空堀の所に立っています
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2019/01/27 16:03
説明板 (2019/01/27 訪問)
空堀の所に立っています
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2019/01/27 15:00
戦国の面影を残す山上ノ丸へ。 (2019/01/26 訪問)
山上ノ丸は、吉川経家時代までの城郭を、豊臣秀吉の命で宮部継潤が入城して石垣で固めるなどの大改修を経て、関ヶ原の合戦後に池田長吉が入ってからも改修を加え、現在までに残る縄張となったようです。
戦国期から堅城として広く知られていたようで、それが所謂『鳥取城渇え殺し』につながることとなるのですね…。
山下ノ丸からは約20分の登山です。
八幡宮跡を過ぎてからは結構な険しさの山道が続きます。流石は戦国時代から評判の堅城、易しい筈がありません。加えて雪解けで足元は滑りやすく、ぬかるんでるところもあります。今の季節、特に御用心を。
なお、中腹には宮部時代の石垣や戦国期のものと思しき平坦地、江戸から鳥取を三日三晩往復した伝説を持つ狐様を祀る祠などがあります。
山頂の本丸跡と出丸跡の石垣は、荒々しくも想像以上に立派なものでした。やはり山下ノ丸とは全然違って、どことなく戦闘的な雰囲気を色濃く感じます。
ここからは秀吉本陣の太閤ヶ平跡がある本陣山が目の前に。吉川経家、どんな思いで見てたでしょうね。
本丸跡の大井戸跡は池田長吉時代に3年もの歳月をかけて掘られたのだとか。山城の、しかも本丸の水源となると、その重要性は察して知るべし。関ヶ原後も豊臣はまだ健在なので、このあたり微妙な情勢の中で実戦を想定した緊迫感が伝わります。
天守跡からは、市内はもとより、360度パノラマ遠望です。日本海や砂丘もよく見えます。
ちなみに今残る天守台の上には、宮部継潤が築いた三層の天守が建っていたそうですが、後に三階部分の傷みが激しかったのか、池田長吉によって二層に改められました(おそらく望楼型天守?)。こけら葺きか板葺きで、穴蔵があり付櫓から入る形式だったようです。が、それも後に落雷によって焼失してしまい、以降は再建されることはありませんでした。
ここから太閤ヶ平跡に向かうハイキングコースがあるのですが、今回は時間の都合上断念。一泊二日なら絶対行くんやけどなー…
山下ノ丸へ戻り、復元された城門を潜り、仁風閣へ。
ここは元々、江戸時代後期に藩主の未亡人(この時、まだ17歳だったそうです…)となって落飾した宝隆院を慰めるために建てられた扇御殿のあったところ。
今は美しい庭園と宝隆院が特に愛した化粧の間(宝扇亭)が当時の面影を残しています。
仁風閣もオススメです。大正天皇が皇太子時代に宿泊したことと、『仁風閣』の名付け親が東郷平八郎だとかで有名かと思いますが、明治以降の藩主一家はこちらに居を構えたそうで『扇邸』と呼ばれていたそうです。仁風閣の内部そのものも必見ですが、明治以降の池田家の激動のファミリーヒストリーも紹介されています。
なお、鳥取城の詳細がわかるパンフレットも無料で配布されておりますので、是非ゲットしてみて下さい。
この後、鳥取城の鎮守だった長田神社→池田家菩提寺で庭園が美しい興禅寺→鳥取東照宮→見事な庭園がある観音院→鳥取市歴史博物館を見て、お土産と駅弁のかに寿司(画像撮り忘れた…)を買ってフィニッシュとしました。
鳥取を再発見できた、良い旅でした。
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2019/01/27 13:47
難攻不落の城へスタンプリベンジ行軍❗ (2018/11/03 訪問)
10月初めに攻城の際、台風禍により登山が禁止されていたほか、月曜日で施設休館のためスタンプは日本城郭協会公認の事前押し切り貼り式の紙の無人配布などと当方の攻撃はことごとく退けられた。
この日はリベンジの攻城。ちいさなスタンプ紙はないことはないが、満足いくはずがない‼️山城ってしんどいから好きくないのに燃えてしまっている。。。
さてさて、佐柿は小浜から半時間ほど東にある美浜町にある地域で、元奉行所跡地に若狭国吉城歴史資料館が建っている。この日は入館無料で事前にしっかり歴史を勉強しスタンプゲット。缶バッチもいただいた。
國吉城は丹後街道椿峠を見下ろせる位置にある。麓に居館があり、有事の際は山城に籠って戦う典型的中世山城。若狭武田氏の配下にあった粟屋氏が築城し、主家の衰退等により若狭を狙う朝倉氏の度重なる攻撃を退け続けた難攻不落の名城。
朝倉攻めの際、信長、秀吉、家康と三傑が揃って迎えられ出陣したことでも知られている。
居館跡を横目に綴れ織りの道を進むと伝二ノ丸の案内が出てくる。更に進むと本丸址に出る。
本丸では、晴天にたなびく幟がよく映える。先に見える若狭湾は御食国(みつけくに)の名の由縁となる漁業資源の宝庫。
今の丹後街道国道27号がはっきりと見える。当時もこのような状況だったのだろう。とにかく、眺望が素晴らしい。
城自体では、石垣、堀切、土塁、食い違い虎口などが残っている。斜面は急だが、遊歩道がしっかり管理され、あと○○mといった案内も多くあり大変親切だ。
是非天気の日に登っていただきたい美しい城だ。
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2019/01/27 13:32
富士見市の富士山。 (2019/01/26 訪問)
日本列島、インフルエンザと大寒波の襲来ですね。みなさんの所は大丈夫ですか?
