逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第10回【武田信玄・後編】武田家の運命を変えた駿河侵攻

戦国時代を彩った大名や武将の生涯と城との関わりを紹介する「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」。第9・10回は武田信玄の生涯を前後編で追います。後編は駿河侵攻と西上作戦、そして信玄の死を解説。謙信との戦いで大きな犠牲を払った信玄は、北進を諦め西へ進出します。信玄の果てなき野望が行き着いた先とは——?

武田信玄銅像
JR塩山駅に立つ武田信玄銅像

武田信玄

対立した嫡男を死に追い込む

信玄が第四次川中島の戦いで信濃国における優位を決定づけた永禄4年(1561)の前年、桶狭間の戦いが勃発。駿河・近江の2国と三河・尾張の一部を領する大大名・今川義元が当時無名だった織田信長に討ち取られたこの合戦は、武田家の運命も大きく変えることとなります。

義元討死の直後、信玄は後継者・氏真と同盟継続を約束しますが、今川領で反乱が相次ぐと、信玄は今川家から距離を取り、織田信長と同盟交渉を行います。この頃、信濃はほぼ制圧され、その先は強敵・上杉謙信の本国・越後であるため北方面での領土拡大は望めなくなっていました。恐らく信玄の頭の中では、すでに豊かな海を持つ今川領を手に入れる野望が生まれていたことでしょう。

しかし、長年の同盟相手を裏切るような行為は、家中の反発を呼びました。特に義元の娘を妻としていた信玄の嫡男・義信を中心とする親今川派が激しく反対し、信玄と対立。嫡男との対立に信玄は苦悩しますが、家中対立を鎮めるため非情な決断を下します。永禄8年(1565)10月、信玄は謀反の罪で飯富虎昌(おぶとらまさ)ら義信側近を処刑。義信も廃嫡の上、東光寺(山梨県)に幽閉してしまいます。

事件後、信玄は織田家と同盟を結び、同盟の証として信長の養女・龍勝院が信玄の四男・諏方勝頼に嫁ぎました。そして、2年後に義信が急死すると、次男・信親が眼病のため出家し、三男・信之も早くに病死していたため、勝頼が後継者に指名されます。

東光寺
義信が幽閉された東光寺。信玄の義弟・諏方頼重の幽閉地でもあり、境内には義信・頼重の墓所も残っている

駿河侵攻と北条氏康との戦い

義信死去から1年が経った永禄11年(1568)12月、ついに信玄は今川攻めに乗り出します。信玄は「川を境に今川領を分割する」約束で三河の徳川家康と手を組み、東西から今川領を攻撃。あっけなく今川領は崩壊し、氏真は妻・早川殿(北条氏康の娘)とともに遠江の掛川城(静岡県)へ逃れました(後に北条領へ移動)。駿府を占領した信玄は馬場信春に命じて江尻城(静岡県)を築き駿河支配の拠点とします。

易々と駿河を手に入れた信玄ですが、快進撃はここまででした。三国同盟の一角・北条氏康が、一方的に同盟を破棄した上、自分の娘を危険にさらした信玄に激怒したのです。氏康は信玄の宿敵である上杉謙信と同盟を締結し、駿河に出兵。さらに、共闘相手の徳川家康も領地配分をめぐって信玄と対立し、勝手に今川・北条家と和睦を結んでしまいます。周囲を敵に囲まれた信玄は駿河の制圧を諦め、北条軍をかいくぐって甲斐に撤退せざるを得ませんでした。

北条氏康
北条家三代目当主・氏康。河越夜戦では10倍以上の兵力の敵に奇襲を仕掛けて勝利した猛将である一方、税制の改革や小田原城下の発展など内政にも優れた大名だった(小田原城天守閣蔵)

無念を抱えて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(山梨県)に帰還した信玄は氏康への反撃をはじめます。まず、謙信と和睦して北の脅威を取り除いた上で、駿河へ再出陣し伊豆との国境にある北条方の城を攻撃。北条軍を駿豆国境に釘付けにしたところで甲斐に引き上げ、返す刀で北条領の上野・武蔵へ侵入し、滝山城(東京都)や鉢形城(埼玉県)などの支城を攻撃しながら北条家の本拠地・小田原へ迫ります。

