2022/01/27
逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第11回【武田勝頼・前編】なぜオレが?四男に転がり込んできた名門当主の座
戦国時代を彩った大名や武将の生涯と城との関わりを紹介する「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。第11・12回は、甲斐武田家最期の当主・武田勝頼の生涯を解説。前編では、勝頼の複雑な出生と突然舞い込んだ家督相続について説明します!
自刃の地・天目山麓田野があるJR甲斐大和駅に立つ武田勝頼像
悲劇の始まり? 「諏方の子」から武田家当主への転身
大量の鉄砲導入により戦国の合戦を変えた長篠の戦い。教科書でも解説されるこの合戦で敗者として語られるのが、今回の主人公・武田勝頼です。長篠の戦いで優秀な家臣を討死させ、武田家滅亡を招いた彼は、「家を滅ぼした愚将」と低い評価を受けてきました。しかし、本当に彼は愚将だったのか。武田家最期の当主の実像に迫りたいと思います。
江戸時代に描かれた「長篠合戦図屛風下絵」。武田軍の鉄砲隊や馬防柵内へ攻め込む武田軍を描くなど、他の長篠合戦図屛風とは異なる描写が見られる(東京国立博物館蔵/出典:ColBase)
武田勝頼は、戦国の英雄・武田信玄の四男。母は側室の諏訪御料人です。彼女は「第9回【武田信玄・前編】父子の相克と龍虎相打つ川中島」でも解説した通り、信玄に滅ぼされた諏方頼重(すわよりしげ)の娘。敵だった家の娘との結婚は歓迎されなかったようで、『甲陽軍鑑』には重臣たちが結婚に反対し、山本勘助が「二人の子が諏方家を継げば諏方の者たちを懐柔できる」と説得したという記述があります。
勝頼の母・諏訪御料人は彼が10歳の頃に病没。後に高遠城主となった勝頼によって長野県伊那市の建福寺に葬られた
この逸話の真偽は不明ですが、信玄が我が子に諏方家を継がせようと考えたのは事実のようで、勝頼が誕生すると、諏方一族を排除し、成人した勝頼に高遠諏方家を相続させました。
諏方家の通字(先祖代々受け継ぐ字)である「頼」を諱(実名)に入れ「諏方勝頼」となった彼は、父、そしてゆくゆくは長兄・義信を支える一門衆として活動していく……、はずでした。
高遠城遠景。高遠諏方家を継いだ勝頼の居城で、武田家滅亡の際は弟・仁科盛信がこの城で壮絶な討死を遂げている
永禄8年(1565)、義信が信玄と対立して廃嫡された上、翌年急死。この時点で無事成人している信玄の男子は勝頼のみだったため、彼は義信に代わる後継者に指名されたのです。
以降、「武田勝頼」は信玄後継者として駿河侵攻や西上作戦に参加。駿河侵攻では花沢城や蒲原城(いずれも静岡県)を攻略し、小田原侵攻では滝山城(東京都)や三増峠の戦いで奮戦。西上作戦でも山県昌景(やまがたまさかげ)らとともに二俣城(静岡県)を攻略しています。
その武功は信玄も認めるものだったようで、蒲原城攻め後に信玄はこんな内容の書状をしたためています。
「いつもの事だが、勝頼と信豊(信玄の甥)は無謀にも城に攻め上ったが、思いがけず攻略することができた。蒲原城は東海一の堅城で常人には落とせない、また味方の犠牲もなかった(意訳)」
前半では「無謀」と若い二人に苦言を呈しているようにも見えますが、後半になるとベタ褒め。よほど息子と甥の活躍が嬉しかったのでしょうか。
しかし、武田軍の快進撃は信玄が病に倒れたことでストップ。武田軍は甲斐へ撤退するも、その途中で信玄は世を去り勝頼が武田家当主となりました。
問題だらけの家督相続と勝頼の快進撃
しかし、新当主となった勝頼はいきなり重臣たちとの対立に直面します。当時、武田家の重臣だった山県昌景、馬場信春(ばばのぶはる)、春日虎綱(かすがとらつな/高坂昌信とも)、内藤昌秀(ないとうまさひで)らは、いずれも信玄が取り立てた者ばかり。彼らは信玄の実子とはいえかつての宿敵・諏方家に連なる勝頼を認めていなかったのです。
