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天守無しがアツい

御三層櫓 (2025/07/01 訪問)

忍城のシンボル的存在…御三層櫓は行田市郷土博物館と隣同士(というか本丸のあった位置に博物館が建っている)

それぞれの一階が渡り廊下で繋がってるのでダイレクトに移動ができる

櫓…と言っても江戸時代のものそのままではなく…昭和63年に再建されたもの…だから中はコンクリ製…中央に段差の低い階段があり、それを上がっていく造りが…小田原城などに似てる

あくまで博物館用に造られた…再建された城機能🏯

展示は2階と3階でおこなわれており…2階は江戸時代の忍城…3階は明治以降の忍城ならびに行田市…明治初期におこなわれた城の取り壊しにより、忍城の建物もほとんどが無くなってしまった

最上階からは行田市の街並みを一望できる…近所に学校があるようでそこからの掛け声が聞こえた…「虫が入るので網戸を開けないでください」という窓もあった

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朝田 辰兵衛

丸根砦からの転戦です。 (2025/03/22 訪問)

丸根砦からの転戦です。クマのモニュメントがある公園側から入り,長寿寺側に抜けました。簡単には落ちそうもないな…と思いましたが,緒戦で全滅とのことです。

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しんちゃん

留守ですよ。 (2025/01/02 訪問)

岩切城は高森山の山頂から伸びる尾根上に自然地形を利用して築かれています。
平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝は重臣・伊沢将監家景を陸奥国留守職に任命し、伊沢氏は留守姓を名乗りました・・ってそのまんまやん。
留守氏は岩切城を居城とし、後に室町幕府内部でで足利尊氏と弟・直義の対立が激化すると、留守氏は尊氏の勢力に加担しますが正平6年(1351)の「観応の擾乱」にて、岩切城での合戦に敗れ岩切城は落城し、留守氏は衰退しました。後に留守氏は伊達氏の一門に加わり勢力を回復し、留守氏が居城を利府城に移すと、岩切城は廃城になりました。

西尾根上に連なる郭群の脇から登城道が伸びています。主郭には東屋があり、南側に土塁を備えた郭が有りました。主郭の脇から東尾根に向かって道が続いていて、堀切が間にありました。虎口らしき箇所を抜けると所々に土塁を備えた東の郭群があり、南の方にも道が伸びています。余湖さんの縄張り図を見ると東の尾根を進んだ先に堀を備えた枡形の様な虎口があるようです。

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しんちゃん

郷六氏 (2025/01/02 訪問)

郷六城は仙台宮城ICの出口周辺、国道48号線や県道31号線が複雑に絡み合う部分のやや北側の丘陵上に築かれていました。北側の道路沿いに空堀が良く残っており、主郭への入り口があり、標柱が立てられています。
主郭はやや広めの単郭のようですが、道路の向こう側に位置する宇那禰神社も城址の一部だったのかもしれません。

郷六氏は国分盛氏の庶子・盛政を祖とし、宮城郡国分荘のうち愛子・郷六の二郡を有し郷六城を居城にしていたようです。天正年間に国分氏が伊達家家臣に組み込まれてからは、郷六村を没収され愛子村に移り住みました。郷六氏は慶長3年(1598)森田と姓を変え屋敷と家中屋敷23軒を持っていたようです。

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しんちゃん

主郭には訪問。雪のない時期にリトライしたい。 (2025/01/02 訪問)

季節感が無い写真ですが、訪問したのは正月なのでカンベンしてください。リア攻めならずというのは、某アプリの位置情報が衛星とリンクしなかっただけで、主郭と思しき場所には一応、訪問しています。遺構も草木もすべて雪の下に埋まっているので判別の使用が無い。
土塁と堀らしきものが残っていますが、後世に造られた部分もあるようなので、一概には言えません。

