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昌官忠

(東海&関西)遠征19日目:矢倉城(城びと未登録 和歌山県新宮市) (2025/06/02 訪問)

宿泊先のホテルから徒歩15分くらいで、矢倉城東側付近(33.727520、135.989164)に着きました。

鎌倉時代(1185~1333)に明神山に矢倉氏が築いたとされます。
矢倉氏は、1340年(延元5年/暦応3年)より熊野別当に代わって熊野三山と熊野一帯を支配した熊野七上綱(七人衆)の一人です。
1400年(応永7年)には上洛して宮中より位階を与えられ、1458年(長禄2年)京都、鎌倉にも上がっているそうです。

現在、城跡は私有地で立入禁止となっている為、遠方より写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=新宮城に徒歩で向かいました。

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天守無しがアツい

年末訪問 (2024/12/29 訪問)

(参考サイト)https://kojodan.jp/castle/1071/

JR赤羽駅から歩く事数分…🚶‍♂️ そこに太田道灌に関する史跡があります。その名は稲付城跡…奥に静勝寺という寺が建っている、その手前に階段があり、その右に稲付城跡の石碑が来る人を迎える

階段の途中に小さな社(鳥居も賽銭箱も無い)があり、上りきると城跡の説明板と寺の掲示板があります。「努力する人は希望を語り 怠ける人は不満を語る」という貼紙があり、「不満が頭に浮かびそれを口にしがちな自分は怠けてる人間ということか😅」と耳が痛くなりました

「言葉自体は素晴らしいけど、人生そうは行かないことだってあるのよ🤪」ととりあえずの自己弁護。ちなみにこの寺…毎月26日に太田道灌の木造が一般公開されてるそうで、その日に参拝した方が好ましかったかもしれませんが、26日が平日の場合は無理だし、何よりここは年末年始関係なく一年中開放されてる場所

年末年始休暇は(夏休みなどの長期休暇を持たない)社会人にとって唯一の…1週間程度連続で休める休暇🎌 けれど年末年始は休業…という施設は結構存在するので、この期間に行ける場所はどうしても限られてしまいます😓

なので「それならいつでも行ける場所を年末年始用に取っておこう。その1つが稲付城跡だ」と考えてこの日(12/29)に訪問したわけです

本堂にたどり着き…中央にある穴を覗くとその下に賽銭箱が…なので100円玉をそこに入れてお参りしました。「(埼京線の10分遅延こそあったけれど)致命的なトラブルも無くここまで無事に来れて参拝できたこと…また1つ城巡りを達成できた事」への感謝をこめて…ですね🙏

その側にはお堂があり、そこにも穴の奥に賽銭箱が用意されていたので、10円玉を投入。同じように祈りました。境内の主要な場所はほぼ見学し終えましたが、これでハイ終わりはあっけなく思えたので、奥に行くと墓地があったので少し巡りました🪦

グルグル回ると…墓地は周りを民家に囲まれており、しかもすぐ側がベランダだったり、窓が開けっぱなしのアパート…とプライバシーの薄さ?というか開放感みたいなものを感じました

少し離れた場所に目をやると…そこにはイトーヨーカドーだったりマンションが🏢 その手前に民家が墓地と寺を囲むようにあり、中にはツタが壁に生え放題で中に人が住んでいるのかさえ怪しい家…昭和感あふれるボロい家もあるわけです。そう遠くないうちに…再開発で取り壊されるのかもしれませんね🏠

墓地の各墓石に目を配ると…中には戒名が「童女」「嬰子」という具合に「ああ…乳幼児のうちに逝ってしまわれたのね👼」と分かってしまう表記がありました。しかもそう遠い時代ではなく…昭和にです

年齢の書かれてない者もおり、「こういう場合は生まれて間もなく病没…0歳なため年齢カウントが無いんだろうな🚼」…戦前(昭和20年より前)における享年一歳に「この頃までは数え年がメインだったから…この子も実際は0歳没…だよね」「昔は乳幼児の死亡率が高かったため平均寿命が低かった…とよく聞くけど、この墓地からもそのシビアな世界が伺えるわ😢」と思えてしまった

