細川氏が関ヶ原の合戦の功関で豊前国中津へ転封となったのち、京極氏が最初に田辺城に入り、宮津城を修復して居城としました。宮津港に面した海城で本丸は市街地に埋もれ、周囲に二の丸・三の丸を配していました。藩校・礼譲舘は城の外堀の南にありました。
大手川沿いにある宮津小学校は礼譲舘の跡地とされ城の南側に有った太鼓門が移築されています。川沿いに白壁が続くエリアは「しらかべの道」と呼ばれているようです。
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2025/07/18 23:17
太鼓門 (2025/07/01 訪問)
細川氏が関ヶ原の合戦の功関で豊前国中津へ転封となったのち、京極氏が最初に田辺城に入り、宮津城を修復して居城としました。宮津港に面した海城で本丸は市街地に埋もれ、周囲に二の丸・三の丸を配していました。藩校・礼譲舘は城の外堀の南にありました。
大手川沿いにある宮津小学校は礼譲舘の跡地とされ城の南側に有った太鼓門が移築されています。川沿いに白壁が続くエリアは「しらかべの道」と呼ばれているようです。
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2025/07/18 22:49
一色氏最後の城 (2025/07/01 訪問)
弓木城は東に阿蘇海を臨み、南に野田川が流れる丘陵上に築かれており、現在は城山公園として整備され駐車場も用意されています。北の小学校もかつての城址・北曲輪郡とされ遺構は消滅していますが、南曲輪群は遺構を残しています。
古い書物には「いみの木」の城主が「稲富どの」と記されていて、この「いみの木」が「弓木」になったのではないかと思います。稲富氏は最初は山田氏を名乗っていたようです。
最後の城主は一色氏とされ、天正10年(1582)9月に一色義有は細川氏に殺され、弓木城も落城したようです。最高所が本丸とされ「水無水神社神輿庫」が置かれ北西には「城山稲荷」のある曲輪があります。南東に細長い曲輪があり大手が付いていますが、大手道はかなり急坂です。大手から東にも曲輪が続き、周辺にも曲輪が残っています。
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2025/07/18 22:15
洞玄寺 (2025/07/01 訪問)
石原(いさ)城は戦国時代に大槻安芸守政治という豪族が舘を構えていたとされています。城址とされる洞玄寺は周囲に土塁と堀を残していて高台に築かれている様子から一目で城址とわかります。
洞玄寺を築いたのは二代目の与門(洞玄)とされています。寺の縁起所には天文年中に当地に城を築いた人物は以仁王十二臣の一人と同名の大槻光頼となっているようです。高津から石原にかけては大槻氏の一族が支配した土地とされ、中間にあたる観音寺にも大槻氏の城があったようです。
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2025/07/18 19:28
崩落部を上から撮影したら…📷 (2025/05/05 訪問)
甲府駅1番のりばから🚌に乗り,小笠原下仲町バス停下車。所要時間は約40分で,運賃は800円(IC可)。小笠原下仲町バス停から登城口まで,徒歩約120分。舗装道路ですが,ほぼほぼ登山。久しぶりの標高1000m超。マイペースでゆっくりと…。途中,富士山を眺望できるスポットがありました🗻
中野城ですが,東側急崖は一部崩落しており,散策には注意が必要です。私はギリギリまで接近して,真下を撮影しました。しかし,ただの竪堀か空堀道か…という,緊張感の伝わらない画像になってしまいました…<泣>。
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2025/07/18 09:58
【筑紫広門】(6)八女福島城(広門最後の居城) (2025/05/17 訪問)
筑紫広門の続き(6/6)です。八女(やめ)市にある福島城を訪れてきました。八女と言えば、今では日本有数の「ひな人形」の産地として有名です。
猫尾城のある黒木から堀川バス(羽犬塚駅行)で少し戻り、途中の福島で下車しました。西鉄久留米駅からは西鉄バス八女営業所行に乗り福島で下車しても交差点を挟んだ場所に停車します。そこから徒歩5分の市役所前にある八女公園が、福島城の本丸があった場所です。現在は本丸の櫓台跡が残っていました(写真①②)。
1588年に秀吉から上妻郡1万8千石を与えられた広門は、いったん蒲池氏の支城であった山下城に入りますが、山城で手狭であったため、翌年新たに麓の平地に福島城を築き居城としました。
そして広門は、この福島城から秀吉の命で二度朝鮮へ出兵します。そしてその後の関ケ原では西軍に付き、毛利秀包(久留米城主)・立花宗茂(柳川城主)らとともに関ケ原へ向かいますが、大津城で京極高次の足止めにあい、1日の差で本戦に間に合わず、福島城へ引き返します。しかし帰郷してすぐ、家康から改易されてしまいました。関ケ原の後、ここは筑後柳川に入った田中吉政の領地となり、吉政はこの福島城とその城下町の整備を行い、三男の田中康政を城主として入れますが、その後の一国一城令で廃城となったようです。
