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赤い城

パノラマビュー (2025/06/28 訪問)

松江EXPOの前に登城しました。
7時頃着いたので三の丸番所が開いてなくスタンプは後回しにしました。
三の丸は発掘調査中で今後も整備が続きそうです。
二の丸の枡形から登って行きます。
二の丸のテニスコートでは暑い朝にも関わらず多くの方が汗を流していらっしゃいました。

こちらも汗だくで登ります。
まずは内膳丸、本丸の北峰にある丸山に所在します。
細長い曲輪でここから本丸を見上げることもできます。
また、内膳丸から遠見櫓にかけて登り石垣が築かれていて海側からの防御を強固にしています。

さらに登ってお馴染みの天守台石垣を見上げました。
やはり圧巻の迫力、朝から興奮状態です✨
四重櫓台、鉄門跡を経て本丸に着きました!
米子市街や大山も望めます。
中海や日本海も見渡せる素晴らしい景色でした。
しばらく景色を楽しんで本丸先の水手御門まで行き引き返し遠見櫓を経て下山しました。

元は山名氏の砦として築かれた米子城、戦国時代には吉川広家が入り築城しました。
関ヶ原の戦い後は中村一忠が入城し大天守などを造営しました。
現在は建物は残りませんが無くても十分楽しめる城でした。

下山したのがちょうど8時半、三の丸番所が開いたので46個目の続100スタンプを押印、尾高城に向かいました。

末筆になりましたがぴーかるさん、1000城到達おめでとうございます✨
レポート参考にしています!
私も追いつきたいですがまだまだですね〜。

【見どころ】
 ・二の丸枡形の石垣
 ・登り石垣
 ・内膳丸から見上げる本丸石垣
 ・天守台からのパノラマビュー

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しんちゃん

黒岩月斉 (2025/01/05 訪問)

黒岩城は北上川の東岸の南北に伸びる丘陵上に築かれていました。館神の祀られている社一帯が「千曳城」跡とされ周囲より高地にあります。南に向かって、「館」跡の正洞寺、上岩崎の黒岩公民館の東側が「館屋敷」跡、下岩崎周辺が「元(本)館」跡、「片月館」跡とされています。
中世和賀氏の時代の複数の城館の総称とされ、北側の上岩崎と南側の下岩崎を合わせて、南北約1km、東西約150mの城域を持っているようです。主要部は北側の上岩崎とされ、下岩崎の元館は和賀氏が最初に和賀郡に移ってきたときの岩崎塞ではないかと考えられています。最後の城主は二子城主の和賀義忠の兄・義宣(黒岩月斉)とされ、盲目であったため黒岩城に分封(分家化)され、新たに千曳城を築いて居住しました。元々当地に居を構えていた小田嶋氏は領地を召し上げられ、2000石の換地を与えられたようですが、後見という名目で「片月館」に据え置かれたようです。

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天守無しがアツい

要害山 本丸 (2025/07/06 訪問)

本丸に到着。その標高は780m
登山して30分で…0mからその高さまで行けるとは考えづらいので…登山口の時点で500mくらいはあるのではないか?⛰️

武田信玄生誕地の石碑…かつて…戦国時代にはこの辺りに武田家の屋敷ならびに庭園があったらしい🏠⛲️庭園の名残り的な大きな石が残っていた🪨麓からあの山道を経て…ここまで運んだと思われる…

昔の人間って…かなりの力持ち🫢

当時は山城が主流…平地に城を設けるようになったのは…江戸時代に近づいた頃…つまり大名同士の戦が無くなり世が平和になってから🏯

信玄はこの辺りで産声をあげ…出陣などで城を出る時は片道30分の山道を下りて…そして戻る時はこの山道を毎回登ってたのか…

往復のしんどい自宅…やれやれだぜ😅

ちなみにここ本丸には(頭の中で当時の様子を思い浮かべながら)20分ほど滞在…ここも日陰にさえ居れば…草木のおかげでそこまで暑くありませんでした🌱🌳

麓の景色も撮ろうかと思ったのですが…木の枝が邪魔してよく見えなかったので止めました

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しんちゃん

高水寺斯波氏 (2025/01/04 訪問)

