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橋吉

小丸山公園 (2010/09/26 訪問)

織田信長の命によって能登国の領主となった前田利家は、七尾城に入城したが、山城の不便さから新たに築いたのが小丸山城です。

利家が金沢に移ってからは、兄の安勝が城代となりましたが、元和元年に一国一城令によって1615年廃城とななりました。

現在は、小丸山公園として整備されています。
住宅街にひょっこり高くなっているところは、いかにも・・・って感じですが、

遺構はよくわかりません。

現在では、桜の名所になっているようです。

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朝田 辰兵衛

「ウダウダしてんじゃねぇよ!」 (2018/11/24 訪問)

スタンプ設置場所の“千軒舎”を見つけられず,宇陀市内でウダウダとしてました。結局,近くの道の駅で場所を尋ねました。比較的,私は平場が苦手なのかもしれません。

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トーダイ

山島公民館に石碑が建てられています (2019/10/24 訪問)

長享元年(1487)大窪源左衛門家長によって築かれたと言われています。
大窪源左衛門は4万石を所領、河原組を率いて一向一揆の将として活躍しました。
天文19年(1550)窪田大炊介経忠に城を譲り、家長は出家しました。
窪田大炊介は、本願寺派に属して加賀国総代となり、一向一揆軍を率いてます。
天正8年(1580)柴田勝家の軍に敗れ、窪田大炊介は自刃しました。

山島公民館に石碑が建てられていますが、遺構は残っていないようです。

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よーすけ

夜に浮かぶ御橋廊下 (2019/10/16 訪問)

和歌山城の夜のライトアップは素晴らしかった。
特に御橋廊下と和歌山城の姿は格別。
目で見える光景は美しく、神秘的でもある。
スマホで撮って激しく後悔。
今度は絶対に一眼レフを持って行こう。

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【亮】

本丸への道 (2019/09/28 訪問)

七尾城はこの眺めが個人的に一番好きです

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トーダイ

ここは「番田」堀江館跡です (2019/10/24 訪問)

築城年代は不詳ですが、堀江氏が館を最初に築いた場所は「番田」でした。
その後、一向一揆に対応するために番田から「下番」(本荘小学校一帯)に
移し、最後は「中番」(春日神社の地)に築いています。

県道109号線沿いに<36.211299,136.203818>石碑「堀江公番田館跡」と
案内碑が確認できますが、遺構は見当たりません。

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イオ

イノシシ出没注意 (2019/09/15 訪問)

室町期に興福寺大乗院方衆徒として勢威を誇り、大和五大豪族にも数えられる古市氏の居城で、越智氏と結んで筒井氏と対立する中、幾度か落城と再建が繰り返されましたが、天文12(1543)年に筒井氏に敗れると城を自ら焼いて退去し、廃城となったようです。

古市城は、現在は東市小学校の敷地になっている高台を本丸とし、本丸北側の「字古城」周辺を二ノ丸、西側平地部の古市集落の環濠を外堀とした広い範囲が城域とされますが、小学校南側の八反池とその東側の湿地が水堀跡で、他には小学校の高台にお城っぽさを感じるくらいで、遺構は見当たりません。小学校のグラウンドには城跡碑と説明板があるようですが、グラウンドへの門は閉鎖されており、石碑や説明板だけのために正門までまわって許可を取って…という気になれなかったので未確認です。

また、古市城の南側にある高山城と藤原城は、いずれも出城として機能していたと考えられ、高山城では曲輪や堀切が確認できるとのことなので、北側入口に向かっている途中、藪がガサガサ動いたかと思うと、イノシシの子供(うり坊よりずっと大きい)が前方に現れました。互いに固まってしまい、しばらくにらみ合っていましたが、イノシシが逃げたのでほっと一安心……とはいかず、子供がいるなら近くに親もいるはずと考えると、とても城めぐりどころではなく、急いでその場を退散しました。その後、南側入口に行ってみると(入る気はない)、イノシシ捕獲許可の標識が掲示されており、やはりイノシシの生活圏になっているようです。小学校から100mと離れていない舗装道だったんですが…油断できませんね。

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刑部

伝説? (2019/10/20 訪問)

伝説地の石碑があります、その周りは畑。林に入ると土塁・堀 らしき遺構があります。

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赤い城

鬱蒼とした竹藪な感じ (2019/10/20 訪問)