吉政は三重の堀で城を囲み。商人を集めて城下町を形成したようです。その堀は現在ほとんど埋められていますが、わずかに残っている場所もありました(写真③④)。また歩いて5分の所にある八女民俗資料館には、吉政当時の天守の鯱が保存されていて、当時の模型なども展示されていました(写真⑥⑦)。白壁の町並みは今でも城下に残っており、散策するにはとてもよい所でした(写真⑧⑨)。さすがは吉政! 本当に城下町作りの名人ですね(写真⑩)。
改易された広門は、黒田・加藤・細川を頼り転々と流浪して亡くなったようです。同じく改易された立花宗茂は3代徳川家光の時に柳川藩主に復帰しますが嫡子がなく、弟直次の子忠茂が柳川藩2代藩主となります。そしてその血筋が幕末まで代々柳川藩主を務めます。そしてその末裔の方が今でもいらっしゃいます。広門には養子がいて、大坂の陣でも活躍し、旗本として3000石が与えられますが実子ではなかったようです。
つまり、直次の妻は広門の娘なので、広門の血は立花家の中で流れ続け、そして400年以上たった今でも彼の血は絶えずに流れ続けているという事になるのです。おそらく広門は、立花家の中ではあれど、血を絶やすなという家訓が守られている事に安堵し、あの勝尾城の山頂からこの筑後の街を見守っているのかもしれませんね😊。
以上、全6回読んでいただきありがとうございました。
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2025/07/17 22:04
舘跡(たてあと)・衣河関跡 奥州市
衣河の東岸・小松柵跡の北西に舘(山口館)跡があります。現在は田畑になっておるようですが、周囲の土盛りが土塁かどうかはあやしい。舘跡は安倍頼時とその子・貞任の居館の跡とされています。安倍氏は頼時の祖父・忠頼のころから上衣川の安倍舘を本拠としたが、頼良の代にここに本拠を移したとされています。康平5年(1062)9月に貞任がここを撤退するまで、短期間ながらも「前九年の役」の舞台にもなりました。
舘跡から南へ500mほど行った先に衣河関跡があります。永正元年(1046)安倍頼良が本拠をこの地域に移した際に、関所もここに移されたようです。難関として知られる場所でしたが、前九年の役で源氏方についた清原武則の家来・久清が衣川に縄を渡して、それを頼りに大軍が一気になだれ込んだため安倍氏の撤退につながったという伝承があるようです。
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2025/07/17 21:40
和賀・稗貫一揆 (2025/01/05 訪問)
二子城は和賀氏の城で北上川の南の丘陵や平地を利用して築かれています。和賀氏が奥州仕置で所領を没収されると、旧領の回復を求めて挙兵し二子城を奪還しますが(和賀・稗貫一揆)蒲生氏郷ら再仕置軍の攻撃を受け和賀義忠は逃亡の途中で土民(野伏か)に討たれました。北上川沿いの丘地が平時の居館(主郭)とされ、二子八幡神社のある丘陵が詰の城とされ、複数の郭があり、詰城の主郭の北端には展望台が建ち、周囲を良く見渡せます。
西にある秋葉神社のある丘陵も郭とされ、二子城の名前の由来になっています。詰の城のある丘陵の周囲には家臣団の屋敷が広がり、和賀郡でも最大の規模を誇っていたようです。
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2025/07/17 21:10
水沢伊達家の町をブラタモリ (2025/01/05 訪問)
市庁舎や合同庁舎のあるあたりが城址とされ冠木門(黒門)が立っています。室町将軍足利義持の元禁衛士佐々木繁綱は葛西氏を頼って奥州まで来て水沢城に居住したとされています。佐々木氏は葛西氏の下で幾度となく合戦に参加し武勇を誇りましたが、豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏と共に衰退しました。
関ヶ原の合戦の後、仙台藩に組み込まれると、水沢要害となり伊達政宗の従兄弟である留守宗利が入ると水沢伊達家として明治維新まで続きました。市役所のある場所は三の丸の跡とされ、北に二の丸、北西に本丸、本丸の南に南の曲輪が配され、周囲は水堀や土塁で囲まれていたようです。市役所の南側には後藤新平旧宅(江藤じゃなくて後藤)や奥州武家住宅資料館(内田家住宅)があり、公開がされています。城址と合わせて訪問すると気軽にブラタモリの気分にひたれます。
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2025/07/17 20:31
文覚上人の子孫とか (2024/11/30 訪問)
茂庭氏が17世紀半ばまで使っていただけあってエッジの効いた遺構が残る。もともとここにいた遠藤氏はかの文覚上人の子孫だとか。三の丸を中心とする公園は御本丸公園というのだが字名が本丸なのであながち間違ってはいないかも。
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2025/07/17 20:25
2025/07/17 20:21
2025/07/17 19:04
2025/07/17 08:01
南朝の悲哀… (2025/04/26 訪問)
南北朝期に阿瀬川氏が築いた城で、吉野賀名生から逃れてきた後村上天皇が一時在城したことから天子山城とも呼ばれます。戦国期には保田氏の城となり、清水城の支城として機能したようです。