鎌倉時代から平賀氏の館とされ、伊達氏の家臣である馬場氏(平賀氏)の屋敷もあったようです。

※城郭放浪記さん&ニッポン城めぐりから位置情報を得て訪問していますが「城びと」の位置情報はこれらとは異なっているようです。
念のため積雪の無い時期に標高405m地点も訪問したいとは思っていますが、正直遺構などが有るとは思っていません。
なので土塁等が見つかったらめっけもんだと思っています。

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イオ

西の城(藤白城) (2025/04/20 訪問)

(続き)

東の城から西の城へは尾根伝いに徒歩10分の距離で、堀切っぽい地形はあるものの、明瞭な城郭遺構は見られません。

西の城は大野城とは別個の城として藤白城とも呼ばれ、曲輪群の最高所が主郭にあたります。主郭の北裾には帯曲輪がめぐっていて、遊歩道を北に下って行くと北尾根を堀切で遮断していました。主郭から西に一段下の曲輪から南に下りた先には、何段かの腰曲輪の下に横堀がめぐらされています。横堀は西側上段から東側下段まで斜めに落ちながら続いていて、浅くなってはいるものの見応えがありました。横堀を越えた先は南尾根を堀切で断ち、堀切の両端は竪堀となって続いています。

西の城をひとめぐりすると、東の城を通り抜け、来た道を戻って雨の森へ。雨の森展望台から眼下の大野守護所跡を見下ろして、大野城を後にしました…って、東の城の東尾根の曲輪に行くのを忘れてたーっ! いつの日かリベンジします…。
 

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赤い城

海陸の交通の要衝を押さえる古代山城 (2025/06/22 訪問)

世田薬師から道路を挟んだところに登城口があります。
こちらも良く整備されたハイキングコースで夏でも歩きやすいです。
ただしこの日は暑かった💦

登り始めてすぐに南西部城壁があります。
ここも整備されています。
さらに南部頂上から永納山山頂を望みます。
ここから見るとまだ遠い・・・
が、そこを目指して進みます。

南東部頂上を経て復元された城壁に。
城の外側から復元土塁と列石を見学することができます。
同行した城友さんは幼いころここで遊んでいたとのこと。
当時は手つかずの山肌だったと思いますがなんとも羨ましい。
近くには鍛冶遺構もあります。
現状は広場ですが今後発掘調査も進むのだとか。
新たな遺構が出てくるのかな?

ようやく山頂に到着、見晴らしは良く達成感がありました!
しばらく眺望を楽しみながら休憩し、北東側に向けて下山しました。
北東側の登城口には列石が残る城壁を見ることができます。
遊歩道整備で見上げるようになっているのが残念ですが登城口からの遠望はなかなかのものでした。

【見どころ】
 ・山頂からの眺望
 ・復元城壁
 ・北東登城口から見る城壁


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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:八田城 (2025/06/05 訪問)

須賀城(城びと未登録 三重県松阪市)から自転車で20分くらいで、登城口(34.615541、136.449563)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉期に相模国から移住した三浦五郎左衛門尉盛時が築城したと伝えられます。
その後、子孫は大多和氏を名乗り北畠氏の家臣となっています。
1569年(永禄12年)には織田信長の伊勢侵攻に対して大和多監物が籠城しました。しかし、北畠具教は織田信長と和睦したため、城を開城しました。
1576年(天正4年)国司滅亡後、大和多氏は城を出て下之庄に住み土着し、再び三浦と改めた。

登城口には模擬櫓や木橋が築造されています。
主郭南側に堀切があり、その上を丸太橋が架かっています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=高城に自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:須賀城(城びと未登録 三重県松阪市) (2025/06/05 訪問)

舟木家の長屋門(城びと未登録 三重県松阪市)から自転車で20分ちょっとで、土塁前(34.626427、136.492032)に着きました。

築城者、築城時期は定かではないようですが、この地は古くから流通の重要地だったようで、須可庄の名が平安末期の史料にあるようです。
1468年(応仁2年)政権争いで足利義視が伊勢に逃れた際、北畠氏に庇護され、積善寺で接待を受けたという記録があるようです。この時の佐波近江守とされます。
1584年(天正12年)以降、蒲生氏郷が松阪を領した時期は坂源左衛門尉が居城したとされます。

