理文先生のお城がっこう 城歩き編 第61回 櫓➂ 櫓の名称その2

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、城を守るための施設として門などに建てられた櫓をテーマにした第3回です。前回に続き、櫓の種類やその名付け方について、各地のお城を例に見ていきましょう。

前回は、櫓(やぐら)の名前の付け方の中で、「方位(どちらの方向にあるかです)を付けた櫓」「単純(たんじゅん)に順番をふった櫓」「保管(ほかん)されていた物資(ぶっし)の名前を付けた櫓」を見てきました。今回は規模(きぼ)や形状(けいじょう)、あるいは特殊(とくしゅ)な名前を持つ櫓を見ていきたいと思います。

規模・形状によって付けられた櫓名

重箱(じゅうばこ)櫓、菱(ひし)櫓というように形によって名前を付けられた櫓がありました。重箱とは、おせち料理やお花見などで料理を入れる二重から五重に積み重ねられ最上段(だん)に蓋(ふた)を付けた、めでたい場で使われる箱のことです。この重箱と同じように、1階の平面と2階の平面の大きさが同じ規模で造(つく)られた櫓を「重箱櫓」と呼んでいます。1階の規模が小さかったため2階の規模を減(へ)らすことが出来ない場合や、多くの櫓を量産しようとする場合など、1階の梁組(はりぐみ)を単純に組み上げることが出来るために便利でした。

岡山城西の丸西手櫓
岡山城西の丸西手櫓(重要文化財)。慶長(けいちょう)8年(1603)頃の建築で、中枢(ちゅうすう)部の西端を守備する要でした。1・2階同大の重箱櫓ですが、外面と内面の意匠(いしょう)が大きく異なっています

平面が菱形や平行四辺形にゆがんだ形をした櫓を菱櫓と言います。これは、土台になる櫓台の隅角(ぐうかく)部が直角ではなく、鈍角(どんかく)(90度より大きい角度のことです)になっているためで、そこに櫓を建てれば平面がゆがんでしまうわけです。大きな櫓や天守建築(けんちく)なら、望楼(ぼうろう)(がた)として上階を方形(四角形です)とすることでゆがみを修正(しゅうせい)しますが、二重櫓の場合は、あえて修正しなくても不便では無かったため、こうした菱形をした櫓が見られるわけです。

金沢城二の丸菱櫓
金沢城二の丸菱櫓。平成13年(2001)復元。大手と搦手(からめて)を見張る役目がありました。建物の平面が菱形(内角が80度と100度)になっていて、柱にも菱形の柱が用いられています

特殊な用途の櫓

方位や保管物の名前ではなく、特別な用途(ようと)があったため、それを櫓の名称(めいしょう)とした例があります。通常、城主が櫓に上がることはありませんでした。唯一(ゆいいつ)の例外が「月見櫓」で、ここで月見の宴(うたげ)が催(もよお)されたのです。現存する岡山城(岡山県岡山市)や松本城(長野県松本市)は、共に高欄(こうらん)付きの縁側(えんがわ)が設(もう)けられ、月を見るには最適(さいてき)の環境(かんきょう)になっています。月見櫓は、全国各地の城に存在(そんざい)していたことが記録から解(わか)ります。

岡山城
岡山城月見櫓(重要文化財)。城外側には戦闘(せんとう)装置(そうち)を設けていますが、城内側は雨戸立てで開け広げた造作(ぞうさ)となり、ここで月見や宴を催したと考えられています。3階には縁側も設けられています

月を見るのと同様に、富士山を眺(なが)めるための「富士見(ふじみ)櫓」が、東海地方や関東地方の城には残されています。特に有名なのは、江戸城(東京都千代田区)富士見櫓で、天守が焼失した後は「天守代用」とされたと伝わる三重櫓です。1階が7間×6間、2階は6間×5間、3階が4間半×3間半と規則(きそく)的に逓減(ていげん)(次第に減ることです)する美しい外観で、どこから見ても同じように見えることから「八方正面の櫓」とも呼(よ)ばれました。高さも15.5mと宇和島(うわじま)(愛媛県宇和島市)天守とほぼ同規模の巨大(きょだい)櫓でした。川越(かわごえ)(埼玉県川越市)の富士見櫓も天守代用で、三重三階の規模でした。宇都宮(うつのみや)(栃木県宇都宮市)は二重二階の規模で、平成19年(2007)に復元されています。共に、巨大な土塁(どるい)上に建てられた櫓でした。浜松(はままつ)(静岡県浜松市)は、本丸の南東端(はし)の高台に石垣(いしがき)を築(きず)き、その上に築かれた平櫓(ひらやぐら)を富士見櫓と呼んでいます。発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)で城内側が開放的に造られたことが判明(はんめい)しています。

