2023/07/24
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第62回 櫓④ 天守代用の櫓1
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、天守がないお城において天守代用という特別な役割を持った櫓がテーマです。なぜ天守を立てず櫓で代用したのか? 通常の天守と代用天守との違い、そして通常の櫓と天守として代用された櫓との違いは何だったのか? 全国のお城を例に見ていきましょう。
前回までは、様々な櫓(やぐら)の名前の付け方を見てきました。城の中には、様々な櫓が建てられていたことが解(わか)りましたか。今回は、櫓の中でも特別な役割(やくわり)を持っていた櫓を見ていきたいと思います。
「武家諸法度」の公布
元和元年(1615)の武家諸法度(ぶけしょはっと)の公布(こうふ)によって、自由に城を建てることや建物を追加したりすることが禁止(きんし)されました。それだけではありません、建物が壊(こわ)れて修理(しゅうり)したり、石垣(いしがき)が崩(くず)れて積み直しをしたりすることも、幕府(ばくふ)の許可(きょか)を得(え)なければならなくなったのです。
では、天守はどうだったのでしょう。武家諸法度が公布された時に天守が城内に建っていた城では、天守の建て直しや造(つく)り替(か)えることについて幕府は許可を与えていました。簡単に言うなら、天守を建てて、引き続き維持(いじ)管理していく権利(けんり)が認(みと)められていたということになります。中には、財政(ざいせい)的な問題のためか、それとも江戸城(東京都千代田区)に天守が再建(さいけん)されなかったからか、加賀前田(かがまえだ)家のように、自然災害(さいがい)で天守を失ってしまうとそのまま建て直さなかった城もあります。
そうした中、天守を持つことができなかった城において、三重櫓を天守の代用(あるものに変えて別のものを使うことです)とすることがありました。特に、将軍家のお膝下(ひざもと)(直接(ちょくせつ)支配(しはい)が及(およ)ぶ範囲(はんい)のことです)である関東地方に多く見られます。
高崎城三階御櫓北面之図(左)同西面之図(右)(「御門御櫓両刎橋武者雪隠絵図」より)高崎市教育委員会提供
本丸の北西角の乾(いぬい)櫓と、本丸西面中央付近の刎橋(はねばし)門の間の高さ約7mから10mほどの土塁(どるい)上にあり、高崎城で唯一(ゆいいつ)の三重三階の櫓で、「三階御櫓」または「御三階」と呼称(こしょう)しています。これは幕府に遠慮(えんりょ)して、三階櫓でもって天守代用としたためです
天守代用の三重櫓
「公式の天守(公的な手続きの元、建てられた天守)」と「非公式の天守(天守代用)」は、どのように区別したらいいのでしょうか。
四重以上の櫓はすべて天守とみなされていましたので、四重の「非公式の天守」は存在(そんざい)していません。三重の櫓で、「公式の天守」と「非公式の天守(天守代用)」が存在したということです。両者の区別は、城主の石高(こくだか)(土地の値(ね)打ちを米の収穫量(しゅうかくりょう)であらわしたものです)でもなければ、外観意匠(がいかんいしょう)(美的な外観のことです)に破風(はふ)や廻縁(まわりえん)が配されているかとか、内部の階数や規模(きぼ)ではありませんでした。単に幕府へ報告(ほうこく)した書類にどう書かれていたかという極めて単純(たんじゅん)な基準(きじゅん)だったのです。
前述(ぜんじゅつ)したように、武家諸法度が発布されるより前から建てられ「天守」と呼ばれていた櫓は、規模は無関係で公式な天守として幕府から認(みと)められました。しかし、この法律(ほうりつ)の発布より後に初めて建てられた三重櫓は、大きさや外観の飾(かざ)りが天守と同じであったとしても非公式天守になり、天守代用櫓になります。ただ、高松城(香川県高松市)のように武家諸法度の特例として幕府から天守建造が認められた場合は、三重櫓でも公式天守ということになります。
備中(びっちゅう)松山城天守は、二重二階高さ約11mと我(わ)が国最小の天守です。慶長(けいちょう)11年(1606)頃(ごろ)から開始された小堀政一による修築(しゅうちく)時に天守が築かれ、天和(てんな)元年(1681)から3年かけて水谷勝宗(かつむね)が大改修を実施し、現在の天守を建てました。天守は、武家諸法度発布以前から存在していたため、「公式天守」ということになります
慶長7年(1602)、新発田(しばた)城に入った溝口秀勝が築城を開始し、承応(じょうおう)3年(1654)3代宣直の代に一応の完成を見ました。入封から実に56年後のことでした。天守は無く、本丸西端にあった三階櫓を代用としていました。これは「非公式の天守」ということになります
