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カズサン

越後新発田城主溝口氏故郷の城 (2020/03/17 訪問)

 大野城、蟹江城を終えて県道65号線を北上約10数km程の西溝口城を初登城。
 ナビは県道128号線沿いの城址跡成願寺に合わせ走行するが車の交通量が多く近くに路駐する所が無く、成願寺より西に150m程の信号西溝口を南入り50m程の所に若干広い三角コーナーが在り路駐、近くに八幡社在り、そこより200m程徒歩。
 西溝口城は現在真宗高田派成願寺ですが民家風のお寺です、西溝口城碑が垣根の中に埋もれて表だけ見えるように垣根を刈って有ります。
 遺構は無くお寺の南側坪之内地区が城域一体か? 情報、ガイドは城郭放浪記さん、古城盛衰記さんに依る。

 溝口氏は溝口秀勝の時代丹羽氏に仕え信長の直臣となり若狭高浜城主、賤ケ岳合戦後丹羽長秀の与力とし大乗寺城主、慶長3年(1598年)上杉景勝会津転封後、越後新発田城主と成り以後移動も無く江戸時代を通して新発田藩として続き明治を迎える。

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井伊谷の祐

ようやく行けました (2020/03/20 訪問)

色々な自粛の中ですが、お天気の良さに決行しました。バス停が登城口で分かり易い。丘陵を利用した広大な土地に土塁の多さ!土塁の高さ!流石、北条様です。以外に大きな池がいくつかあり驚きました。曲輪や馬出が多く複雑な作りになっていますね。帰りは古峯ケ原方面へ尾根歩きをしました。中々歩き易いですが、標識がもう少し詳しいと良かった。ちょっと迷いました。

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ヨコちゃん

松永久秀最後の城 (2020/03/20 訪問)

信貴山朝護孫子寺の山頂にある信貴山城址。距離はそんなにないのですが、結構な坂道を登っていくので結構きつい(*´Д`)
城址まではわかりやすいですが、松永久秀邸跡は少しわかりにくいです。(跡もわかりにくいですが)
城址では、木製武者がお出迎えしてくれます。

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カズサン

蟹江城の支城天正地震で壊滅か? (2020/03/17 訪問)

 蟹江城を終えて西に1,2km程の日光川沿いの大野城に初登城。

 情報とガイドは古城盛衰記さんグーグルマップで城址を確認して目的地を城址碑の在る場所に合わせ進行し車は案内看板の在る畑中道に路駐、離合が問題ない広さ。

 大野城は蟹江城の支城で小牧長久手合戦の中で蟹江城と蟹江合戦の役割を果たした、ここも天正地震で大きな被害を被りそのまま廃城か?
 周り田圃の中に城址碑が建てられており日光川河川改修の前の川が三日月湖として残ってる、お往時は河川沿い周りは湖沼、潟地と地盤緩く水で守られ要害地が天正地震で地盤液状化、津波などで壊滅的被害が思われます。
 ここの日光川を北に上れば信長の勝幡城、蜂須賀氏の蜂須賀城にたどり着けます。

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カルビン

脳内ソングは「ひだまりの詩」 (2019/03/24 訪問)

土浦城の続100名城スタンプを入手すべく再訪した際、バーター訪問したのが木田余城。

地図を持って行っていなかったのですが、漠然と「土浦駅東口から常磐線沿いに北に20分くらいひたすら歩いた場所にある」という合言葉で行ってきました。

途中線路沿いの道がなくなりますが、とにかく線路側に行く道があればそっちに寄って歩く事25分くらい・蓮根畑(蓮根は茨城県の名産地)が続く線路沿いの道の傍らに木田余城の解説を発見。

どう見ても遺構は無く、線路沿いにある解説と、そこから線路下に続く道の行き止まり・JR関連施設内に石碑(中には入れないが、柵外から十分確認・撮影出来る)があるくらいです。
※丁度線路点検している方がいて、城碑見る為に線路下の道行く許可もらえたのでラッキーでした(^∀^)v
※追記・現在JR東日本としては許可していないとの事なので要注意・・・自分なんでOKもらえたんでしょう?(汗)

数々の新規訪問したお城の名前、まず読み方合っていない事がほとんどでしたが、ここは文字通り「きだまり」城で合ってました。


だもんで、土浦駅から木田余城に着くまで脳内で流れていた「ひだまりの詩」が間違っていなかった事に後でホッとした俺(安っw)

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カズサン

天正地震で壊滅した蟹江城 (2020/03/17 訪問)