私の住む東京の端っこはカラカラ北風がビュービュー吹いてます。
なので整備された「難波田城」に行って来ました。無料の資料館、駐車場あります。
鎌倉時代に金子氏が難波田の土地を与えられ住み始めたようです。
後、扇谷上杉氏の重臣になった難波田 憲重さんは武蔵松山城や深大寺城の城主も勤めます。
「難波田城」手入れが行き届いている公園です。
きれい過ぎる城跡です。
入れ違い虎口や曲輪の説明板、木橋の復元、難波田の歴史イベント等々、現地の方に大切にされているのが分かります。
帰り道、富士山が大きく見えました。
私の住む街にも「富士見」とつく場所がありますが富士山の頭しか見えません。
風が強いので雲が流されきれいに見えました。
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2019/01/27 12:06
池田家三十二万石の意地!まずは山下ノ丸へ。 (2019/01/26 訪問)
鳥取城…およそ20年振りの再訪です。
本日のお目当ては仁風閣裏の旧宝隆院庭園と復元された擬宝珠橋。
お天気は…積雪はないものの強風と時折降る霰。あまり良い天気とは言えませなんだ。
鳥取駅から一回100円で乗れる循環バス(←3つのルートで運行してますので要チェック!使いこなせたら超便利そうです)で約5分ほどで城跡へ。
もちろん最初に向かうは擬宝珠橋。やはり木造の橋は美しいですね。お城に来た!って実感がいよいよ湧いてきます。ここから本来の登城ルートに従って進みます。
石垣修理中の中ノ御門跡から太鼓御門跡にかけては現在整備の真っ最中。完成はまだまだ先でしょうが、完成すればかなり雰囲気が変わるでしょうね。楽しみです!
天球丸下の楯蔵跡もよく整備されてました。ここからは例の巻石垣を見ることができます。
表御門跡を抜けると二ノ丸跡。藩主の御殿があったということで、政庁があった三ノ丸や現在仁風閣がある扇御殿跡に次いで、流石に広いです。
二ノ丸は久松山の尾根を大規模に切り崩して造成したそうで、石垣もここから採取したとか。そんな関係で二ノ丸奥には石切場も残っています。
三階櫓は山上の天守が焼失してからは実質的に天守の役割を果たしていたそうです。櫓台を築く際に女中のお左近さんが手水鉢を寄進したという逸話もあり、今も西角にあります。ここからは鳥取市内を一番よく望めますし、城下からお城を見たときにほぼ中心に櫓台が見えます。まさにベストポジション。
標高はここまでですでに40m弱。尾根の切り崩しが如何に大規模だったかもよくわかります。
なお、二ノ丸の裏御門跡より西側は幕末になって増築されたエリア。石垣の積み方(特に反り)が違うのも見どころですが、登り石垣まで築かれています。幕末に築かれたものとしては唯一の遺構とのこと。
三階櫓といえば、山下ノ丸の最上段にあたる天球丸跡にも存在し、こちらは三層の多聞櫓のような外観だったようで、その跡も美しく整備されてます。
そしてここから、いよいよ山上ノ丸へと向かいます。
すみません、まとめきれないので続きます…m(_ _)m
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2019/01/27 10:11
大和絵障子。 (2019/01/26 訪問)
鳥取城→市内の寺社巡りのついでに寄ってみたら、思いがけない出逢いが。
2019年3月24日まで、鳥取市歴史博物館やまびこ館にて企画展『用瀬-MOCHIGASE-』での展示品の中に、なんと用瀬の大安興寺に伝わる景石城の大和絵が描かれた障子が数点展示されておりました!