高水寺城は北上川の西に位置する独立丘陵の上に築かれていました。建武2年(1335)足利尊氏が斯波高経の長子・家長を奥州管領として下向させ、北朝方の勢力の拡大を狙いました。元々、斯波氏は足利泰氏の長男。家氏が斯波郡へ下向し、斯波氏を称したことに始まるとされています。家長以降に本格的な城郭化が進んだと見られ、最頂部が本丸とされています。
本丸には土塁が残り、南部の運動公園周辺が二の丸(若殿屋敷)とされ、本丸の北東が天王平(駐車場)とされ、さらにその先に姫御殿があります。本丸には御殿跡の標識があり、愛宕神社が祀られ、かなりの広さが有りました。
家長以降の斯波氏は7代~10代続いたとされ、足利氏の支流として斯波66郷を支配し「斯波御所」と呼ばれますが、室町時代後期には三戸南部氏との対立が激しくなり、九戸政実の弟弥五郎を入婿に入れるなどして、平静を保ちましたが、やがて家臣の離反が相次ぎ天正16年の石清水右京の訪叛を機に南部信直の攻撃を受け、斯波詮直は大崎氏の下へ逃亡し、戦国大名高水寺斯波氏は消滅しました。

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しんちゃん

土沢城 伊達氏に備えた藩境の城 (2025/01/04 訪問)

土沢城は岩手県花巻市東和町土沢にあります。土沢駅の北東、土沢の街を見下ろす高台に築かれていました。慶長5年(1600)南部氏と伊達氏が境界で対立していた時に伊達領の浮牛城に対抗して築かれたと城郭大系には記載があります。
また現地の案内板には慶長17年(1612)に伊達氏との藩境警備のために盛岡藩の野田内匠頭直盛が縄張りを行い、江刺隆直が入ったと記載されています。
現在は城址公園として整備されていて、訪問しやすい城址です。主な郭として、主郭である御本館、中館、西館、東館があります。
大手橋跡から登って行くと、大手道の脇に桜丸があり、大手門跡を経て主郭である御本館に到着します。南に下がった所に東館跡があり、御本館から北上して行くと、段差を越えたところに中館、西館があります。御本館から西館までの主要部の東側から北側を経て西側まで堀が巡らされているようです。

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にのまる

信越本線乗り通し旅の途中で。 (2025/06/07 訪問)

新宿→高崎→横川→軽井沢→長野→柏崎→長岡→新潟とほぼ乗っているだけの旅に出かけた際、唯一の観光として松代へ足を延ばしました。

長野から路線バスで松代へ。
旧松代駅舎を見学してから観光案内所2階の「花の丸」にて山菜天ぷらそばをいただきました。入口のサンプルよりもボリュームがあってびっくり!とってもおいしかったです。

真田宝物館、真田邸、文武学校を見学後、松代城へ。
昨年架け替えられた太鼓門前橋。まだまだ真っ白でこれから味わい深くなっていくのが楽しみです。
太鼓門、北不明門、天守台、石垣、土塁、埋門。何もかも素晴らしくて、眺めたり潜ったり、とても幸せな時間を過ごしました。

約7年ぶりの訪問はバスの時間もあり(=このあと長野に戻って長野電鉄往復完乗に出かけた)、松代滞在時間は約2時間半。
全然足りませんでした。
長野も新潟も庭みたいな感覚になってきたのでまた行きたいと思います。

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トク

【筑紫広門】(5)久留米大善寺(広門幽閉の地) (2025/05/16 訪問)

筑紫広門の続き(5/6)です。広門が幽閉された久留米の大善寺を訪れました。西鉄大善寺駅から徒歩5分の所です。

寺の入口に立つと(あれ?)、お寺なのに赤い欄干と鳥居がある(写真①)。門をくぐると(あれ?)社務所がある(写真②③)。さらに進むと(あれ?)賽銭箱がある(なぜ?🤔)。

