2021/11/24
逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第8回【太田道灌】江戸城を築いたのは道灌だけじゃない!?
「逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将」、第8回は戦国最初期の名将・太田道灌(おおた どうかん)。家康が江戸を開く150年前に、江戸城を築いて城主となったことから、日本の首都東京の原点をつくりあげたとされる武将です。連戦連勝を重ねる軍略家でもありながら、「山吹の里」伝説に象徴されるように、和歌にも優れた文武両道の武将でした。戦国時代の黎明期を駆け抜けた名将の生涯を解説します!
東京国際フォーラムに立つ太田道灌像。製作にあたり像のモデルとなったのは、道灌の子孫で掛川藩主となった太田氏の、製作当時の当主だという
若い頃から将来を期待された道灌
道灌の生家である太田氏は、道灌の祖父の時代から扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(かさい)を務める家柄でした。家宰とは重臣の代表として家政を統轄する存在のこと。当時の関東は鎌倉府の統治下にあり、長官は将軍足利氏の一門が務めて鎌倉公方と称していました。この鎌倉公方の補佐をする役職を関東管領といい、上杉氏の世襲でした。扇谷上杉氏はその一族にあたります。
子どもの頃から利発だった太田道灌。9歳から11歳まで鎌倉五山で学問を学び、その才能は広く知られるようになりました。評判を聞いた山内(やまのうち)上杉氏は、道灌が欲しいと扇谷上杉氏に頼みます。しかし扇谷上杉氏は格上の山内上杉氏に「どんな財産にも代えがたい」と断わりを入れたといいます。道灌がいかに将来を期待されていたのかが分かるエピソードですね。
その後、道灌は足利学校でも学び、当時最高の学問を修めていきます。足利学校は日本最古の学校といわれた当時の最高学府です。宣教師のフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして最も有名なり」と評したほどの学校で、儒学や易学、軍学や医学などを教えていました。出身者は戦国武将のもとで活躍した人物も多く、徳川家康のブレーンとして活躍する天海もここで学んでいます。
足利氏の屋敷跡に立つ鑁阿寺に隣接する足利学校。土塁や水堀などに中世の面影を残す
道灌の人生を語るには欠かせない「山吹の里」伝説とは?
道灌は特に漢詩や和歌に優れた才能を発揮し、軍学にも精通した文武両道の武将でした。そんな道灌の人柄を表すエピソードがあります。ある日鷹狩りに出た道灌は、にわか雨に降られてしまいます。そこで簑を借りようと近くの農家に立ち寄りますが、少女が出て来て一枝の山吹を差し出すだけでした。この謎を解けなかった道灌は、帰宅後に家臣から「七重八重 花は咲けども 山吹の実の ひとつだに なきぞかなしき」という古歌になぞらえて、少女は簑(実の)ひとつないことを道灌に伝えたのだ、と教えられます。
そうだったのかと、無知を恥じた道灌は、和歌の勉強にいっそう励んだといいます。これは「山吹の里」伝説と呼ばれる道灌の代表的なエピソードですが、山吹の里の伝説が残る場所は各地にあります。またこの話の成立が江戸時代だと考えられることから、後世につくられた逸話なのかもしれません。
少女から山吹の枝を差し出される道灌「新撰東錦絵 太田道灌初歌道志図」(都立中央図書館特別文庫室蔵)
日暮里駅前に立つ鷹狩り姿の道灌像。この周辺で道灌はよく鷹狩りをしていたといわれている
史料に残る道灌時代の江戸城の姿
現在の江戸城(東京都千代田区)本丸や二の丸あたりには、もともと平安時代末期からこの地を治めていた江戸氏の館があったといいます。その後、鎌倉公方と山内・扇谷上杉氏が争った享徳の乱が始まる頃には扇谷上杉氏の領土となっていました。扇谷上杉氏はもともと相模の糟屋館(かすややかた・神奈川県伊勢原市)を拠点にしていましたが、武蔵南部に勢力を拡大。敵対する千葉氏や古河城(こがじょう・茨城県古河市)に本拠を置く古河公方の拠点・武蔵騎西城(きさいじょう・埼玉県加須市)に備えるため、太田道灌に岩付城(いわつきじょう・埼玉県さいたま市)、河越城(かわごえじょう・埼玉県川越市)、江戸城を築かせたといわれます。しかし、川越、江戸城の築城は太田道真(どうしん)・道灌父子とともに、扇谷上杉氏の宿老だった上田・三戸(みと)・萩野谷氏が協力して行ったようですし、岩付城は古河公方の成田氏による築城だということが分かってきました。その後、完成した河越城には扇谷上杉氏の当主・持朝(もちとも)と道真、江戸城には道灌が入りました。
江戸城本丸と二の丸をつなぐ汐見坂。坂をのぼると本丸に出る
残念ながら当時の遺構は家康が築いた江戸城の下に埋まっていて分かりませんが、当時の史料からその様子を伺うことはできます。それによると、道灌時代の江戸城は現在の本丸周辺にあり、外側に水堀が張りめぐらされた30mほどの高さの城だったといいます。曲輪は3つに分かれ、道灌の館が立つ曲輪には、「櫓泊船亭(はくせんてい)」「含雪斎(がんせっさい)」と名付けられた建物がり、筑波山や富士山、武蔵野台地が望めたそうです。現代のように高い建物がない当時は、絶好のビュースポットだったに違いありませせん。史料にある櫓は、実は天守だったのではないかという説があります。もしそれが本当なら、信長より100年も前に天守を築いたことになり、城の歴史が変わるほどのニュースになりますね。
道灌の居城と攻めた城
【居城】江戸城(東京都千代田区)
太田道灌が居城とした江戸城は、北の丸から本丸にかけての台地上にあったと考えられます。江戸城には道灌堀と名付けられた堀が残っていますが、本当に道灌時代のものかは不明です。
江戸城西の丸に残る道灌堀。普段は見ることができない
【支城】河越城(埼玉県川越市)
扇谷上杉氏により、対古河公方の最前線の拠点として築かれた城。築城後は当主・扇谷上杉持朝と道灌の父・道真が入り、道灌が入った江戸城とは軍事道路で結んで防衛線を構築しました。現在の川越城は江戸時代に拡張したもので、中ノ門堀は現存する唯一の堀跡
川越城中ノ門堀。深さ約7m、深さ約18m
鉢形城は、長尾景春(ながおかげはる)により荒川と深沢川に挟まれた断崖の上に築かれた軍事拠点です。その後は北条氏の北関東支配の拠点として、現在見ることの出来る規模に拡張されました。近年、復元整備が進み、堀や土塁、四脚門などが復元されています。
荒川越しに見た鉢形城。水流で削られた岩をそのまま利用している
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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中!