逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第13回【武田勝頼・後編】追いつめられる勝頼と名門滅亡の時

戦国時代を彩った大名や武将の生涯と城との関わりを紹介する「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。第13回は武田勝頼の後編。長篠の戦い後の混乱をしのいだ勝頼だが、御館の乱、甲相同盟破綻、高天神落城など、次々に押しよせる難局に追いつめられていく。厳しい状況の中、勝頼は武田家を存続させられるのでしょうか——?

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第11回【武田勝頼・前編】なぜオレが?四男に転がり込んできた名門当主の座
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第12回【武田勝頼・中編】運命の決戦への道と勝頼の苦闘

天目山、武田勝頼
天目山に追いつめられた勝頼を描いた『撰雪六六談 天目山 武田勝頼』(部分/国立国会図書館蔵)

武田勝頼

父の宿敵の死と御館の乱

長篠の敗戦から立ち直った勝頼にもたらされたのは、「越後の龍」上杉謙信の死。そして、上杉家を真っ二つに割るお家騒動の報せでした。

上杉謙信
武田信玄の宿敵であった上杉謙信。無類の酒好きで、過度な飲酒が死につながったともいわれる(『芳年武者无類』より/国立国会図書館蔵)

生涯妻を持たなかった謙信には実子がおらず、代わりに景勝と景虎という2人の養子がいました。景勝は謙信の甥、景虎は北条氏政の弟でしたが、謙信がどちらに家督を譲るのか遺言せずに亡くなったため後継者争いが起こったのです。

景虎が同盟相手・北条氏政の弟だったことから、勝頼は景虎支援のため越後へ出陣。ところが、勝頼は途中で景虎支援から景勝・景虎の和睦仲介に方針を転換したのです。方針転換の理由はわかっていませんが、上杉家の内乱を治めることで武田・北条・上杉の三家で織田・徳川軍に対抗しようとした、北条出身の景虎が当主になることで武田領が北条勢力に挟まれるのを避けたかったなどの説があげられています。いずれにせよ、和睦成立により勝頼は甲斐へ撤退。ところが直後に御館の乱は再開され景虎が自刃してしまいます。この事態に景虎の実兄・北条氏政は激怒し、甲相同盟を破棄。徳川家康と同盟してしまったのです。

春日山城
上杉家の居城・春日山城。御館の乱後、景勝に勝頼の異母妹・菊姫が嫁ぎ、両家は同盟関係を結んだ

新体制の確立を目指し新府城を築く

苦しい状況の打開を模索する勝頼は、北条家と敵対する佐竹家と同盟した上で上野の北条領に進出し制圧。また、国内の防御を固めるため、韮崎に新府城(山梨県)を築城します。新府城は丸馬出や枡形虎口、出構えなど武田家の築城技術を詰め込んだ堅城で、信濃や駿河への交通の便もよく、新体制をつくるのにふさわしい地でした。天正9年(1581)の年末、未完成の状態ながら勝頼は躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(山梨県)から新府へ移住。新たな国造りをはじめようとします。

新府城、伝大手口
新府城の伝大手口。枡形虎口に丸馬出を重ねた厳重な構造である

しかし、崩壊の足音はすぐそこまで迫っていました。

天正8年(1580)、遠江の支城・高天神城(静岡県)が落城寸前に陥りますが、駿河で北条軍と戦う勝頼には援軍を出す余裕はありませんでした。そんな彼の状況を知った織田信長は、勝頼が高天神城を見捨てたという状況をつくり出すため、家康に城兵の降伏を拒否するよう命令。高天神城の将兵はことごとく討死し、信長の目論見通り、「次は自分が見捨てられるのでは?」と武田の家臣たちは動揺します。

裏切りに次ぐ裏切り…迫る武田家最後の時

そして、天正10年(1582)2月、信濃木曾谷の領主・木曾義昌(勝頼の義兄)の離反を合図に、ついに織田・徳川・北条軍が武田領へ侵攻。家臣たちが相次いで離反・逃亡してしまったため、武田軍はまともに防戦できず、勝頼は未完成の新府城に火を放ちこれを放棄。小山田信茂が守る岩殿城(山梨県)で態勢を立て直すことにします。ところが、岩殿到着の直前に信茂が離反を表明します。進退窮まった勝頼は妻子やわずか数十人の供を連れて、先祖ゆかりの地である天目山を目指すも、山麓の田野で織田軍に捕捉され自刃(討死とも)。天正10年3月11日、宿敵・信長が本能寺の変に倒れるわずか3ヶ月前のことでした。

景徳院
勝頼の死後、滅亡の地である田野には徳川家康によって景徳院が建立された。境内には勝頼一家の墓所や自刃の際に腰掛けたという「生害石」などが残る

平安時代から続いた甲斐武田家は勝頼の死によって滅びました。長篠の戦い、御館の乱、高天神城の戦いなどで彼が判断を誤ったことが滅亡につながったことは間違いありません。しかし、長篠の敗戦後に家中を立て直し、滅亡直前まで徳川家康や北条氏政と対等に渡り合ったこともまた事実。武田家は勝頼が暗愚だったために滅亡したわけではないと言えるでしょう。

そもそも、本来勝頼は武田家を継ぐべき人間ではありませんでした。お家騒動の末の嫡男交代。さらに、信玄が死ぬまで家督を握り続けたために、勝頼は経験も家臣との信頼関係も不足したまま家督を継がざるを得なかったのです。さらに相続当時、信玄の駿河侵攻、西上作戦により武田家に対する諸大名の心証は最悪。特に信長は「二度と同盟しない」と宣言し、後年の勝頼からの和睦交渉も一切無視するほど激怒していました。

経験は満足に積ませてもらえなかったのに父の尻ぬぐいは押しつけられた……と考えると、武田家滅亡は勝頼だけでなく信玄にも責任があったと言えるのかもしれません。

武田勝頼ゆかりの城

武田勝頼ゆかりの城

【居城】新府城(山梨県韮崎市)
躑躅ヶ崎館に代わる本拠地として勝頼が築いた城。七里岩台地を背にした天然の要害と枡形虎口や出構えに守られた、武田家の築城技術の完成形とも言える城だったが、完成前に勝頼本人によって火をかけられた。虎口などの遺構がよく残る他、勝頼を祀る霊社や長篠戦没者の慰霊碑などが設けられている。

新府城、武田勝頼公霊社
本丸跡に建てられた武田勝頼公霊社

【離反した城】岩殿城(山梨県大月市)
武田家の重臣・小山田信茂の居城。織田軍の侵攻により信濃戦線が崩壊すると、勝頼はこの城で態勢を立て直そうとするが、入城直前の信茂寝返りにより、天目山への逃避行を余儀なくされる。武田滅亡後、信茂は織田軍に投降するが、土壇場の離反をとがめられ処刑されてしまう。

岩殿城
急峻な岩山の上に立つ岩殿城

【攻めた城】膳城(ぜんじょう)(群馬県)
上野攻略中の勝頼が落とした城。酒宴で酔っ払った膳城兵が、付近を視察していた勝頼率いる武田軍に攻撃を仕掛け戦闘になったという。視察中だった勝頼は平服のまま城を攻めたため、この戦いは「膳城素肌攻め」と呼ばれる。

膳城
本丸跡に立つ城址碑

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(小関裕香子)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』や日本中世史入門書の決定版『キーパーソンと時代の流れで一気にわかる 鎌倉・室町時代』(ともに朝日新聞出版)、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中。2022年4月にはお城の“ざんねん”な歴史や逸話を紹介する「ざんねんなお城図鑑」が発売予定!

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