江戸城富士見櫓、宇都宮城富士見櫓
江戸城富士見櫓(左)は城内に残る唯一の三重櫓で、万治2年(1659)の再建です。宇都宮城の富士見櫓(右)は、元和5年(1619)に本多正純が建て、平成19年(2007)に復元された二重二階の櫓です

月や富士山を眺めるのと同様に、櫓から見ることを目的にした「着見(つきみ)櫓」もあります。この櫓は、船が港に着くことを警戒(けいかい)して見張(みは)るための櫓と言われています。「潮見(しおみ)櫓」は、海の近くに位置し、潮の満ち引きを監視(かんし)する役割(やくわり)がありました。「着到(ちゃくとう)櫓」は、合戦へ行く時や城に籠(こも)って戦うことに備え味方の将兵(しょうへい)たちが城に入ったかどうかを立ち会って調べて見届(みとど)けるための櫓です。

高松城着見櫓
高松城着見櫓(重要文化財)。延宝(えんぽう)4年(1676)に建てられた櫓で月見櫓とも言われます。出入りする船の監視が役目でした。右側に見える水手御門は、直接海に向けて開く海城特有の城門で、ここから藩主(はんしゅ)が御座船に乗ったと言われています

時を知らせるための櫓もありました。太鼓(たいこ)を叩(たた)いたり、鐘(かね)を打ったりして、時を知らせたのです。そのため、「時(とき)櫓」とか「太鼓櫓」、あるいは「鐘櫓」と呼ばれましたが、いずれも時を告(つ)げたり、城門の扉(とびら)を開けたり閉めたする合図の太鼓や鐘を鳴らしたりする場所になります。城の城門は、日の出とに開き、日の入りと共に閉じられるのが通常(つうじょう)でした。城に出入りする藩士(はんし)や、城下町の人々に時を知らせるために、すべての城に設(もう)けられ、城内や城下町の隅々(すみずみ)にまで音を響(ひび)かせていたのです。

掛川城太鼓櫓
掛川城太鼓櫓。嘉永(かえい)7年(1854)の大地震(じしん)後に建てられ、城下に時刻を知らせる大太鼓を納(おさ)め、時を知らせていました。何度かの移転(いてん)の末、昭和30年(1955)現在(げんざい)の荒和布(あらめ)櫓のあった位置に改築され移築されました。太鼓は、二の丸御殿(ごてん)の広間に展示(てんじ)されています

井戸や台所という、生活に必要で欠くことが出来ない櫓もありました。井戸櫓は、その名の通り内部に井戸を設けた櫓です。姫路城(兵庫県姫路市)には「井郭櫓(いのくるわやぐら)」と呼ばれる、内部に井戸を持つ櫓が現存しています。この名称は、江戸時代の記録には見られず、往時(おうじ)は単に「井戸櫓」と呼ばれていたようです。

姫路城井戸櫓
姫路城井戸櫓(井郭櫓)(重要文化財)。櫓の中に井戸を設けた珍(めずら)しい櫓で、井郭櫓と呼ばれていますが、井戸櫓が正しい名称だと思われます。本丸備前(びぜん)門の近くに位置し、ここから本丸御殿へと水を運んだことが推定(すいてい)され、慶長年間(1596~1615)の建築と考えられています

「台所櫓」は、その名のとおり台所の役割を持った櫓のことです。現存する大洲(おおず)(愛媛県大洲市)の台所櫓は、天守と渡櫓(わたりやぐら)で繋(つな)がっており、その大きさは6間×4間で城内の櫓の中では最大規模で、まるで小天守のようです。台所櫓だけあって、1階の3分の1が土間(どま)となっているほか、煙(けむり)を外に出すための排煙(はいえん)用の格子窓(こうしまど)なども取り付けられています。本来、台所は御殿に付属(ふぞく)する大規模な建物でした。絵図等を見ても、かなりの面積を持つ建物だったことが解ります。櫓の台所は面積も狭(せま)く、万が一に備(そな)えた施設(しせつ)と思われます。

大洲城台所櫓
大洲城台所櫓(重要文化財)。現存する4基(き)の櫓の一つで、天守と渡櫓で連結しています。安政4年(1857)の大地震で大破(たいは)し、安政6年(1859)に再建された櫓です