積善寺山門前に大土塁が残ってます。
主郭の範囲は積善寺周囲のようですが、その外側の遺構として、土塁と用水路になっている堀跡があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=八田城へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:舟木家の長屋門(城びと未登録 三重県松阪市) (2025/06/05 訪問)

松阪駅の松阪市観光情報センターで電動自転車を借りました。(電動自転車が有ってほっとしました)
松阪市観光情報センターから自転車で10分ちょっとで、入口付近(34.597276、136.516047)に着きました。

舟木家は、南北朝時代から続く名家で、江戸時代には久米村惣庄屋、津藩無足人となり、その後紀州藩主より「津領地士」としてお目見を許されるまでになりました。
舟木家の格式を示す長屋門は1794年(寛政6年)に建設され、1834年(天保5年)に改修されたようです。

門の正中央より下の部分に施された海鼠壁(なまこかべ)が特徴です。
舟木家にある海鼠壁(なまこかべ)は、文政年間(1818年~1829年)に造られたものだそうです。
今も舟木家の子孫が住んでいらっしゃるようです。
観光時間は5分くらいでした。次の攻城先=須賀城(城びと未登録 三重県松阪市)へ自転車で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:木造城 (2025/06/05 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、八太城(城びと未登録 三重県津市)と木造城を攻城しました。
桃園駅から徒歩30分弱で、城址跡(34.658824、136.497666)に着きました。

木造城は2024年9月25日に攻城する予定でしたが、バス遅延により乗り継ぎがかなわず断念しました。今回はリベンジです。
1366年(貞治5年・正平21年)木造顕俊によって築かれました。 顕俊は北畠顕能の次男で木造城を築き木造氏を名乗ったそうです。
二代目の俊康は京都に住み足利将軍と親しかった為、本家北畠氏の南朝と対立しました。
1569年(永禄12年)織田信長の南伊勢侵攻時は、それに従い信長の次男信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣ぐことで和解した後は、それに従いました。

田園の中の土盛りの上に石碑と説明板が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=舟木家の長屋門(城びと未登録 三重県松阪市)を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征22日目:八太城(城びと未登録 三重県津市) (2025/06/05 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、八太城(城びと未登録 三重県津市)と木造城を攻城しました。
ホテル最寄りの松阪駅から電車で川合高岡駅に向かい、そこから徒歩10分くらいで、川沿近道(34.653151、136.440816)経由で水道施設入口(34.652522、136.440899)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に田上玄蕃頭によって築かれたとも云われています。
田上氏は北畠氏に属していましたが、1576年(天正4年)北畠氏が滅亡すると羽柴秀吉に仕えた。北畠氏が滅亡した後は、織田信雄の家臣日置大膳亮が入っていたといいます。

主郭は広く楕円形で西側に幅広の土塁があり行者様が祀られています。
主郭背後の尾根に小さな二条の堀切がありました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=木造城を目指す為、川合高岡駅から電車で桃園駅に向かいました。

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しんちゃん

伊達政宗の晩年の居城。 (2025/01/02 訪問)

若林城は仙台藩主伊達政宗の晩年の居城であるのですが、現在は宮城刑務所の敷地になっています。Oh~~!なんてこったい。しかも刑務所北側の水路はかつての水堀と同じ形をしています。
内部には政宗の居所の他、櫓も建てられ、庭園も造られていました、政宗が朝鮮出兵の際に持ち帰ったとされる「朝鮮ウメ」は今でも刑務所の中にあるそうです。現在の宮城刑務所の前身である宮城集治監は明治12年に当地に建てられたのですが、これは明治政府の指示によるものでしょうか?