住宅地の中にあり駐車スペースもなかったので近くの霊園駐車場を使わせてもらいました。
入口に説明板があるもののなかなか進みにくい雰囲気。
意を決して郭の中に進むと竹藪。
しかも暗く重い感じでした。
しかしながら土塁や堀が残っていて見る所はあったかなぁと。
台風の影響で空堀が水堀となっていました。

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同じ山塊にある大仙山城も良い (2019/10/16 訪問)

模擬天守がある周匝茶臼山城と緩斜面の鞍部を介して大仙山城がある。周匝茶臼山城の模擬天守下まで細い車道があり、その途中に大仙山城に入って行く道(車は行けない)の表示がある。道及び大仙山城内は、白杭とロープで丁寧に案内されている。大仙山に行く尾根は緩斜面であるため、たくさんの堀切が設けられている。
周匝茶臼山城の郭跡や竪堀の残りは良好だが、大仙山城の方が規模が大きく残りも良い。要所に立てられた手書きの説明板の内容が微妙で楽しい。

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トーダイ

元「伊自良の里」資料館は閉館してます (2019/10/23 訪問)

詳細不明ですが。鎌倉時代から活躍した伊自良氏の館跡です。

温泉施設「伊自良温泉」駐車場を利用、伊自良橋を渡ると平成10年開館したが、
入館者が少なく閉館した元「伊自良の里」資料館があります。展示資料は福井県立
歴史博物館へ移管されてます。

隣接して「館」風の建物が続いており、入口に「いじら・やきはた食堂」とあるが、
営業している様子はない。周囲に遺構らしきモノは見当たらず、温泉施設「伊自良
温泉」だけ繁盛している。

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イオ

城郭史上画期的な城 (2019/09/15 訪問)

松永久秀が大和国支配のために築いた城で、多聞櫓の発祥の城であり、瓦葺きの屋根、漆喰塗りの白壁、そして天守の先駆けとも言われる四階建の高矢倉など、後世の築城に大きな影響を与えた画期的な城でしたが、久秀が織田信長に反旗を翻すも敗れて開城した後は破城となり、主殿は京都に、高矢倉は安土に、石材は筒井城に運ばれました。

本丸部分は現在では若草中学校の敷地になっており、遺構の多くは失われましたが、中学校の西側、西丸付近には土塁や櫓台がみられる…ようです。きちんと許可をとれば学内に立ち入って見学できるとのことですが、日曜の朝だったからか、門を入ったところの建物には教職員の姿はなく、無断でずかずか入り込むのは気が引けるので、この日は周辺を散策するにとどめました。

中学校の門から少し下って、西に向かうと佐保山南陵(聖武天皇陵)と佐保山東陵(光明皇后陵)があり、南陵の西側をまわって北側の狭い路地に入ると、南陵と東陵の間に設けられた堀切に行き着きます。天皇(皇后)陵のため立ち入り禁止ですが、それだけに往時の姿が残っていると思われます。
中学校の北側を切岸を見上げながら東に進むと、本丸と善鐘寺山(中学校のグラウンド)の間の堀切が切通道として残っています。この切通道から見ると東大寺などの社寺はすぐそこで、南都に睨みを利かせる城だということを実感します。

なお、中学校の門から南に下って、堀代わりとされた佐保川を渡ったところの若草公民館には、多聞山城についてのパネルや地形の模型が展示されているほか、資料もいただけるので登城前後にぜひ。
また、少し(かなり)離れていますが、生駒郡安堵町の旧石田家住宅(重文・中家住宅の西隣)には、多聞山城から移築されたとされる長屋門が残っています。…今にも倒壊しそうですが。
 

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カズサン

伯耆の拠点的城跡 (2017/04/21 訪問)

 一昨年の4月下旬、淀江台場を終えて大山北側丘陵の先端を活用した中世伯耆一の城跡尾高城を初登城。
 この城は山名氏、尼子氏、毛利氏と移り変わり山中鹿之助の逸話でも有名な城で、関ヶ原後中村一氏息子一忠駿府城より伯耆の国18万石で入封し米子城が完成するまで居城とし以後廃城。
 桜の過ぎた時期でしたので名残のぼんぼりが揺れていました。 車は尾高城天神丸跡に当たる温泉施設の駐車場に停めて探訪、堀切に当たる大山道を渡り、説明板、武家屋敷跡、堀跡、南大首郭跡、隅櫓台、中の丸、本丸二の丸の有る森を遠望、天神丸、温泉施設シャトー・おだかで尾高城の資料を頂く。 本丸二の丸は入れない。
 