武家諸法度が発布されるより前に天守が建っていた城でも、その後に自然災害や火災等によって天守を失ってしまった時に、時の城主が天守を持てない家格(かかく)(家の格式や身分のことです)であった場合や、幕府に気がねして正式の天守を建てなかった場合なども三重櫓で天守代用とすることがありました。このような天守代用の櫓は、「三階櫓(さんかいやぐら)」とか「御三階(ごさんかい)」と呼(よ)んで、普通(ふつう)の三重櫓と区別することがありました。
金沢城御三階(作画:香川元太郎)
慶長7年(1602)雷火(らいか)により天守が焼失したため、天守台上に三階櫓が建てられました。寛永(かんえい)8年(1631)に再焼失しましたが、すぐに再建されました。130年後の宝暦(ほうれき)の火災で再(ふたた)び焼失すると、以後再建されませんでした
なお、天守代用櫓は外観が三重であれば、外からでは内部の階数は解りませんでしたので、三階でも、四階でも、五階でもよかったのです。そのために、三重四階などの天守代用櫓が存在していたのです。
例として2つ挙げておきます。水戸城(茨城県水戸市)御三階は内部が五階、金沢城(石川県金沢市)御三階の内部は四階建でした。また、当初から実質上(じっしつじょう)の天守として建てながら、松前城(北海道松前町)や白河小峰(しらかわこみね)城(福島県白河市)では、幕府に配慮し三重櫓と呼んでいました。白石城(宮城県白石市)は公式にも大櫓(おおやぐら)と称していたのです。現存する御三階櫓としては、丸亀(まるがめ)城(香川県丸亀市)天守(御三階)があります。大手側に唐破風(からはふ)を設け、初重は下見板張(したみいたばり)とするなど、意匠も工夫を凝(こ)らしてあります。
前述のように天守代用の櫓の定義(ていぎ)は、極めて複雑でした。その位置もまた特別で、本丸に建てられたものだけではなく、二の丸に建てられることも多かったのです。天守に代わる象徴(しょうちょう)的存在である以上、その位置はどこでもよかったのでしょう。
丸亀城天守(御三階)。万治(まんじ)3年(1660)京極高和は、海側の搦手(からめて)門を大手門に改め、大手から見上げる石垣上に三階櫓を構え、天守代用としたのです
通常の三重櫓との違い
通常の三重櫓と天守代用の三重櫓との一番の違(ちが)いは何だったのでしょうか。
一般(いっぱん)的に見て、天守と天守代用櫓の違いは、窓(まど)の配置です。天守や天守代用櫓は、四面すべてに窓が設(もう)けられていました。通常の三重櫓でも、四方全てに窓が設けられている例もありますが、多くの場合内側に向かった窓は設けられていません。櫓は戦闘(せんとう)目的であり、外だけ見渡(わた)せれば用が足りたのです。窓だけではありません、破風もまた同様で、飾りであったため内側に設ける例はほとんどありませんでした。通常の三重櫓の城内側は、窓も破風もない、極めて殺風景(さっぷうけい)な姿(すがた)だったのです。
対して天守代用櫓は、通常の櫓とは違い四面すべてに窓や破風を設けていましたので、「八方正面の櫓」と呼ばれ、どこから眺(なが)めても正面のように見えたと言われます。
江戸城富士見(ふじみ)櫓は、慶長11年(1606)に創建し、明暦3年(1657)に焼失。万治2年(1659)に再建され、関東大震災で大破したため、旧材を利用して再建されたと言われています。どこから見ても同じに見えることから「八方正面の櫓」といいます
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※三重櫓(さんじゅうやぐら)
屋根の数が3つの櫓で、城の中で最高格式を持つ特別な櫓でした。小型(こがた)の天守に匹敵(ひってき)する規模があったため、大城郭(じょうかく)以外で建てられることはありませんでした。天守を持たない城では、三重櫓を天守の代用とする例が多く見られます。
※破風(はふ)
切妻造(きりづまづくり)や入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻側(つまがわ)に見られる端部(たんぶ)のことです。破風には、入母屋破風、切妻破風、千鳥(ちどり)破風、唐破風などがあります。
※廻縁(まわりえん)
建物の周囲(しゅうい)に廻(めぐ)らされた縁側のことです。建物の本体の周りに短い柱を立て並(なら)べ、それで縁側の板を支(ささ)えた物です。天守の最上階に用いられることが多い施設(しせつ)です。
次回は「櫓➄ 天守代用の櫓 2」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。