中には墓石に書かれてる6人中3人が10代もしくは20代でお亡くなり…というケースもあり、しかも彼らは終戦後に亡くなってる…空襲や戦場で亡くなったわけではないようなので…何か闇を感じちゃいました。というか30代までに亡くなられてる方がそこそこいたけど…彼らの中にほぼ確実にいたんじゃないかな?結核で命を落とした方…昭和20-30年までは不治の病だし

階段を登った先にある門とは別の場所にも門があり、その側にも説明板があります。それによると…稲付城を築城した人物は…明確な事は分かってないそう。しかし寺伝には太田道灌が築城とあり、道灌は(当時この辺りを支配していた)扇谷上杉氏の家宰を務めていたことから、やはり彼による築城の可能性があるそうです

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天守無しがアツい

北条氏政・氏照の墓 (2025/06/29 訪問)

小田原駅…新幹線口とは反対方向の出口から歩いて数分の場所…小田原城よりも早く着ける

豊臣秀吉の小田原平定の際…四代目当主氏政とその弟…八王子城の城主を務めていた氏照は切腹させられ…その遺骸はこの地に埋められ整備された

墓の前には…2人がこの上にて腹を切ったと伝わる石がある🪦🪦🪨

幸せの鈴…それを買って願い事が叶ったら…墓の前にある結び場所に結ぶよう案内板にあった…

SHOW&TELL(服屋)にてそれを購入。「おいくらですか?」と店員に尋ねたら「皆様だいたい100円入れていきます」と返答されたので自分もそれに倣う

願い事が叶ったと思えたら…再びこの地に戻って…この鈴を結ぼう🛎️

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朝田 辰兵衛

勝山城散策3/3(主郭部) (2025/06/27 訪問)

見どころは主郭南側斜面の石垣ですが,ふるさと展望台からの眺望も絶景です。
しかし,下山時に注意が必要です。自分はどこからどこまでどのようにロープを伝ってきたのか,記憶を取り戻してください。間違っても,ショートカットを試みないでください。簡単にルートから外れてしまう可能性があると感じましたので。日ごろから山城攻城経験者の方には,なんとなくこのニュアンスが伝わるものと期待します。

これで,無事ににのまるさんへの予告をクリアでき,安堵しました…<笑>。

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朝田 辰兵衛

勝山城散策2/3(登城ルート案内) (2025/06/27 訪問)

さすがに猛暑の中を登城する人間は私だけでした…。私の熊スズに反応したウグイスが,鳴き声を変えて山中に知らせたため,他の動物も警戒して現れませんでした。山の中は麓より涼しかったですが,「天狗の岩屋」から先はロープを伝っての登城となります。高所恐怖症の方にはおすすめしません。

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しんちゃん

高尾城 尼子十旗 (2025/06/29 訪問)

主郭(仮)の北東の尾根をしばらく進んで、なんか違うなと気が付いて、来た道を引き返した。気づくの遅すぎだと思うけど、30度超えるとホントに頭が回らない。途中、郭についている土塁を切り欠いて虎口(門)を設けてある箇所が有った。郭の中を通って主郭に向かう構造なのか。南尾根に向かって進んでいくと、足元に「南郭群」と書かれた標識が落ちていて、実際に複数の郭があった。そこから、麓に向かって進んで行くと、西側に土塁を備えた郭が有った。南にある複数の郭も、それぞれそれなりの広さを持っている。
散策が不十分だったけど、城址の西側も興味がある。主郭とされる最高所の郭が狭い分、どこに主要部が置かれているか興味がある。

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朝田 辰兵衛

勝山城散策1/3(勝山御殿) (2025/06/27 訪問)

東横イン下関海峡ゆめタワー前に宿泊していたことにより,豊前田バス停から[11A]系統のバスで,御殿町バス停下車。徒歩約15分で勝山御殿に到着しました。すでに異常な暑さでしたので,サクッと終了。
パネルを見ると,本丸の上段と下段を仕切る石垣は「水堀跡」なんだという説明がありました。へぇ~。

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しんちゃん

最高所から三方に伸びる尾根。 (2025/06/29 訪問)