寺と言っても、現在は神仏習合の場所のようです。そしてこの寺は島津氏によって焼き払われましたが、関ケ原後に筑後を治めた田中吉政とその子の忠政により、この地には玉垂宮という神社が再建されました。寺は山門のみ再建され残っています。毎年正月七日には「鬼夜」と呼ばれる伝統の火祭りがあるそうです(写真⑥)。

1586年、勝尾城にて島津氏に敗れた広門は捕らえられ、この大善寺に幽閉されます。その時ここでこんな和歌を詠んだそうです。

 忍ぶれば
 いつか世に出ん折やある
 奥まで照らせ
 山のはの月

その我慢の甲斐あってか、幽閉されてから1カ月後、豊臣秀吉が九州へ上陸すると島津氏は薩摩へ撤退。広門は大善寺を脱出し旧領奪還に動きます。そして勝尾城を守っていた秋月種実より居城を奪い返しました。これを大いに手助けしたのが立花宗茂です。広門と共に戦い旧領奪還に協力しました。

しかし秀吉は、広門には旧領の勝尾城ではなく筑後上妻郡(現在の八女市)に1万8千石を与えます。これにより、勝尾城は廃城となりました。また宗茂には、立花山城に代わり柳川8万石が与えられ、宗茂は大友家臣から豊臣の直臣となりました。

宗茂と広門、この二人は義兄弟としてまた盟友(親友)として、この頃から固い絆で結ばれていったようです。この後、筑前名島城に入った小早川隆景の傘下に入り、二人とも朝鮮(文禄・慶長の役)へ出兵します。そして広門は朝鮮でも宗茂を支え続けます。その広門の支えがあって、宗茂は蔚山でもはや絶体絶命の加藤清正を救出するなどの大活躍をします。隆景から「宗茂の3千は1万に匹敵する」と賞賛されたほどです。そして帰国後も、広門は関ケ原まで宗茂を支え続けて行きました。

最後に、広門が秀吉から与えられた地で、新たに居城とした八女市の福島城を訪れます。
 

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todo94

日帰り静岡ドライブ 駿府城本丸発掘現場・俯瞰編 (2025/07/12 訪問)

本丸堀の脇を通って、2023年に続き本丸の発掘現場を見学してきました。きゃっしるもちょこっと覘いていきます。駿府城の見どころである二ノ丸水路を確認してから、お目当ての静岡市歴史博物館の企画展「十返舎一九と蔦屋重三郎」へと向かいました。この企画展だけだったら150円の料金。国会図書館所蔵の吉原細見、朋誠堂喜三二作「見徳一炊夢」、恋川春町作「金々先生栄花夢」などが惜しげもなく並べられていてびっくりしました。トーハクの特別展のような混雑もなく非常に満足度の高い企画展でした。静岡市歴史博物館に寄託されている「東海道中膝栗毛」ももちろん拝見してまいりましたとも。その後は、県庁別館21階の展望フロアより、駿府城の俯瞰も楽しんできました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):泉頭城 (2025/06/08 訪問)

戸倉城から徒歩35分くらいで、柿田川公園石碑前(35.107782、138.901377)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、弘治年間(1555年〜1558年)頃に小田原北条氏によって築かれたと云われています。
泉頭城は、三枚橋城や戸倉城と連携して武田信玄の侵攻に備える国境の城としての役目を担っていました。
1580年(天正8年)頃には武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻め、1581年(天正9年)笠原政堯が武田氏に寝返り、戸倉城は武田氏の所領となりました。
武田氏が滅亡すると再び北条氏の所領となりましたが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、城は破棄され韮山城と山中城へ退いた。
その後、1615年(元和元年)に徳川家康は、美しい景観を備えたこの地に自らの隠居城を築こうとしましたが、築城計画の途中で家康が亡くなったため、再築は実現しませんでした。