当初、全く立ち寄る予定がなく、あくまでついでだった(当然、何の予備知識もない状態でした…)ので、これには驚いたというか、食い入るように見てしまいましたね。
金箔を用いたかなり華やかな画風なので、おそらく応接用の部屋(広間?)を飾っていたのでしょうか…。
他にも景石城に関連する資料が数点展示されていました。
この企画展自体、思ってた以上に見応えがありましたね。何となく立ち寄って正解でした。用瀬の皆さん、すみませんでしたm(_ _)m
なかなかレアな展示かと思われますので、ご興味のある方、是非!
ってか、いつか現地に行ってみたい…!
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2019/01/27 07:51
登り石垣 全国5例目 (2019/01/25 訪問)
標高90mは程良い高さで食後の運動で軽く登れる。 本丸の石垣群、天守台跡からのパノラマ景色が素敵。
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2019/01/27 07:43
平田城跡は愛宕山公園になってます (2019/01/23 訪問)
愛宕山公園の展望台が平田城跡の主郭。 動物公園には新たにポニー広場出来てます。
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2019/01/27 07:38
銃・罠によるシカの捕獲期間中 (2019/01/23 訪問)
ちょうど銃・罠によるシカの捕獲期間中。 万一の誤射が恐くなって入山せずに撤退。
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2019/01/27 07:32
満願寺城の攻め口が分からず (2019/01/19 訪問)
満願寺の前まで来るも、案内看板も見つからず、裏山に入る攻め口も分からず、ウロウロきょろきょろ不審者に思われ通報されそうなので撤退。
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2019/01/27 07:19
2019/01/27 03:05
鎮西一 (2013/12/30 訪問)
雷神の化身等と呼ばれる立花道雪公と、高橋紹運公の実子で立花家を継ぎ、豊臣秀吉に「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。(忠義も武勇も九州随一である)」と言われた立花宗茂公の居城だった立花山城。
北側の麓に城主・立花道雪公の墓がある梅岳寺があったのでお参りしてきましたが、梅岳寺の山門を潜る時、道雪公から鋭い眼光で見られているような気がして思わず背筋が伸びました。武将・大名の墓をお参りして来た中で、一番畏怖を感じた時でした。
遺構は石垣が所々に残っているのですが、残念ながら立花氏の遺構ではなく、後に筑前に入った小早川氏の遺構である可能性が高いようです。井戸跡は現地の説明からおそらく立花氏からの遺構だと思います。
本城の井楼山(標高367m)からは南西に博多湾を一望でき、古来より交易の拠点であった博多津を抑える眺望に加え、南は大宰府の岩屋城のある四王寺山まで見渡せ、なるほど博多を抑えるには絶好の場所であると実感しました。また、尾根伝いに北にある松尾山(標高342m)の曲輪跡からは北の宗像方面も監視することが可能で、南の尾根伝いにある三日月山(標高272m)は、防人の時代の660年代から防人を配置した陣屋だったそうで、確かに山頂は大きくて立派な曲輪でした。
帰りも梅岳寺に寄り、道雪公に登城と道中の無事の感謝をして、立花山城を後にしました。
梅岳寺の近くに立花山登山者用の無料駐車場があり、10台程駐車可能です。
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2019/01/27 00:18
多聞櫓や天守をイメージするとわくわくしてきました。 (2019/01/13 訪問)
最初に千軒舎に寄ってスタンプと資料をいただき、展示を拝見しました。発掘調査の様子や出土品などしっかり予習して、千軒舎の裏口から登城。
「帰りもここ通り抜けていいからねー!」
「はーい。行ってきまーす(^O^)/」
って、なんか楽しい。
高くまっすぐ伸びた杉の木が風でしなって不思議な音を立てていました。
通行止めの春日神社からのルートとの合流点から遺構祭りの始まりです。
各郭に設置されている説明板が親切で理解しやすく、櫓や天守のかっこいい姿を容易にイメージすることができました。
災害の影響で立ち入り禁止やブルーシートで覆われた箇所もたくさんありましたが視界がひらけていたので全体の姿は把握しやすかったです。
「ただいま!」と千軒舎に戻って、もう一度展示を見ました。現地を見てからだとさらに良く理解できました。予習も大事だけど復習も大事と実感した次第です。
ここもぜひ再訪したいです。なぜかというと、黒門や春日門跡を見なかったからです( ;∀;)
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2019/01/26 23:51
長岡天神参詣のついでに… (2019/01/24 訪問)
長岡天神駐車場から車で坂を下り、そのままアゼリア通りを東へ真っ直ぐ進むと、阪急電鉄の踏切にあたる手前、南側に開田城土塁公園は位置する。
方形で土塁で囲まれた城だったらしく、遺構の一部が見れる。
開田城は西岡衆(にしのおかしゅう)という国人衆の一つ中小路氏の城だったらしい。同氏は長岡天満宮の宮司を務める家系だそうな。今も続いているのかな。
神社に関係あるからか、土塁内に巨大な楠が植わっており神々しい。
長岡天神は梅、桜、ツツジが有名な学問と花の神社で、阪急長岡天神駅からも然程遠くないので城址と併せて見ておきたい。
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2019/01/26 23:08
茶々の淀城はこちら (2019/01/24 訪問)
淀城の後に淀古城へ行ってみた‼️
ここは、桂、宇治、木津の三川合流地点の北側に位置する天然の要害。元々歴史が古い城で、応仁の乱、三好、信長、秀吉と絡みがある。
足利義昭とともに内藤ジョアンも滞在したのかなと想像してみる。今は妙教寺に石碑が残っている程度。寺横の水路が堀だったみたいだけど、時間がなく確認出来なかった。納所小学校側かな?