改めて見直してみると、最高所の郭を中心に、西・南・北東の三方に土橋(スロープ)が伸びていて、その先に堀切や郭などの遺構を備えています。
城址全体の規模はそれなりに大きいのですが、その割には最高所の郭が狭い、主郭ではないのかもしれないが、重要な中継地であることは間違いないのではないか。
城址の各所に様々な堀切を用いており、南側から最高所(仮に主郭として)に向かう途中に、中に畝を備えた堀があったと思う。整備があまりされていないため、藪化が進み判別しにくいが、そのように見えた。是非、自分で見て判断して欲しいです。
西側に降りていく途中、堀切が急だったため滑り降りたのだが、ストックが真ん中の弱い部分で折れてしまった。そのため、この日はストック一本で乗り切ったのだが、砂礫を含んでいて滑りやすい城が幾つか有ったので結構難儀した。やはり、予備が一本必要だ。
ストックが折れたので、そろそろ引き揚げようと思い、北→東→南と迂回して、南の登城口に戻ろうと思ったのだが、そもまま北東の尾根の遺稿に入りこんでしまった。そりゃそうだわな、と思うのだが暑さであまり頭が働いていなかったようだ。
北東の尾根の北側を削って郭を設けて有り、尾根はそのまま土橋と土塁を兼ねたスロープとなって先に続いている。なかなか面白い遺構が見れたので、これも怪我の功名というやつだ。
まだ写真が残っているので、この続きは無印(フリー)で投稿させていただきます。高尾城で検索をかけると、出城の投稿も出てくるので、併せて訪問してもらえると、ありがた山ですわ。

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しんちゃん

尼子十旗の一つで、三刀屋氏の本城。 (2025/06/28 訪問)

三刀屋城は尼子十旗の一つで、三刀屋氏(もしくは祖である諏訪部扶長)によって築かれたとされています。三刀屋城を本拠として移る前には「じゃ山」の城を本拠としていたとされています。
城址は公園となっていて山頂の本丸まで車道が続いていますが、途中に幾つか駐車可能な場所があるので、適当な所から歩いて登りました。まあ、わざわざ本丸まで車で乗りつけなくても良かろうと思ったので。山頂に本丸があり東側に天守台か櫓台のような高まりがあります。草が生い茂っているが、石が積まれているようだ。
天守台を南側から迂回して東を目指すが先は閉ざされている。若い竹を食い散らしたような痕跡がある。近くに果実をつけた木も有る。イノシシかクマの仕業だろうが、フンなどの痕跡は無かった。
本丸の西側が二の丸で、解りやすく土塁で仕切ってある。土塁を確認できるのはここだけだった。車で走りながらでは良く解らなかったが、余湖さんの縄張り図を見ると、山全体に郭を設けてあるようだ。

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雲海松江城 (2025/06/28 訪問)

国宝10周年記念で様々な催しが行われている松江城。せっかくの機会を逃すわけには!と夜の雲海松江城に行き、感動して帰ってまいりました。

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イオ

散策範囲は限定的 (2025/03/23 訪問)

詳細は不明ながら、室町中期に興福寺一乗院衆徒の片岡国春が馬見丘陵の北端に築いた城で、戦国期には筒井氏に攻め落とされて筒井氏に従い、後には松永久秀に攻め落とされて松永方の城となり、信貴山城の戦いに先立っては明智光秀・筒井順慶らに攻められて激戦の末に落城。そのまま廃城となったようです。

片岡城は城山と呼ばれる丘陵頂部の主郭部と、東、南、北にのびる尾根上に設けられた出曲輪群からなり、片岡期には主郭部のみだったのが、松永期に周辺の尾根にまで拡張されたものと考えられるようです。拡張された出曲輪群を含めればなかなかの広さがありますが、先達方の投稿にあるように、私有地のため整備された登城道と主郭以外は散策できません。もっとも、出曲輪群は藪化していて、そうでなくても散策は困難でしょうけど…。