現在城址は「日本名水百選」にも認定された「柿田川湧水群」で知られる「柿田川公園」として整備されており、城跡と言うより湧水の有名な公園といった感じです。
帰りのバスの時間が迫っていいるので、第一展望台のみを見学して撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。今回の(東海&関西)遠征は、ここがラストです。
千葉の自宅に帰る為、西玉川バス停からバスで沼津駅に向かい、沼津駅でコインロッカーより荷物を取り出して、帰宅しました。
ちなみに夕食は沼津駅で購入した「港あじ鮨」を新幹線で食しました。
歩行歩数=33177歩、歩行距離=23.2Kmです。
今回遠征での歩行歩数=790340歩、歩行距離=553.2Kmでした。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):戸倉城 (2025/06/08 訪問)

八幡神社前バス停から徒歩5分くらいで、矢崎遺跡案内板付近(35.095157、138.897301)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、北条氏綱によって築かれました。 戦国時代には伊豆国と駿河国の境目の城として重要視された。
三国同盟が破れた後、1568年(永禄11年)から1571年(元亀2年)にかけて武田氏と北条氏との戦いの舞台となりました。
駿河国に侵攻した武田氏と小田原北条氏は戸倉城で戦い、1580年(天正8年)頃には武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻め、1581年(天正9年)笠原政堯が武田氏に寝返り、戸倉城は武田氏の所領となりました。
武田氏が滅亡すると再び北条氏の所領となりましたが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で小田原城の落城ととも廃城となりました。

現在は本城山公園となり麓から遊歩道が整備され、山頂部に展望台が置かれています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=戸倉城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):蛭ヶ小島(城びと未登録 静岡県伊豆の国市) (2025/06/08 訪問)

韮山城から徒歩10分ちょっとで、石碑前(35.051921、138.951981)に着きました。

平治の乱で源頼朝の父・義朝が知多半島で暗殺され、頼朝本人の死罪も確実視されていました。
こうした世情の中、平清盛の継母・池禅尼の命乞いにより、頼朝は奇跡的に助命されたものの、伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されることなります。
1160年(永暦元年)2月に14歳で配流となり、34歳で旗揚げするまでの20年間をここで過ごしていました。
頼朝の配流された蛭ヶ小島とされる地は、現在、蛭ヶ島公園となっています。

攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=戸倉城へ行く為、韮山駅から電車➡バスの乗り継ぎ、八幡神社前バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):韮山城 (2025/06/08 訪問)

江川邸(城びと未登録 静岡県伊豆の国市)から徒歩5分ちょっとで、登城口付近(35.05484、138.95709)に着きました。

1491年(延徳3年)小田原北条氏の祖、伊勢宗瑞(北条早雲)によって築かれました。
駿河国興国寺城主伊勢宗瑞は、堀越御所の内乱に付け込み堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆の領主になると韮山城を築いて居城を移しました。
1495年(明応4年)宗瑞は相模国小田原城を奪い、北条氏の居城が小田原城に移ったのちも韮山城は伊豆支配の拠点として重要視されました。1519年(永正16年)北条早雲は韮山で没しました。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」では激しい攻防戦の舞台となりました。
山中城をはじめ、関東の諸城が攻略されるなか韮山城は落城せず、朝比奈泰勝を使者として開城を促し、氏規は開城し退去しました。 この氏規の家系が江戸時代に河内国狭山に大名として続きました。
その後は、関東に入った徳川家康の家臣、内藤信成の居城となりましたが、1601年(慶長6年)に駿府に転封となったため廃城となりました。

城址には現在も曲輪や土塁の跡などが残されており、散策路が整備されていますす。
南北に細長い丘陵は北から南に三の丸、権現曲輪、二の丸、本丸と続いています。
三の丸は、現在テニスコートになっています。
権現曲輪には神社が祀られ、南に土塁と堀切があります。そこからさらに高く成った所に二の丸があります。
二の丸は低い土塁が巡り、南の本丸との間に堀切があります。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=蛭ヶ小島(城びと未登録 静岡県伊豆の国市)へ徒歩で向かいました。