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カズサン

伯耆五台場の一つ (2017/04/21 訪問)

 一昨年の4月下旬高校卒50年同窓会、鹿野城下檀家寺法要用事で鳥取帰省用事の前に伯耆の城廻り淀江台場に初探訪、国道9号線を西に走り台場は直前、漁港近くの漁業協同組合淀江支所の駐車場に停める、後で探訪したら台場北横に駐車場(3台位)が完備。
 鳥取藩で8台場有り伯耆では5台場(国史)赤崎台場以外は台場の形が残ってます境台場、由良台場、橋津台場とここの淀江台場です。
 ここの台場も農民の力と農兵で造られ守られていたようです。

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にのまる

ここも亀山城 (2019/09/24 訪問)

藤堂高虎が家康の天下普請のために今治城天守を丹波亀山城に献上したという逸話には、なんてもったいないことを…と思ったものですが、元々彼は天守を解体するつもりでいた(移築先が伊賀上野城→丹波亀山城になった)ということを知り、それならもったいなくもなかったかと…(^-^)
そして、層塔型天守のフレキシブルで方形の基礎さえあればどこにでも建築可能で真似しやすいという特長が、世渡り上手と言われた彼の生き方(近年汚名返上されてきていますが)と重なり、改めてお城と武将(ハードとソフト、みたいな。)は一体のものなんだと感じた次第です。
ただ、丹波亀山城の古写真を元に再建された今治城天守は〈なんか違ってしまった〉ようで、高知城と掛川城のようなwin-winの関係になるのは稀なことなのかもしれないと思いました。
古城感みなぎる石垣は見上げるだけで満足でした。

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赤い城

民家の裏山 (2019/10/20 訪問)

細い道で駐車スペースがなかったので埼玉県農林公園に車を置き徒歩で10分くらい。
説明板がたっている奥はどう見ても民家。
声をかけると見学させていただけそうなのですが呼び鈴を押すのも気が引け、遠景のみの見学となりました。
畠山忠重の家臣本田親恒の居館とされ、現在も本田氏の末裔がお住まいのようです。
遺構もあるとのこと。
有れば、ですがまたの機会に。

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カズサン

吉川経家墓所 (2017/04/20 訪問)

 一昨年の4月下旬鳥取に用事で帰省の途中丹波、丹後未踏の城を廻り高速京都縦貫道、舞鶴若狭道、北近畿豊岡道を経由して国道9号線で鳥取に入る、帰省の度に鳥取城には寄ってるのですが今回は高校卒後50年ぶりに鳥取城の裏側東方面の吉川経家公の墓所に参拝、昔に比べればきれいに整備され公園化、周辺は宅地が進んでました。
 
 吉川経家は毛利氏より城主として送られ秀吉との第二次攻防戦を戦い三ヶ月あまりの籠城戦の末、自身切腹に変えて城兵を守った事で名を後世に伝えてる。
 
 終わって表側中御門前の擬宝珠橋復元工事の進捗状況確認し内堀より久松山に抱かれた鳥取城の石垣群を眺める。

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再訪▪城廻りvol.8 篠山城② (1987/03/06 訪問)

再訪▪城廻りvol.8 篠山城②
(昭和57年3月6日訪問▪平成31年4月7日再訪)

現在、篠山城を訪れてみると東側の三の丸に小学校があるだけで、その他は南、西、北側はとても広いオープンスペースとなり、駐車場やデカンショ祭りなどのイベント会場として利用されていますが、何か広大な空き地に少し寂しさを感じます。

これは、これまでの整備計画により、城と関係のない施設を城外移転するという計画に沿って実施されてきたものです。
また、計画当初は本丸にある青山神社や東側の三の丸にある篠山小学校も移転の対象になっていましたが、時代や状況の変化により、民俗資産として、または郷土愛を育んできた場として一番よい在り方を今後検討するというふうに、少しニュアンスが変わってきています。
最近、「お城が遠くなった」と市民からの声もあがるなど跡地の活用面が追いついていないという問題も。

