甲斐の武田信玄にとって、武田水軍の結成は悲願であったと思う。しかしながら甲相駿三国同盟もあり、悲願達成は1568年の駿河侵攻後となってしまった。身延街道から、江尻城、袋城、久能山城、持舟城を整備し、高天神城まで陸上でも海上でも行けるルートを確保されては、徳川方は高天神城を守るのは至難の技だっただろう。勝頼が長篠の敗北後、早々と二俣城が落城してしまったのは、この海岸ルートの死守を優先したからではなかろうかと私は考えている。その中で、久能山城は駿河湾の海上ルートを守る中心地だったであろう。久能山城としての遺構はほとんど残っていない。今は麓から東照宮まで石垣が連なり国宝の威厳と雰囲気を感じるが、戦国期や江戸初期などガケ地に獣道がついてた程度であろう。木々が無ければ、守衛に発見されずにこのガケを登る事はほぼ不可能に近い。
家康公は久能山を駿府城の本丸と言っていたが、納得だ。
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