駐車場は無く、周辺に路駐できそうな場所も見付けられなかったので、ドラッグストアに駐めさせてもらって(買い物もして)登城開始。東側から随所にある案内表示に従って進むと、道脇に片岡城跡の説明板(CG再現スポットも)と上牧町埋蔵文化財之図が立てられています。この説明板あたりから北東に東尾根の出曲輪が展開しているようです。説明板の少し手前(東側)にある祠の背後に見えるのが東出曲輪南端の土塁でしょうか。説明板の脇から北側を見ると、主郭部の東側が一段低くなっているのは松永期に改修された大堀切の跡なんだとか。現況は畑になっているため、言われてみれば…くらいの印象ですが、登城道をはさんで南側に続いている竪堀は明瞭に遺っていました。

説明板から主郭部へ。登城道の分岐から丘陵に向かうと、南に突き出た曲輪の麓を通る間ずっと横矢にさらされていることを感じます。主郭西下の曲輪からは葛下川側の眺望が開けているようですが、登城道を外れたことになるのか判断がつかず諦めました。主郭への階段を上るとよく整備された大きな曲輪が広がっています。片岡城CG再現スポットも設定されていました。主郭の北部は笹藪に覆われていますが、道のように笹藪を刈りこんだ箇所があり、この先に東出曲輪との間の堀切や北尾根の出曲輪群があるはず…と思うと誘惑に駆られましたが、認められた範囲を超過するのは間違いなさそうなので自重しました…。

分岐まで戻って、登城道から南尾根の出曲輪群を見ても藪に沈んでしまっているようです。登城道を外れずに見ることができるのはこれくらいなので、馬出跡ともいわれる教円寺に寄り道しつつ来た道を引き返しました。散策範囲は限定的で消化不良気味ではありますが、主郭だけでも散策できることに感謝すべきなんでしょうね。
 

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赤い城

笠松山城 愛媛県今治市 (2025/06/22 訪問)

世田山城から北に尾根を進みます。
途中左手に石段があり、これを下ります。
再度上り坂を登ると細い尾根道に。
広さはあるものの両サイドは崖、足がすくむような場所もありました。
世田山から20分程度で観音堂がある笠松山城址に着きました。

天気良く眺望もよかったですが明確な遺構を見つけることができませんでした。
ちなみに途中の分岐を降りずまっすぐ進むと「ガメラ岩」と呼ばれる光明岩があります。
確かに遠くから見るとガメラ?

お昼はこの辺りのソウルフード、せんざんきを頂きました。
まぁ、唐揚げなんですが骨付きのぶつ切りでボリューミー。
ビール無しで食べるのは残酷なお昼でした。

【見どころ】
 ・細い尾根道
 ・眺望

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:長島城 (2025/06/01 訪問)

紀伊長島駅から徒歩20分くらいで、長楽寺入口(34.200545、136.334872)に着きました。山門の脇に長島城跡説明板がありました。
長島城攻城後、樹齢1000年のクスノキを見る為、長島神社入口(34.199525、136.332022)に向かいました。

1384年(至徳元年・元中元年)北畠顕能・顕泰によって築かれたと云われています。
赤羽谷に隠れ住んでいた鎌倉北条氏の遺臣奥村進之丞らが近隣を荒していたので、北畠氏が長島城を築城し、家臣加藤甚左衛門を城主として派遣したそうです。
1395年(応永2年)奥村氏は尾鷲・長島にむかって挙兵したので、加藤甚左衛門は尾鷲でこれを迎え撃ったが内通者がいて敗れ、甚左衛門は自刃して果てました。
1575年(天正3年)織田信雄に仕えていた加藤甚五郎が城主となって長島城に戻りました。
翌1576年(天正4年)北紀伊に及んでいた新宮の堀内氏善の勢力を駆逐しようと、信雄は加藤甚五郎・奥村氏に命じ、一時は三木城を攻め落としたが奥村氏が堀内氏に寝返った為に敗れ甚五郎は長島城に戻りました。
奥村氏は長島城の風上より火を放ちそれが城に及んで甚五郎は城腰山麓で自刃し落城しました。