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しんちゃん

モーモーモー (2025/01/04 訪問)

案内板によりますと、この城は安倍貞任の築城で、牛三頭を生き埋めにして鎮護したと伝わります・・って本当か?
鎌倉時代には、この地方の国主葛西氏七党の一人・江刺氏の一族である口内氏が居住していたが、天正18年 葛西氏が滅亡したため当地を去って行きました。その後は伊達藩の要害の一つとなっています。
元禄8年(1695)伊達家一門格の中島利成が2,524石で入ってからは明治まで定着しています。口内川の左岸の丘陵の上に築かれており、頂部に本丸があり、腰曲輪も備わっています。東南側の二の丸外側には水堀がめぐらしてあったとされ、北東側の丘陵続きは空堀で区切ってあったようです。大橋跡にかかる橋を渡って城址に向かい、詰御門跡・曲輪・本丸門跡を通って本丸に至りました。

🐮🐮🐮

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しんちゃん

北側に二重の堀と土塁が残っている。 (2025/01/04 訪問)

寺林城は弘安2年(1279)河野道俊の次男・通重が城主であったとされています。天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により浅野六兵衛の陣屋となりました。
光林寺一帯が城址とされ、西側に二重の堀と土塁が残り形状を良く残しています。土塁は三重になっているのかな? 案内板がルンビニー学園側の道路沿いに設置してあるようですが確認はしていません。光林寺を駐車場から眺めると、確かに城郭の風格がありますわ。

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T-Shionoya

土塁の内側に堀を設置した谷戸城 (2025/04/19 訪問)

土塁の内側に堀を設置した珍しい城があると知り訪れた山梨県北杜市の谷戸城。

八ヶ岳南麓の茶臼山とも呼ばれる比高約30mの小山に築かれた城。
八ヶ岳の湧水が流れるエリアで、東衣川と西衣川が天然の堀となり、北は信濃の佐久、西は諏訪へと通じる地。

甲斐武田氏の祖である逸見清光が平安末期に築城したとも伝わり、その後の確かな記録はないようだが、武田滅亡後の天正壬午の乱では小田原北条氏が改修したとのこと。

現在は土塁と堀が整備され、考古資料館が隣接する、公園化された土の城跡。

訪問時は北側に堀が残る大手から入城し、四の郭に入ると緩やかな斜面を這うように伸びる低土塁が1つ目の特徴。
二の郭・三の郭へ折坂虎口を上がると、2つ目の特徴である土塁内側の堀が予想より大きくビックリ。
一の郭の土塁も東側は高く、土塁が低い西側は喰違虎口を採用。

滞在時間は2時間弱。
始めて目にする土塁と堀に不思議な感覚に陥った、私の城郭巡りの205城目でした。

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ぴーかる

江戸城番外「寄り道編」 (2025/05/17 訪問)

【寄り道編】
1日目の外濠見附跡巡りのついでに巡りました。

①東京駅:♪東京は~雨降り~
②増上寺:去年品川台場に行った時、時間が無くて行きそびれていたので今回は宝物展示室と徳川将軍家墓所も行けました。
③国会議事堂前:むか~し前通った。
④彦根藩井伊家上屋敷跡:北側半分が工事立入り禁止になっていました。ブラタモリで放送していた日本水準原点は見れました。
⑤東大赤門:加賀藩上屋敷の御住居表御門。閉まってる、くぐれない。
⑥黒門:鳥取藩池田屋敷表門。東京国立博物館にもいつか行きたい。夜7時着ライトアップされていてよかった。
⑦東京スカイツリー:ビューポイントを5ヶ所程調べていましたが、浅草エキミセ屋上テラスと浅草文化観光センター8Fにて撮影。
⑧浅草寺:三社祭りやってました。外国人すごい多い!上記浅草文化観光センター8Fは浅草寺の参道全体とスカイツリーの両方が無料で見れて良いスポット。

