まで対立関係にあった甲斐国・武田氏と相模国・北条氏と相甲駿三国同盟を結びました。
内政にも力を入れており、父・氏親が制定した制定した東国最古の分国法・仮名目録に21条を追加。さらに、京から積極的に文化人を招いたほか、都から逃れてきた公家を保護し、京風の公家文化を街にとり入れていきました。この都市文化は、周防国の大内氏、越前国の朝倉氏に並び「戦国三大文化」といわれています。
賤機山の麓にある臨済寺は今川家の菩提寺。義元の命日(5月19日)と摩利支天祈祷会(10月15日)の年2回特別公開されている
また、義元は太りすぎて馬に乗れず塗輿に乗っていた、とも思われがちですが、これは誤り。そもそも今川家は足利将軍家と密接な関わりを持っており、「足利が絶えれば吉良、吉良が絶えれば今川」と言われるほど。この三家は源義家を祖先にもつ、将軍職を継ぐことができるほどの名家なのです。義元が塗輿を使用していたことも、将軍から認められていたため。体型のせいで塗輿に乗るほかなかったのではなく、家格が高かったことを示す逸話なのです。さらに、太田牛一が著した『信長公記』の中には、桶狭間の戦いで信長急襲の際に、馬に乗って逃げたという記述が残されています。この点からも「義元は馬に乗れない」ということを否定できます。
生誕500周年を超えた義元。現在では再評価の流れが高まっています。今まで見てきたように、三国同盟や仮名目録への追加、都市文化の発展というのは、義元の大きな功績であり、これが今川家の繁栄に大きく寄与したことが知られつつあります。尾張の織田信秀(信長の父)が没した後、織田配下の城主が城ごと義元に寝返ったのも、義元の力が評価されていたからこそ。そしてこれらの支城を足がかりに、義元は尾張へと勢力を拡大していくことになります。
『国史画帖大和櫻』の桶狭間大合戦に描かれる今川義元の図
駿府城の下に眠る今川氏の居城
今川氏は今川館を拠点に領国を支配していました。松平氏が支配していた三河を勢力下に取り込むと、織田氏を圧倒。尾張侵攻への足がかりにして、領土を拡大して行きました。しかし、桶狭間の戦いで義元が討ち取られた後、居館は武田信玄の駿河侵攻により焼失してしまいます。さらにその跡地に徳川家康が駿府城(静岡県)を築城・改修したことで、未だに居館の全貌は明らかになっていません。“今川の館”というとどうしてもイメージが薄くなってしまうのはそのためです。
過去の駿府城の発掘調査や現在実施中の天守台発掘調査の結果から、駿府城の一角にあったと考えられていて、今川期のものと推定される遺構や遺物が発見されています。しかし、越前の朝倉氏館などのように、大堀で四方を囲まれた館跡はまだ発見されていません。今川館の解明に向けて、今後の発掘調査報告に期待が高まっています。
現在は公園として整備されている駿府城。静岡県庁別館の展望台からは駿府城だけでなく富士山も一緒に一望できる
今川館は中世守護館と同じ特徴をもつと推定されています。また、館の背後にある賤機山に、詰城の賤機山城を築いています。普段生活するのは平地の居館、戦時には防衛施設の詰城を利用していました。
義元の支城と攻めた城
【居城】今川館(静岡県静岡市)
現在の駿府城公園の一角に位置していたとされる今川館は、義元をはじめとする今川氏の居館でした。発掘調査が進められ駿府城公園内や、駿府城天守台跡から、今川期のものと推定される遺構や遺物が発見されています。
令和元年度の発掘調査で発見された今川期の薬研堀は、深さ約1.7m、幅約3mで南北方向に延びる(静岡市提供の写真を編集部で加工)
【支城】賤機山城(静岡県静岡市)
今川館の詰城として機能した山城。背後には義元が兄・氏輝を弔うために建立した臨済寺があります。武田信玄の駿河侵攻の際に落城し「籠鼻砦」と呼ばれた後は、徳川家康の駿府入府により廃城になったとされています。
静岡県庁別館展望台から望む賤機山城。安倍川沿い、南北に伸びる賤機山丘陵高地に建つ
【攻めた城】安祥城(愛知県安城市)
もともとは「安城城」と呼ばれていた、三河の台地に建つ松平氏の居城。勢力拡大をはかる織田氏との戦いに敗れ、織田氏の支城に変わります。その後今川は松平氏と同盟を結び、人質として竹千代(のちの徳川家康)を引き渡すように要求しますが、織田氏に奪われてしまいます。義元は安城合戦で落城させると、城代を務めていた織田信広(信長の兄)を捕縛。竹千代と交換し、家臣を城代として派遣して、安祥城は尾張侵攻の前線としての役割を果たすようになりました。
安祥城の跡地には了雲院が建てられ、碑が残る
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
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