いくつかある登城口の内、自分は長楽寺から途上しました。凋落寺から主郭まで20分ちょっとかかりました。
主郭には説明板と城址碑があり、西側の一段高いところに携帯の通信施設などがあります。
主郭北から西へ連続する竪堀、西の尾根を断ち切る堀切などが確認できます。
攻城時間は45分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、紀伊田辺駅から電車で新宮駅に向かいました。
歩行歩数=35062歩、歩行距離=24.5Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:後山城 (2025/06/01 訪問)

相賀駅から徒歩25分くらいで、長泉寺と集会所の間の道(34.100455、136.225612)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、13〜14世紀頃に新宮荘園の荘司である木本盛房が居として築いたと云われています。
盛房が木元に移ったあとは廃城となり、その跡地に三浦の豊浦左衛門が屋敷を構えたと云われています。現在城址には石積や土塁のほか、石垣の水門が残っています。とのこと。

小山浦集会所の横から登城します。登城口の集会所側に案内板があるのでお見逃しなく(だいぶ傷んでます)
現在城址には石積や土塁のほか、石垣の水門が残っていますが、水門を見つけるのに苦労しました。

電車の時間があったので、長泉寺のナギ(34.100581、136.225366)を見学しました。
境内の説明板によれば、地上1. 2mでの幹周/3. 03m、樹高/15m。
本堂前の境内のど真ん中にナギの木があります。

ナギはイヌマキと同じマキ科の常緑針葉樹。日本一のナギは、同じ紀伊半島にある熊野速玉大社のナギの木で樹齢850年以上とか。
ナギは雌雄異株ですが、このナギは雌株です。ナギは「凪ぎ」(なぎ)に通じることから航海安全を祈願して植栽されました。
また葉は葉脈が平行に走っているために、横方向に引っ張っても切れにくく、このことから夫婦の縁が切れにくいように、昔の人は鏡の裏や裁縫箱に入れてお守りとしたそうです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=長島城へ向かう為、大泊駅から電車で紀伊長島駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:熊野古道松本峠 (2025/06/01 訪問)

鬼ヶ城から大泊駅に向かうのを、熊野古道松本峠経由で向かいました。

石畳の登城路下りは結構、腰にきました。
鬼ヶ城➡松本峠➡熊野古道登口(大泊側)まで、だいたい35分くらいかかりました。
次の攻城先=後山城へ向かう為、大泊駅から電車で相賀駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:鬼ヶ城 (2025/06/01 訪問)

世界遺産(鬼ヶ城)から徒歩5分くらいで、鬼の見晴らし台への登り口(33.893160、136.114986)に着きました。

鬼ヶ城は有馬和泉守忠親が隠居城として築いた城のようです。
1558年(永禄元年)に有馬氏が堀内氏に滅ぼされると、堀内氏は豊臣秀吉に仕え「関ケ原の戦い」までこの地を治めました。
熊野水軍を率いた堀内氏善は領地を没収されると、加藤清正に仕えて熊本に移りました。

駐車場脇に登城口があり、ハイキングコースが整備されています。頂上まで行くのに休みなしで20分くらい、かなりへこたれます。
鬼の見晴台といわれる展望台からは、熊野灘が一望できますが、思ったより木に邪魔されてる感じです。
遺構として、石垣と堀切を確認しました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=後山城へ目指す為、大泊駅➡相賀駅に向かうのですが、折角なので熊野古道の松本峠経由で大泊駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征18日目:世界遺産(鬼ヶ城) (2025/06/01 訪問)

木本要害山城(城びと未登録 三重県熊野市)から徒歩30分くらいで、世界遺産鬼ヶ城入口(33.890502、136.116464)に着きました。
当初の予定は先に鬼ヶ城を攻城し、その後に世界遺産(鬼ヶ城)を見学する予定でしたが、グーグルマップのナビは歩行者通行禁止のトンネル経由を示しました。
このトンネルとは別に歩行者専用の遊歩道トンネルが西側にあるようですが、時間もかかる為、先に世界遺産(鬼ヶ城)を見学することにしました。
ということで、世界遺産(鬼ヶ城)の西側出口から鬼ヶ城周回線歩道を鬼ヶ城センターに向けて歩くことにしました。
結果的にこれが大正解で、鬼ヶ城周回線歩道は片道40分もかかりました。往復80分かかることになるので大幅な時間ロスになるところでした。
時間的に余裕ができたので、鬼ヶ城から熊野古道の松本峠に行くことができました。