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ぴーかる

ありがとうございます🐤

にのまるさん、しんちゃんさん、祝辞ありがとうございます。
 江戸城攻略の初日は自宅出発、5時過ぎ頃は雨は全然降っていなくて(大概西日本から崩れていくものですが)これなら大丈夫かな?と思いきや、到着から大雨で、ちょっと雨男ぎみの私の影響で、にのまるさんの白河旅行にも影響を与えてしまったようです(ペコリ)。
 城びと未登録や百名城でスタンプ押印していない城を合わせると約1030城程ありました。自分の中ではプロ野球でいうところの1000本安打くらいかなあと感じております。にのまるさんのおっしゃる通り、まだまだ通過点、健康に留意して楽しみたいと思っております。昨年までは夏場はちょこ城巡りをしていましたが、近隣県の城びと登録のちょこ城もほぼ攻略して、最近は遠方に残った百・続百名城攻略に向けて旅行資金を貯めています。

 話は変わりますが、万博はまだ行っていないですが、イベントで昨日と本日ブルーインパルスが大阪上空を飛びました。自宅から見える位置を飛行するので待ち構えて撮りましたが、予想外に遠くで飛行して小さかった・・・。

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小城小次郎

この前衛芸術的な石垣を何と表現すればよいのか (2024/11/30 訪問)

江戸時代は亘理氏(涌谷伊達氏)の要害であり、太鼓堂を櫓と呼べれば宮城県内唯一の現存櫓。特記すべきはそこの石垣で、前衛芸術のような重力無視の意味不明な曲線を描くこの石垣をこれ以上どのように表現すればよいのだろうか。

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しんちゃん

ノブシコブシ (2025/01/02 訪問)

御殿館は諏訪神社の背後にある御殿山の山頂一帯に築かれていて、主郭と見られる西郭には水分神社が祀られています。国分氏の支配していた場所に築かれているため国分氏に関わる城と考えられていますが「安永風土記」には野武士の立籠った処と記されているようです。
山賊のアジトみたいなイメージなんだろうか? 
野武士と言っても実際には武装した農民も多くいたらしく落武者狩りなどもしていたらしい。ここで山賊焼きを食べたらおいしそうだ(熊が出ますぞ!)。そういえば入口に熊の被害が相次いでいるので注意されたしと注意書きがあった。
そのせいか、西の堀切まで行かずに主郭まで行って帰ってきている。我ながらけっこうヌルい城攻めをしている。今だったら、迷わず堀切まで行っていると思うが、この時は次の平賀館を優先していたようだ。ちょっと行きがけの駄賃みたいな感じになってしまった。

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しんちゃん

会津藩校 日新館・白虎隊の学び舎 🏫 (2024/09/17 訪問)

会津においては寛文4年(1664)に庶民のための学問所「稽古堂(けいこどう)」が創設され、初代藩主保科正之により奨励を受けています。5代藩主・松平容頌の時代に家老・ 田中玄宰の進言により「教育の振興」が進言され、長い歳月を経てから5年の歳月をかけて享和3年(1803)に「日新館」が完成しました。
全国でも有数の立派な藩校で、1000~1300人の生徒が学び会津藩を支えました。残念ながら戊辰戦争で焼失してしまいましたが、昭和50年に再建され公開がされています。
幼少の生徒が入学する前に「什の掟」を教わり、低学年のころには日新館の心得をしっかり学んでいたようです。読んでみたけど、道の端を歩けとか、親と同じ畳にあがるなとかけっこうしんどい・・自由にやらせて~な(ならぬ!)。
南門・戟門とくぐると正面に大成殿があり東西に東塾・西塾が控えています。内部では白虎隊の少年たちの学習風景が再現されています。立たされている子もいますね・・他にも掃除風景や腕相撲をしたりして、くつろいでいる姿も生き生きと再現されています。
井深茂太郎少年(16歳)は文武に優れており一族にSONYの井深大氏や明治学院の井深梶之助氏がいるそうです。
それぞれの隊士の人形に解りやすく解説が付いています。これは白虎隊ファンならずともマストで訪問すべしですな。

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