大きく蛇行する有田川に三方を囲まれた丘陵頂部に位置し、頂部まで車で行けるようですが、道幅が狭そうなので国道から杉野原集落に入ったあたりに路駐して、徒歩にて登城開始。集落の奥に見える丘陵を目指して進み、荒神社への案内表示に従って民家の間に入っていきます。民家の間を抜けて舗装された山道を5分ほど登ると荒神社境内に到達。
頂部は境内としてよく整備されている分、明瞭な城郭遺構は見られません。境内北辺に土塁っぽいスロープがありますが、遺構ではなさそうです。鳥居の手前には阿瀬川入道の墓があるようですが、見落としてしまいました…。主郭跡と思われる境内東奥の一段高くなったところに天子山三宝大荒神の社殿が建てられ、主郭の周囲は帯曲輪状の削平地がめぐっています(境内地としての改変かもしれませんが)。境内の東辺には防獣柵が張りめぐらされ、主郭から北にのびる尾根沿いに続いています。この北尾根に堀切があるようなので下りて行ってみましたが、浅くなっているのかよくわかりませんでした。
荒神社として改変されてしまっていて、城としての見どころはほとんどありませんが、こんな山深い地にまで後村上天皇が落ち延びてきていたのか…と考えると、しみじみ南朝の悲哀を感じました。
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2025/07/17 06:42
鳥羽城 (2025/07/09 訪問)
鳥羽水族館のすぐ西には国道42号線・近鉄志摩線が通っており、その向こうに見える丘が鳥羽城本丸です。
鳥羽水族館駐車場から歩いても行けそうでしたが、熱中症警戒アラートが発令されていたこともあり、クルマで鳥羽市役所駐車場までワープしました。
家老屋敷跡・本丸さらに二の丸旧鳥羽小学校校舎と見学しました。
また、西側には十数段の段々石垣があり、その下に三の丸があります。
所要時間 45分
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2025/07/16 22:04
比与鳥柵跡 岩手県奥州市 (2025/01/05 訪問)
前九年の役を記録した「陸奥話記」に記載のある比与鳥柵は正源寺から北の台地に築かれていたとされています。
安倍則任の守護した城館とされ「前太平記」や、白鳥村、稲瀬村の伝説にある「則任の恋物語」発祥の地ともされています(案内板より)。
慶長10年(1605)ごろより仙台城普請総奉行を歴任した後藤肥前守信康の居館となり、五藤寿庵隠棲の地とも伝えられています。
柵跡は北上川の東岸に位地し南の正源寺・墓地あたりが兵部舘、北の田畑になっているあたりが俵岩城とされています。厨川柵も北上川沿いに築かれていたし、北上川沿いに築かれている城郭は結構多いです。
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2025/07/16 21:45
黒沢尻柵 岩手県北上市 (2025/01/05 訪問)
黒沢尻柵は平安時代後期に築かれた安倍一族の柵とされています。案内板のある個所に「黒澤尻柵」が設けられ安倍頼良の五男・正任が置かれ「安倍舘」とも呼ばれていたようです。
永承6年(1051)前九年の役のさい安倍氏の勢力が強かったため陸奥守兼鎮守府将軍・源頼義は出羽の清原氏に援軍を頼み、康平5年(1062)の秋、安倍氏は源氏・清原氏の連合軍と厨川で最後の戦いを行い敗れ、黒澤尻柵も落ちますが、正任は出羽に逃れ、後に投稿し伊予に配流されたとされています。
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2025/07/16 21:30
金ヶ崎要害、古くは坂上田村麻呂。 (2025/01/05 訪問)
朝田さん、九州攻めてますね。というか九州コンプしたものだと思ってましたよ。このまま勢いでエリアコンプ達成しながら全国暴れまわってください。私はしばらくのあいだお休みの予定です。まあ同居人の体調次第なので、こればっかりはね~(暑いし)
でも熱中症にはお気をつけて。
古い伝承だと延暦21年(802)坂上田村麻呂が蝦夷討伐時に城を築いたとされています。前九年の役の頃、安倍貞任の叔父金為行が居城し、その後貞任の娘・白絲前が住んだと伝わります。
天正19年(1591)伊達氏により南部領の境目に金ヶ崎要害が置かれ桑折氏や留守氏が納治めましたが寛永21年(1644)伊達氏の一族大町氏が入り明治まで当地を治めたとのことです。
北上川に接する丘陵に築かれ北より二の丸・蔵丸・本丸・東館・観音館と連なっていました。余湖さんの縄張図を見ると西に枡形を備え、土塁や堀切を多用した面白そうな城だったようですが、宅地化が進み本丸らしき広い曲輪と土塁ぐらいしか印象に残っていません。でも北上川を見下ろしての眺望はなかなか良かったです。
後ろ三枚の写真は花巻市の宮沢賢治記念館の写真です。金ヶ崎城に行ってもこんな建物はありませんよっ(汗)。
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2025/07/16 21:25
2025/07/16 19:35
2025/07/16 19:14
百間石垣に感動 (2024/07/15 訪問)
昨年夏、避暑を兼ねて訪れました。
山の中の壮大の石垣は最高でした
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