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しんちゃん

開発で遺構は消滅 (2025/01/02 訪問)

小鶴城は舌状台地の上に築かれていました。かつては周囲を水田で囲われ、遺構も残っていたようですが仙台市の中心部に近いため開発が進み、今では公園の一角に土塁が残っているだけのようです。
本丸の西に二の丸、東側にも曲輪があったようです。北西隅に空堀や土塁が残っていたと見られ、かつては城の周囲を囲っていたものと考えられています。城主は伊達氏の家臣・留守氏の重臣である逸見丹波とされています。

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朝田 辰兵衛

大高城から見通せたので…👀 (2025/03/22 訪問)

大高城から見通せたので,今度は丸根砦から大高城を見通したくなりました。この距離感は一触即発。「油断したほうが討ち取られるだろう…」と,想像を巡らせました。
歴史の結果は大高城の勝ちでしたが…。

にのまるさんへ…
私と入れ替わりで新潟入りされたんですね。残るは羽越本線のみで,新潟県内を完乗するのではないでしょうか…?
さて,「潤」はここ数年で燕の地位を確立させました。それまで燕といえば「抗州飯店」。個人的にはここのギョーザがスキでした。抗州飯店は店舗が火災に遭ったことで衰退しております。
新潟県のラーメンは地域によって多種多様です。個人的には上越「松茶屋」の豚汁ラーメンがスキです。上越ではラーメンのあとにソフトクリームを食べる文化があり,ほとんどのラーメン屋さん店内で注文できます。健康診断前は控えなければいけませんが…<笑>。
画像がなくてスミマセン。

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ぴーかる

天方城 (2025/05/04 訪問)

【天方城】
<駐車場他>駐車場あり<34.848165,137.949001>十数台分。
<交通手段>車

<見所>堀・土塁
<感想>日帰り今シーズン山城ラスト旅のラスト4城目。現地説明板を要約すると天方城は、いつ築城されたかはっきりした資料はないが、応永年間(1394~1427年)には山内対馬守の居城であった。天方通興の代になり世は戦国乱世を迎えた。1569年に徳川家康は遠州に居ながら帰伏せざればと、榊原康政・天野康景・大久保忠隣で城を攻め落城降伏します。翌年にまた下知に従わず籠城したため、再び榊原康政に攻められ降伏します。1572年武田信玄が進軍してくると武田方に降伏してしまい武田方の久野忠宗を入城させてしまいます。1574年に徳川家康が再び攻略して徳川の城となります。天方通興の子の通綱は家康の嫡男信康自刃の際の検使役となりますが、信康の守役で介錯の服部正成が介錯できず、代わりに通綱が行うこととなります。
 先に、蔵雲院にある天方氏三代の墓碑と御城城印購入のために立ち寄りました。城跡に駐車場があり、車で上がれますが、退避所が少なく対向車が来ると苦労(下山時に対向車が来て、私の下り優先なのにバックしてくれなくて面倒だった)します。現地は公園化されて北側の駐車場とそばにある曲輪跡が二郭のようですが、スロープ状の傾斜地になっていてよく分かりません。二郭の北隅に薄い空堀が残されています。二郭と主郭の間に深い空堀と土塁が残されています。空堀は北側から西側にかけて残されていますが、東側は改変されているかもしれません。主郭内部は広く展望台が設けられています。
 これにてこの旅終了。天候も良く、今シーズン山城ラスト楽しく散策できました。走行距離574㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

白河小峰城。本丸北面の修復跡・竹之丸の石垣 (2024/09/15 訪問)

