2021/12/02
逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第9回【武田信玄・前編】父子の相克と龍虎相打つ川中島
戦国時代を彩った大名や武将の生涯と城との関わりを紹介する「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。第9・10回は武田信玄の生涯を前後編で追います。前編は、出生から生涯のライバルと鎬を削った信濃攻略までの前半生を紹介します! 数々の逸話が残る第四次川中島の戦いの発端となった城とは——?
JR甲府駅に立つ武田信玄像。最強武将にふさわしい堂々とした居住まいである
父を追放し武田家当主に
武田信玄。最強の騎馬軍団を率いて乱世を席巻した戦国大名。合戦においては巧みな采配で常勝を誇り、その強さはあの織田信長・徳川家康も恐れたほどです。1988年の大河ドラマ『武田信玄』では主人公に選ばれたほか、戦国時代が舞台のメディア作品には必ずといっていいほど登場します。
そんな信玄が生まれたのは大永元年(1521)の甲斐国(山梨県)。父は平安時代から続く名門の当主・武田信虎です。この年、信虎は駿河の今川家との戦いで劣勢に追い込まれており、正室・大井夫人は信玄を身ごもったまま詰城(緊急避難用の城)の要害山城(山梨県甲府市)に避難。夫人はその地で信玄を出産したと言います。合戦に明け暮れた生涯を暗示するような出生ですね。
信玄生誕の地である要害山の本丸には、「信玄公生誕之地」碑が立つ。確実な史料での信玄の幼名は「太郎」だが、戦勝直後に嫡男が産まれたことを喜んだ信虎が「勝千代」と名付けたともいわれる
最強騎馬隊を率いる英雄というイメージが強い信玄ですが、意外にも幼少期は和歌や詩を好む文学少年だったそう。また、思慮深い性格だったようで、こんな逸話が残っています。ある日、今川義元に嫁いだ姉から大量の貝殻が届きました。信玄はやって来た家臣に貝を見せ、「何枚あるか分かるか」と質問。家臣たちは2万枚、1万5000枚などと予想しますが、信玄は「答えは3700個だ。あなたたちは大軍を率いたことがないようだな。5000の兵を率いる将なら数を誤ることはない」と、家臣たちの合戦経験を見抜きました。これには家臣たちも驚き、信玄の器量に一目置いたと言います。
少年期から非凡な才能を見せる信玄ですが、父・信虎とは不仲だったと言われています。『甲陽軍鑑』(武田家の歴史や戦術を記した軍学書)には、初陣で信虎に手柄を認めてもらえなかったことや、信虎が信玄を嫌い、弟・信繁を跡継ぎにしようとしていたことなどが書かれています。ただし、これらの逸話は他の史料では確認できないため史実ではないとも。
甲府駅に立つ信虎像。残虐な性格のために甲斐を追放されたとされるが、近年の研究では、強引な領土拡大戦争で民衆の不満が募った説や、大飢饉に見舞われたことにより民衆が新たな当主を求めた説などが唱えられている
そして天文10年(1541)、親子はついに決裂。信虎が今川義元に嫁いだ姉のもとを訪問した隙を突いて、信玄は板垣信方(いたがきのぶかた)ら重臣とクーデターを決行。今川領との国境を封鎖して信虎を追放してしまったのです。このクーデターは理不尽に家臣を粛清し、妊婦の腹を割かせたという信虎の「悪逆無道」を止めるためというのが有名ですが、これは信玄の行動を正当化するための後付けの可能性が高いでしょう。
信濃をめぐる龍虎の争い
父を追放した信玄は、隣国・信濃の攻略に取りかかりました。当時信濃の諏方頼重(すわよりしげ)・村上義清(むらかみよしきよ)とは同盟関係にありましたが、頼重が敵と勝手に和睦したため、同盟違反を口実に諏方家の居城・上原城(長野県茅野市)を攻めます。城を落とした信玄は頼重を自害させ、彼の娘(諏方御料人)を側室としました。彼女が産んだ信玄の四男・勝頼は、滅亡した諏方家を継ぐ子として育てられることになります。
信玄の妹を妻にしていた頼重は武田家の攻撃を全く予想しておらず、あっさりと侵攻を許した。降伏した頼重は甲府に連行された後、自害させられる。写真は上原城本丸跡
諏方家滅亡後、信玄が狙ったのは同盟相手だった村上義清でした。上田原の戦い(1548年)と砥石崩れ(1550年)の2度にわたって大敗するも、天文22年(1553)には義清を信濃から追放することに成功。ところが、この信濃攻略は思わぬ敵を招くことになるのです。