また、信玄生前の勝頼に対する扱いも彼らの態度に拍車をかけていました。親バカな面もあった一方で、父や息子との確執を経験してきた信玄は身内への警戒心が強く、死ぬまで勝頼に家督を譲らず、合戦でも重臣たちと同じ一武将として扱っていたのです。つまり、重臣たちにとって勝頼は元同僚。しかも、家督相続時点で平均50代の重臣(山県:59歳?、馬場:60歳、春日:49歳、内藤:51歳)に対して勝頼は28歳。百戦錬磨の彼らから見て、勝頼が頼りなく見えるのも仕方ありません。
武田四天王と呼ばれる、山県昌景(左上)、内藤昌秀(右上)、春日虎綱(高坂昌信/左下)、馬場信春(信房/右下)。信濃や駿河の領国支配を任されていた信玄の信頼厚い家臣だった(東京国立博物館蔵/出典:ColBase)
さらに、国外の情勢も予断を許さないものになっていました。すでに信玄の死は諸国に知れ渡っていて、西上作戦で武田軍が得た城は織田・徳川軍に奪い返されたのです。信玄の死と家督相続のゴタゴタで勝頼は完全に後手に回っており、織田信長や上杉謙信は「勝頼はたいしたことはない」「信玄が死んで武田も終わりだ」と勝頼を完全に若輩者と侮っていました。
治世スタートから躓いた勝頼でしたが、信玄の死から1年近くが経った天正2年(1574)に出遅れを挽回すべく東美濃へ出陣。瞬く間に明知城、飯羽間(いいばま)城、串原城(いずれも岐阜県)など織田方の18城を攻略しました。
東美濃を制圧した勝頼は、東海の武田領に攻撃する徳川家康を叩くため遠江へ出陣。難攻不落と名高い高天神城(静岡県)の攻略にかかります。高天神城は断崖絶壁に守られた堅城でしたが、武田軍の猛攻により落城寸前に陥ります。
高天神城攻略後、勝頼は堂の尾曲輪や長大な堀などを造らせ、城の防御を強化した
高天神城将・小笠原氏助(おがさわらうじすけ)は家康に援軍を求めますが、家康には単独で武田軍と戦える兵力がなく、信長に泣きつかざるをえませんでした。そして、織田の援軍が遠江へやって来た頃にはすでに高天神城は落城。堅城を落とした勝頼の武名は全国に響きわたり、かつて彼を「たいしたことない」と見くびっていた信長や謙信も「勝頼は油断ならない」と評価を改め、勝頼を警戒するようになります。
高天神城の攻略により遠江の大部分を支配下に置いた勝頼は、さらに家康を追いつめるべく意気揚々と徳川家の本拠地・三河へ侵攻。しかし、この地で手痛い敗北を喫することを彼はまだ知らないのでした。
次回は運命の決戦・長篠の戦いと武田家滅亡をお届けします。
武田勝頼の城と攻めた城
【支城】高遠城(長野県伊那市)
諏方勝頼時代の居城。江戸時代に高遠藩の藩庁として近世城郭化されたため、武田家時代の姿は分かっていない。現在は桜の名所としても知られる。
城内でも特に美しい桜が見られる桜雲橋
【攻めた城】滝山城(東京都八王子市)
信玄の命で攻めた北条家の城。勝頼は自ら槍を振るって二の丸の門まで攻め込み、北条方の武将と一騎討ちを演じたという。しかし、滝山城を完全に落とすことはできず、武田軍は包囲を解いて小田原へ向かった。
小宮曲輪下の巨大な堀
【攻めた城】高天神城(静岡県掛川市)
二つの峰に独立した曲輪を築く「一城別郭」構造を持つ堅城。勝頼は父・信玄が落とせなかったこの城を落としたことで自信過剰になったとされるが、近年の研究では西上作戦で信玄が一度攻略した可能性が指摘されている。
高天神城の遠景
▼続きの中編はこちら
執筆・写真/かみゆ歴史編集部(小関裕香子)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。主な制作物に、戦国時代を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)など。『歴史と人物 面白すぎる!鎌倉・室町』(中央公論新社)など、日本中世史の入門書も好評発売中!