移築された櫓

元々その場所にあった櫓ではなく、別の場所にあった櫓を取り壊(こわ)し、その材料を使って原形を保(たも)たせたまま、他の場所に建て替(か)えた櫓も見られます。そうした場合、その櫓が特別な名前で呼ばれることがありました。例えば、名古屋城(愛知県名古屋市)の御深井丸(おふけいまる)西北隅櫓は、別名清洲(きよす)櫓と呼ばれ、清洲城(愛知県清須市)天守を解体して運んできたとの伝承(でんしょう)があります。

また、「伏見(ふしみ)櫓」と総称される櫓が全国各地に残されていました。最も有名な櫓は、福山城(広島県福山市)伏見櫓で、梁に「松ノ丸ノ東やぐら」という刻印(こくいん)が残され、伏見城の松ノ丸から移築されたことが確実視(かくじつし)されています。その他、江戸城(東京都千代田区)伏見櫓、大坂城(大阪府大阪市)伏見櫓(太平洋戦争で焼失)、尼崎(あまがさき)城(兵庫県尼崎市)伏見櫓(明治期に解体)などが存在していました。元和(げんな)5年(1619)に廃城が決定した伏見城(京都府京都市)から移されたため、この名が付けられたと考えられています。福山城には、福山築城以前の居城(きょじょう)であった神辺(かんなべ)(広島県福山市)の廃城(はいじょう)に伴(ともな)い移築された櫓が4基あり、いずれも「神辺〇番櫓」と数字を冠(かん)した名称が付けられ、神辺城から福山城へ拠点が移動したことを示したとされています。

福山城伏見櫓
福山城伏見櫓(重要文化財)。現存する三重三階の典型(てんけい)的な望楼型の櫓です。元和8年(1622)、水野勝成が2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の命により、伏見城の松の丸東櫓から移築したものです

大坂城の大手門の脇(わき)には、「千貫(せんがん)櫓」と呼ばれる巨大な二重櫓が現存しています。この櫓は、大坂城の前身である石山本願寺を攻(せ)めた織田信長(おだのぶなが)が、この櫓からの攻撃(こうげき)に手を焼き「あの櫓を落とした者に、千貫文を与(あた)える」と言ったために「千貫櫓」と命名されたと伝わります。大手脇に位置していたため、豊臣大坂城、徳川大坂城へと名前が継承されたと考えられています。

大坂城千貫櫓
大坂城千貫櫓(重要文化財)。元和6年(1620)に築かれた櫓で、現存する城内の建物では、西の丸乾(いぬい)櫓と並び最古の建造物です。大手門を北から防御する重要な役割を持っていました

このように櫓の名前は、様々な事情(じじょう)があって付けられてきたのです。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※望楼(ぼうろう)
遠くを見渡すための櫓のことです。または、高く築いた建物のことです。

※高欄(こうらん)
廻縁(まわりえん)からの転落を防止するために手すりを付けますが、高級な造りの手すりであったため、高欄とか欄干(らんかん)と呼びました。

天守代用(てんしゅだいよう)
家格(かかく)や幕府(ばくふ)への配慮(はいりょ)等の理由で、天守が建てられないため、代わりの役目を担った御三階(ごさんかい)などの櫓を言います。櫓ではなく、書院を代用とした記録も残ります。

※平櫓(ひらやぐら)
一重の櫓。最も簡略な櫓で、平面規模も二重櫓より小さいのが普通です。倉庫的役割が主な櫓になります。

※渡櫓(わたりやぐら)
左右の石垣の上に渡して建てられた櫓のことです。または、石垣上に長く続く櫓や、櫓と天守あるいは櫓と櫓の間に建てられた接続(せつぞく)目的の櫓のことです。

※小天守(こてんしゅ・しょうてんしゅ)
天守に付属する櫓のうち、最上階が天守本体と離(はな)れて独立(どくりつ)している建物を小天守と言います。小天守は1基とは限りません。姫路城には3基の小天守が付設しています。

※土間(どま)
室内に設けられた土足で歩けるスペースのことです。

※格子窓(こうしまど)
窓枠(わく)に、角材を縦横(たてよこ)の格子状に組み上げた窓を言います。中間に補強用の水平材が入らずに、角材を縦方向に並べたものは、本来連子窓(れんじまど)と言いますが、現在は格子窓と呼ばれています。

次回は「櫓④ 天守代用の櫓1」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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