しかし、お城ファンの私たちにとってはとても魅力的な篠山城。武家屋敷や商家群が多く残っているのも魅力の一つ。今後の計画でも、三の丸南側の南廊下門などの整備や大手馬出の整備などが予定されています。

歴史ファン、観光客や市民たちで賑わう篠山城をまた見ることができる日も近いのかもしれません。
三の丸がどのように整備、活用されていくのか楽しみでなりません。

(写真の説明です)
⑪手前の三の丸は篠山中学校のグランド。その先に南馬出の土塁が見えています。

⑫南馬出は完存する遺構ですが、木々が生い茂り土塁はあまりよく観察できませんでした。

⑬天守台には忠魂碑が建っていました。

⑭天守台上の忠魂碑は平成10年に城外移転。二の丸西側石垣上には、大書院と一緒に復元された大広間の屋根が見えています。

⑮左側の馬出内部には旧多紀福祉事務所の建物がありました。右の土橋は廃城後のもの。

⑯土橋は昭和57年に撤去されました。馬出内部の建物も撤去され、ポケットパークになっています。

⑰東馬出の北側の堀。

⑱旧多紀福祉事務所の建物と土塀が撤去されています。

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イシテル

稲葉一鉄が築いた城 (2019/10/22 訪問)

曽根城は、西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄により築かれたとされています。
稲葉一鉄の母親の菩提寺として創設された華渓寺が本丸跡に現在、移設されています。
この華渓寺の北側は大きな池のある曽根城公園として整備され、多くの方が利用されていました。
遺構は、ほとんど残っていませんが、お寺の裏に復元石垣や西側も復元土塁があり、またこの地にゆかりがある春日局の碑、公園の近くにも斉藤利三屋敷跡を記録する碑があります。
お寺の敷地内には幕末の漢詩人であり勤王の志士であった梁川星巌の記念館が年中無休で無料開放いただいています。
梁川星巌記念館の中に入ると直筆の漢詩や書簡などが展示されており、また曽根城の記念スタンプも置かれていました。
記念スタンプの傍に御朱印がいただけるとのメッセージが書かれていましたので、和尚さんにお願いしました。
和尚さんの話では、以前、発掘調査が行われ、石垣や礎石などの遺構が見つかっていますが、調査が終わると埋め戻され、今は見ることができないとのことでした。残念ですが仕方が無いですね。

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再訪▪城廻りvol.8 篠山城① (1987/03/06 訪問)

再訪▪城廻りvol.8 篠山城①
(昭和57年3月6日訪問▪平成31年4月7日再訪)

天下普請で築かれた、二の丸御殿が復元されている丹波篠山城に行ってきました。今回で7度目の訪問です。
最初37年前に訪れた時は、本丸、二の丸は史跡公園として市民の憩いの場となっていて、三の丸には小中学校などの学校施設やグランドがあり、多くの生徒たちが行き交っていました。
二の丸ではちょうど発掘調査中で、昭和19年に失火により焼失した二ノ丸御殿の遺構が出土していました。(写真①)

今年の4月に訪れた時は、桜祭りの準備中。満開少し前でしたが、ここは桜の名所でもあり、多くの花見客で賑わっていました。

篠山城は昭和31年に国の史跡に指定されて以来、昭和41年から、明治の中頃に崩落し70年あまり崩れたままに放置されていた二の丸北側の高石垣の修理工事が始まり、毎年のように城内の石垣修理工事や復元工事が行われてきました。
平成10年に概ね完成し往時の石垣の姿を取り戻しています。

平成12年には、焼失以来、市民の念願であった二の丸大書院が復元され、歴史ガイダンス施設として多くの歴史ファンや観光客が訪れる場所となっています。

これまで、数度の整備計画が策定または見直しが行われ、現在も進行中で、南側の内堀の復元工事が行われています。
9月には三の丸南側の元市民グランドがあった場所の整備が完了し、公開されたばかりです。今まで立ち入り禁止でしたが、天守台の高石垣を間近で見上げることができるようになりました。
(再訪▪城廻りvol.8 篠山城②につづく)

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