本丸石垣を眺めながら北面に廻ります。ここも、南面・西面同様に大きな被害を受けましたが、見事に修復が成されています。小峰城の修復の速さと熱意には驚かされます。雪見櫓台は直接の崩壊を免れましたが、変形などの影響を受けていたとされ、一時的に解体され修復されました。修復前は石垣の間に隙間が有りましたが、修復後は驚くほど隙間が無くなっています。
豊橋の吉田城の石垣の修復が終わった後も、まるで別の石垣のようになっていて驚きました。一割は再利用に絶えないとして交換石で代用されてはいますが、本来の打込接ぎはこんなに隙間が目立たないモノなのですね。
三重櫓台の隅部は城内で、もっとも古い石垣として案内板に説明がされています。そのまま矢之門を抜けて竹之丸の石垣を見て、戻って来ました。
この後は、二之丸茶屋でお土産のだるまを買って、だるまバーガーを食べて次の訪城への体力をつけました。

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駿府城

7月30日(水)鬼瓦を作ってみよう!―つくって・飾って・学べる夏のものづくり体験―

日本の伝統的な工法によって復元された坤櫓。その坤櫓の鬼瓦など、自分だけのオリジナルミニ鬼瓦を一緒に作ってみませんか?作品製作後、一旦お預かりし、後日瓦職人で焼き上がり完成となります。完成した作品は坤櫓内で展示させていただきます。

鬼瓦を作ってみよう!
◆開催日:令和7年7月30日(水)
◆開催時間:①10:00~10:50 ②11:00~11:50
※希望時間帯についてはご希望に添えない可能性がございます。
◆会場:コミュニティホール七間町1階ホール(静岡市葵区七間町12-4)
◆参加対象:どなたでもご参加OK ※小学4年生以下の方は保護者同伴でお申し込みください。
◆募集人数:40名(応募者多数の場合は抽選)各回20名程度
◆参加料:2,000円(材料・焼成費込み)※完成作品の配送をご希望の場合は、着払いでの発送となります。
◆申込方法:往復はがき、ホームページよりお申し込みください。 ※詳細は添付画像をご覧ください。
◆申込期限:令和7年7月21日(月・祝)必着
※詳細は駿府城公園公式ホームページをご覧ください。(https://sumpu-castlepark.com/info/archives/3067)
世界に一つだけの「思い出」と「作品」を、夏の坤櫓で作ってみませんか?ぜひご参加ください♪

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トク

【筑紫広門】(3)猫尾城(黒木城) (2025/05/17 訪問)

筑紫広門の続き(3/6)です。八女市黒木町にある猫尾城(黒木城)を訪れてきました。勝尾城の戦いの前に、広門の不可解な行動ついてお話します。

猫尾城は、矢部川と笠原川に囲まれた標高240mの山城です(写真①)。JR羽犬塚駅から黒木行の堀川バスに乗り50分、終点黒木で下車します。そこから山頂の本丸まではさらに徒歩で50分です。途中には有名な「黒木の大藤」がありましたが(写真②)、藤の花はすでに散っていたのが残念でした。大藤の横の水路には鯉が泳いでいました(写真③)。酒蔵や白壁もあり、黒木町は城下町の雰囲気がよく残っています。

この大藤を過ぎてすぐにある、黒木中学校の横から登城します(写真①)。車の方はもう1km先を左折すると頂上近くまで行ける道路があるようです(地図⑧)。徒歩での登城路は枯れ葉が多いも舗装されていたので歩きやすかったです(写真④)。山頂に着くと神社がありました。ここが猫尾城本丸です(写真⑤)。大友との戦いで討死した黒木氏家臣を弔う慰霊碑がありました(写真⑥)。神社とその向側には算木積みの石垣がありました。江戸時代にはここに街道の番所があったので、この石垣はその時のものかもしれません(写真⑦)。この石垣で本丸は囲まれていたようです。本丸以外は野面積でした。山頂本丸からは眼下には黒木町の町並みが、遠くには筑後平野や有明海までもかすかに見えました(写真⑨)。

広門はここを訪れてはいませんが、間接的にここであったある戦いが、実は広門の人生のターニングポイントにつながったと言っても過言ではないと思ったので、今回私は訪れました。

