この城の築城年や築城者は不明だが、平安時代に藤原秀郷や長岡郡司の平資幹が拠ったとの説がある。奥州探題大崎氏の時代は城主としてその家臣、葛岡太郎左衛門・宮沢遠江・岩崎讃岐の名が見える。秀吉の奥羽仕置き後の葛西・大崎一揆に際して大崎旧臣がこの城にたてこもり、伊達政宗勢に攻められるも和議によって開城したと云う。
城は県北大崎市の北西に位置する低丘陵に築かれ、本丸を二ノ丸、外曲輪が囲み、西館、南西側に出曲輪(現在は上郡山光岳寺が建つ)を配して、北を流れるサイカチ川の水利により三重の堀を巡らせた堅城であった。往時、毎年立春の頃には川鵜が飛来したことから「鵜ヶ城」の別名を持つが、落城の年には鵜が来なかったとの言伝えがある。
江戸時代を通じて仙台藩の「要害」として後藤氏、上郡山氏につづき延享4年(1747)に長沼氏(着座二番坐1500石)が配され明治を迎える。
現況は鹿島神社・八幡神社を祀る本丸跡に土塁の一部を残すのみ。各曲輪を囲んだ堀も田畑や宅地に変わり、「浮き城のごとし」と評された堅城の面影は失われてしまった。
+ 続きを読む