信濃から逃亡した村上義清は越後へ亡命。上杉謙信(当時は長尾景虎)に領地回復を要請します。これ以上、信玄が北上すれば本拠地・越後を脅かされることもあり、謙信は快諾し度々信濃へ出陣。信玄も彼と対抗するため、駿河の今川義元、相模の北条氏康と同盟を結んで後顧の憂いを断ち、両者は5度にわたって川中島で合戦を繰り広げました。これが世に言う川中島の戦いです。
川中島の激闘をしのぎ信濃を制圧
ところで、武田信玄といえば「人は城、人は石垣、人は堀」の語句が有名で、城を築かなかったイメージがありますが、まったくそんなことはなく、むしろ全国でも一二を争う築城の名手でした。そんな信玄が築き、かの有名な第四次川中島の戦いの発端となったのが海津城(長野県長野市)です。第三次川中島の戦い(1577年)後、信玄は北信進出の拠点として山本勘助に海津城を築かせます。これに危機感を抱いた謙信は川中島へ出陣。謙信出陣を知った信玄は海津城へ駆けつけ、勘助が提案した「啄木鳥戦法」で上杉軍と決着をつけることにしました。
信玄の軍師として活躍したとされる山本勘助。実在の人物ではあるが、『甲陽軍鑑』での軍師としての華々しい逸話は、ほとんど後世に付け加えられたものと考えられている(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)
「啄木鳥戦法」とは、軍勢を2つに分け、別働隊が妻女山に布陣する上杉軍を奇襲して、本隊が待ち構える山麓に追いやり、殲滅するというもの。信玄は馬場信春・春日虎綱らに別働隊1万2000を預け、自身は8000の本隊を率いて夜陰に乗じ八幡原に布陣します。翌朝、武田本隊の目の前に現れたのは、逃げ惑う上杉軍…、ではなく、整然と戦闘態勢を整えた上杉軍でした。そう、啄木鳥戦法は謙信に見破られていたのです。
妻女山から見た海津城方面。第四次川中島の戦いで謙信はここに本陣を置き、武田軍の様子をうかがう。そして、海津城から飯炊きの煙が多数上がったのを見ると、信玄が妻女山を奇襲することを見抜いたという
たちまち激戦となり、武田軍は山本勘助や信玄の弟・信繁らが討死する劣勢に追い込まれますが、妻女山から駆けつけた馬場信春ら別働隊によって形勢は逆転。上杉軍は越後へと撤退させ、信玄は北信での優位を勝ち取ることができました。
主戦場となった八幡原に立つ信玄・謙信の一騎討像。伝説によると、激戦の最中謙信が単騎で信玄本陣に斬り込み、信玄に太刀を浴びせるがこれを信玄は軍配で防いだという
第四次川中島の戦いで信濃のほぼ全域を制圧したものの、多大な犠牲を払った信玄。以降、彼は謙信との正面衝突を避け、上野や飛驒、そして東海に領土を求めるようになります。しかし、この決断は新たな悲劇をもたらすことになるのでした……。
次回は、外交方針の転換が引き起こした悲劇と武田家の東海進出をお届けします。
武田信玄の城と攻めた城
【居城】躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(山梨県甲府市)
甲斐統一を果たした父・信虎によって永正16年(1519)に築かれました。京の将軍御所を模した館造りで、背後には信玄の生誕地でもある詰城・要害山城がそびえます。現在は信玄を祀る武田神社となっていますが、曲輪や枡形虎口など武田家時代の遺構が良好に残っています。
武田神社の本殿は、かつて武田家当主の屋敷があった中曲輪に建てられている
【支城】海津城(長野県長野市)
第四次川中島の戦い後は、春日虎綱が城将として謙信の牽制を担当。武田家滅亡後は松代城と名を変え、武田家臣だった真田家によって近世城郭に改修されました。海津城としての遺構は残っていませんが、松代城の石垣や復元櫓を見ることができます。
松代城本丸に立つ海津城碑
【攻めた城】砥石城(長野県上田市)
村上義清の支城。信玄はこの城を攻めたものの、攻略に手間取るうちに村上軍の挟撃を受け大敗してしまいます。力攻めでは落とせないと考えた信玄は、砥石城内に親族がいる真田幸綱(幸隆)に調略させたのでした。現在は曲輪や堀切などが残っています。
主郭跡。標高700m以上の険しい山上に築かれた砥石城は、わずか500人の兵で武田軍の猛攻をしのいでみせた(ばりろく/PIXTA)
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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(小関裕香子)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)『キーパーソンと時代の流れで一気にわかる 鎌倉・室町時代』が好評発売中。