1584年に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津家久に討ち取られると、同年すぐに大友義統(宗麟の嫡子)は、龍造寺に奪われた大友の領地を奪還するため、まず龍造寺配下の黒木氏の猫尾城を攻めます。しかしなかなか落ちません。そこで、立花道雪と高橋紹運が北から援軍として駆け付け、猫尾城はついに落城します。そして次に、道雪と紹運は同じく龍造寺配下であった蒲池氏の柳川城攻めにとりかかります。しかし何とここで道雪が病死してしまうのです。

この隙に広門は、島津の命で手薄になっている紹運の宝満山城と岩屋城を背後から襲い、難無くこれらを攻め落とします。しかし私がわからないのはここからです(🤔?)。広門はこのままこの二城を支配し島津軍の到着を待つのかと思えば、何と・・・道雪の跡を継いだ道雪の娘婿で紹運の実子(長男)で立花山城の城主となった「立花宗茂」と和睦の交渉をします。そして、宝満山城主で宗茂の弟である「立花直次」に自分の娘(加祢姫)を嫁つがせる事で紹運も同意したため、和睦は成立しました。なぜ広門は耳川の戦い(1578年)に負け、没落中であった大友氏に近づこうとしたのでしょうか? ここが未だによくわかりません。なぜ島津氏を裏切って大友氏と手を組み、北上してくる島津氏に対抗しようとしたのでしょうか? しかしこの判断は、結果的には裏目に出てしまいます。

そしてその2年後1586年、島津は九州制覇を目指して北上を開始します。当主の島津義久は裏切った広門を絶対に許す気はありません。義久の命を受け九州を西上する島津忠長(島津四兄弟の叔父)は、2万の大軍をもって真っ先に広門が籠る勝尾城を包囲します。対する筑紫軍はわずか3千! もはや絶体絶命です。さあどうする広門! 次は勝尾城の決戦に続きます。

位置関係が分かりにくいと思いましたので地図を作ってみました。よければ参考として下さい(写真⑩)。

【余談】この黒木町は女優「黒木瞳」さんの出身地で、猫尾城の登城口にある黒木中学校の卒業生だそうです🤔(写真①)。
 

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イオ

東の城 (2025/04/20 訪問)

詳細は不明ながら、南北朝期に南朝方の浅間氏や保田氏が藤白山系に築いたとされ、山名義理により北麓に大野守護所が置かれると、守護所の背後を守る山城として機能したと考えられます。その後、紀伊国守護は山名氏から大内氏、畠山氏へと代わり、畠山基国が守護所を広に移した後も戦国末期まで活用されましたが、畠山氏の没落とともに廃城となったようです。

森林公園 雨の森駐車場から登城開始。大野城は「東の城」と「西の城」と呼ばれる二つの曲輪群からなり、東の城の登城口まで林道が通じているようですが、雨の森からの高低差はほとんどない上に、途中から未舗装になるらしいので無難に徒歩を選択。駐車場から約20分で登城口に着きました。

案内表示に従って登城口から階段を上って行くと送電鉄塔があり、振り返ると市街から和歌浦方面の眺望が開けています。さらに上って道をそれると主郭北裾に浅い堀切がありました。堀切から直登した主郭は三段の曲輪からなり、頂部に大野城趾の石碑と文字が消えてしまった説明板が立てられています。主郭から西尾根へと下りたところには藪化した堀切があり、南側に竪堀となって落ちていました。

西尾根には尾根に沿っていくつかの曲輪群が展開し、北辺には尾根を削り残した土塁が設けられています。曲輪群は堀切により東西に区画され、堀切の南側は竪堀となってずっと下まで続いています。竪堀に下ろされたトラロープを頼りに下りて行くと、西尾根曲輪群の南面には竪堀群と腰曲輪が縦横に設けられ、南側への警戒感が窺えます。

さて、竪堀群から尾根まで戻って、尾根伝いに西の城を目指します(続く)。
 

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