茶々のことを淀殿と呼ぶきっかけとなった城とか言われているが、女性に殿とは徳川の印象操作かもと好きになれない話。
石碑には、鳥羽伏見の戦いの時、砲弾が貫通したともある。どこの部分だろう…
敷地内には東軍の戦没者慰霊碑もあった。
今更ながら、乙訓も伏見も、都に近いだけあって結構色んな歴史があるんだなぁと「城びと」情報を元に周って改めて思う。
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2019/01/26 23:05
南曲輪と北曲輪 (2019/01/26 訪問)
巨岩と磨崖仏で構成された南曲輪と土で構成された北曲輪
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2019/01/26 22:23
竪堀 (2010/03/10 訪問)
ここの見どころは何といっても竪堀の多さ。
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2019/01/26 21:53
畝堀(障子堀) (2019/01/04 訪問)
河村城は、標高225mにある山城です。酒匂川との比高は、約130mとなり「川村城址歴史公園」として整備されています。
平安時代末期に、藤原秀郷の一族である波多野遠義の子・河村秀高が河村城を築いたと考えられており、戸張城・猫山城とも呼ばれています。
戦国期に入り、韮山城主・北条早雲が小田原城を手に入れると、川村城も北条家の支配下とされますが、1569年に足柄城・深沢城と共に武田氏の前に落城した模様です。しかし、1570年に北条氏康が奪還し1573年まで改修工事が行われました。
1590年豊臣秀吉の小田原攻めに於いて、河村城で戦闘があったのか不明ですが開城し、徳川家康が関東に入ると河村城は廃城となりました。
河村城を訪ねた日は、小田原城・石垣山城に訪問しており、最後に河村城に訪問しました。
小田原城・石垣山城と立て続けにビックネームのお城に訪問しており、「疲れたから河村城に訪問するのを止めようか」と思っていたほどでした。自分は、車2台分駐車できるお城の北側に駐車しました。(河村城大手付近に駐車スペースもあるそうです)駐車場から本郭まで約10分で行くことが出来ます。
まず、馬出廓・西廓・北廓を見学し、本郭に到達。「フーン(-ω-)、こんなもんか」と城址碑と社の周りをうろうろしていた時に、目に飛び込んできたのが、茶臼廓と小廓でした。
茶臼廓と小廓・本郭の間にある障子堀(畝堀)が見事で、しかも堀が深い、「山中か〜」と独り言を言いながら堀を上り下りしながら写真をパシャパシャ。じっくり堪能したあと、蔵部・近藤廓・大場廓をたっぷり楽しみ(障子堀を見たあとなので物足りなさが残った)帰路に着きました。
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2019/01/26 18:31
小笠原氏城跡群の1つ (2019/01/21 訪問)
前日岐阜県攻めしてきたので、たまには出かけずに体を休めようと思っていましたが・・・
朝6:00頃に目覚めた事で、何故かあずさ号に乗って松本まで来ていましたw
目的は松本城ではなく、松本駅から西側にある小笠原氏城跡群・・・城びとに掲載されているのはそのうちの1ヶ所・井川城のみでした。
(東にある林大・小城はタイミング会ったら攻めてみようと思います)
国指定史跡との事ですが、実際には田畑で開けた中に小丘がぽつーーーーんとあるのが井川城で、遺構は無いと言って良いでしょう。
たまに国指定史跡なのに~・・・ってツッコミたくなるお城有りますが、ここはその1例となりますw
一応周辺はお城の名残として地名等にお城関係の名前が使われているっちゃ使われていましたが。。。それだけですなw
ここから更に西に行くと同じ小笠原氏城跡である渚城と荒井城があります。
どちらも遺構は無いですが解説は有りますので、もし行くとしたら井川城とまとめて松本城のついでに行ってみる・・・くらいで十分かと思います。
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