予期せぬ本国への攻撃に氏康は仰天。慌てて駿河の軍勢を関東へ呼び戻しますが、これこそが信玄の狙いでした。小田原城(神奈川県)へ到着した信玄は四日ほど城を包囲した後、そそくさと撤退。北条軍がいなくなった駿河へ侵攻します。駿豆国境・関東への攻撃は、邪魔な北条軍を駿河から撤退させるための陽動だったという訳です。

まんまと駿河を手に入れた信玄は、田中城(徳一色城/静岡県)、丸子城(静岡県)などを駿河支配の拠点として改修していきます。これらの城は武田流築城術とも呼ばれる、武田家の優れた築城技術が用いられていました。武田流築城術の最大の特徴は虎口前面を丸馬出や枡形虎口で守っていること。また、地形によって巧みに横堀・竪堀などの堀を組み合わせた敵を寄せ付けない構造も特徴です。

大島城、躑躅ヶ崎館
大島城(長野県)の丸馬出(左)と躑躅ヶ崎館の枡形虎口(右)

西上作戦の最中に無念の病死

駿河を確保した信玄はさらに西へ目を向けます。元亀2年(1571)に北条氏康が死去したことで武田家と北条家は同盟を再締結。背後の安全を確保したところで、信玄は西上作戦を開始しました。この時、武田家と織田・徳川家はまだ同盟関係にあったため、予想外の攻撃を受けた遠江の徳川方の城は次々と落城。反撃に出た徳川軍も三方原で返り討ちにし、さらに浅井長政や朝倉義景、本願寺を糾合して信長・家康を追い詰めていきます。

ところが、国境付近の野田城(愛知県)を落としたところで信玄は病に倒れ、武田軍は甲斐へ撤退。撤退中も病状は悪化し続け、元亀4年(1573)4月12日、信濃駒場(長野県/同県浪合・根羽で没したとも)で稀代の英雄・武田信玄は世を去りました。

武田信玄供養塔
信玄の歿地とされる駒場長岳寺に立つ「武田信玄供養塔」(たき/PIXTA)

死の直前、信玄は自分の死を3年隠すように遺言しますが、彼の死はたちまち諸国へ広まってしまいました。信玄死去により窮地を脱した信長・家康はすかさず反撃を開始し、武田軍に奪われた城を奪回していきます。圧倒的優位な状況から一転した武田家の運命は、若き後継者・勝頼に託されたのでした。

武田信玄の城と攻めた城[東海侵攻時]

武田信玄の城と攻めた城

【支城】丸子城(静岡県静岡市)
元は今川家の支城でしたが、駿河侵攻の際に武田家の支配拠点となります。曲輪の虎口に多数の馬出が設けられている他、二の曲輪から三の曲輪にかけての斜面下に長大な横堀がめぐらされているなど、武田家の築城技術をよく示す城となっています。

丸子城、丸馬出
丸子城の丸馬出。右奥には斜面を分断する竪堀が続いている

【支城】田中城(静岡県藤枝市)
今川家の支城・徳一色城を馬場信春が改修したとされています。同心円状の円郭式縄張が特徴で、虎口には丸馬出が設けられています。武田家滅亡後は徳川家譜代大名の城として幕末まで使用されました。遺構は堀がわずかに残る他、江戸時代の建物を移築保存した「田中城下屋敷」があります。

田中城
江戸時代の田中城絵図。武田家時代は本丸・二の曲輪までが城域だったが、江戸時代に三の曲輪が拡張された(国立国会図書館蔵)

【攻めた城】二俣城(静岡県浜松市)
西上作戦で武田勝頼・山県昌景らに攻められ、城代・中根正照が奮戦するも水の手を断たれて落城しました。長篠の戦いの翌年に徳川軍に奪還され、文禄年間(1592〜96)頃に石垣造りへ改修されたとされています。現在は改修後の天守台や石垣を見ることができます。

二俣城、天守台
本丸に立つ天守台

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(小関裕香子)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中。2021年11月19日からは、日本中世史入門書の決定版『キーパーソンと時代の流れで一気にわかる 鎌倉・室町時代』が新発売!

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