とにかく景色が良いです。侵食された岩が素敵でした。
写真をたくさん撮りましたが、限定10枚で投稿します。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=鬼ヶ城に徒歩で向かいました。

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しんちゃん

石垣が残っている (2025/06/28 訪問)

八橋城はJR山陰線によって南北に分断された丘陵上に築かれています。行松氏によって築かれ、大永4年(1524)尼子経久によって攻略され、城番として吉田左京亮が置かれました。その尼子氏も毛利氏によって滅ぼされ、毛利氏は杉原盛重を置き守らせました。
元和3年(1617)池田光政が鳥取藩主になった後、一国一城令で廃城になりました。寛永9年(1632)池田光仲が伯耆に入ると、津田氏が八橋を領し、陣屋を置いて明治まで治めました。
大手は東に付いていたとされ、東の郭が二の丸、西の郭が本丸の跡とされ、周囲を堀が囲んでいたようです。二の丸の西側と、本丸の北側一帯の随所に石垣を確認しました。二の丸には土塁も残っていました。本丸北側斜面に張られたロープを伝って下に降りると、北側の石垣を良く確認できますが、北側の工場の敷地に出てきてしまいました。

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しんちゃん

特別版 お城EXPO in 松江 (2025/06/28 訪問)

お城EXPO in 松江に行ってきました。オカンの体調もだいぶ良くなってきていたので、行けるんじゃないかと・・出がけに恨み言を言われたが、来てしまった。許せ・・俺にはやらねばならぬことがある(姫ガチャ)。うん、解ってる、サイテーだわ。
でも合戦に二連敗しているので、来ないという選択肢は無かったのだ(本当に?)。
夜通し走って来たので、ちょっとしんどい。久しぶりのEXPOを楽しもうと思うが、少しマンネリ感がある。限定武将ガチャの初日は予想通り「淀殿」でした。ちょっとケバくないか? この淀殿は。
会場をうろついていると「今度赤色立体地図かるたを作ることになりました~」と言っている人がいる。「かるた」ってどこかで聞いた話だな、と思って話を聞いてみるのだが、正直痛い人達だと思ってしまった。やはり、城に関わる人間はどこか「壊れて」いるのだろうか?
えもいわれぬ思いを抱きながらも忍者コーナーで遊んでいたりした。「忍び足体験」の余興は見事クリア! 「天下不審」の城びとをなめちゃいけないぜ。最近アプリの中で「某所」に良く忍び込んでいるので、こういうのはお手の物だ(ニンニン)。
さっきのコーナーに戻ってくると「城びと」と書いてある。「城びと」ブースだったのか、ここは・・。
改めて、赤色立体かるたも悪くないんじゃないかと思うことにした。泥船もバーナーで炙ればレンガの舟になるじゃないか! とりあえず二つ以上買うことにしますか。加藤先生にそっくりな人がいるな~と思っていたら本人だった。この企画に協力いただいているとのことだ。ありがた山
個人的には赤色立体地図もいいけど、城好きや関係者はどんどん山城に行くべきだと思っている。テクノロジーはあくまで、業者の功績だと思うので。微細な遺構は実際に見てみないと解らないし、研究者が山城に撃退されているという話を現地で良く聞く。

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しんちゃん

白鹿城の戦い (2025/06/28 訪問)

荒隈城は宍道湖の北東の丘陵に築かれていました。尼子十旗の一つ白鹿城を攻略するために毛利元就によって築城され、白鹿城の落城後も重要な拠点として機能しています。
現在、主郭は太陽光発電所となっていて、立ち入ることは出来ません。天倫寺の周辺に城址の雰囲気が残り、墓所からは宍道湖を良く見ることができます。裏山を少し覗いてみると、大きな堀切の様な物がありますが、遺構かどうかは不明。グーグルマップで改めてみると、墓所がソーラーの近くまで寄っているようです。そこまではいけたのだろうか?

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