 荒子城、前田城を終えて西に5、6km程の蟹江城に初登城。

 情報、ガイドは古城盛衰記さんグーグルマップで城跡場所と駐車可能場所を確認し蟹江町の産業文化会館及び中央公民館にナビを合わせて走行。
 車は産業文化会館北の駐車場を利用、西に水路を渡った大型の駐車場在り。

 駐車後グーグルマップ、スマホマップを頼りに直接蟹江城址公園を探訪、公園に大型の蟹江城名石碑、案内板、西の蟹江川方向に本丸井戸現存、案内板、案内板によると小牧長久手合戦の中で蟹江合戦の説明、天正13年の天正地震で蟹江城壊滅、往時は海岸線も近く蟹江川沿いで地震による液状化現象か津波かに依り甚大な被害だったのでしょう、遺跡は井戸のみ他は市街化の波にのまれています。

 探訪後歴史民俗資料館を訪ねましたが中央公民館と合わせて今回の武漢コロナで3月末まで休館、しかし産業文化会館玄関の受付前に蟹江合戦の資料展示あり合わせて配布資料も置いて有りました、蟹江城址公園案内図も有り先に産業文化会館に寄り案内図をゲットする事をお勧めします、私は案内図を見て井戸の存在を知り二往復しました。
 産業文化会館は屋上階櫓風に成って居り現在の蟹江城なのでしょう。

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まっぴー

空堀天国!?武田築城技術の結集 諏訪原城🏯 (2020/03/15 訪問)

遺構度→★★★★☆ 復元度→★★★☆☆
施設充実度→★★★★★ 楽しさ度→★★★★☆

武田の築城技術の結集と言われる諏訪原城に行ってきました!
武田氏が遠江侵攻のために牧之原台地上に築かれたお城で一説では馬場信春が築いたとも言われています。長篠の戦い後に徳川家康が落とし、武田に対抗する拠点にしていたものの、武田氏が滅びると存在意義も薄れ、廃城になりました。その為武田氏と徳川氏の技術が集結している城です。
遺構は空堀や三日月堀、土塁、曲輪、そして武田や徳川の城でしか見ることのできない丸馬出が綺麗に残っています。
特に空堀は多く、またとても立派で大迫力でした!傾斜も凄く、深い空堀がいくつもあり、まさに空堀天国とも言えるお城でした。
諏訪原城のシンボルとも言える丸馬出は圧巻で、ここまで立派な丸馬出は見たことがなかったので感動しました。ここまで綺麗に残っていることに感謝です。ありがとうございます(^_^)
また丸馬出の周りを囲んでいる三日月堀も素晴らしく、見惚れてしまいました!
復元された門を潜って奥に行き、下を見るとかなり下の道路と距離があり、これは攻められないなと思いました。僕だったらすぐ諦めます(笑)武士は本当に凄いなと思います。
土塁も高く、立派でした。
諏訪原城の遺構の質の良さを感じられました。

しっかりと整備されている為見やすく、説明板もあるので遺構の場所もすぐに分かります。また山城ですが大してキツイ訳でもないので平山城に近いと思います。

駐車場も完備されているので車も大丈夫です。
ビジターセンターでスタンプを押すことが出来、状態も良好です。(ちなみにビジターセンターの外の城郭の入り口にも設置してあります。)パンフレットもガイダンス施設にあるので貰ってからお城探索をすると良いと思います。探索時間は1時間は要らないと思います。(目安なので1つ1つ細かく見たい人は多めにとってください。)

とても素晴らしい城郭でした!皆さんも是非行ってみてください!

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todo94

個人所有地 (2020/03/14 訪問)

城址碑や説明板の建っている場所がどう見ても個人のお宅の中のように感じられました。説明板に近づいて読むことがはばかられてしまいました。

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街道おじさん

島原城登城 (2020/03/11 訪問)

松倉重政がが日野江城を廃城にし、この島原城を新たに築いた。
このため重税を課し、またキリシタン弾圧も続けたために
島原の乱が勃発したという因縁の城。
しかしそうした不幸な歴史にもかかわらず、青空に映えた層塔型の天守は美しかった。

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赤い城

発掘調査中 (2020/03/15 訪問)

府中城の出城で外城と呼ばれています。
主郭部分は現在発掘調査中でした。
岡田稲荷のところに説明板があり、空堀と土塁が残っています。
空堀は竹が倒れていてほぼ藪状態、ここは整備したら見所になりそう、と思いました。

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にのまる

ゲームオーバー(´;ω;`) (2020/03/12 訪問)

 無理だと思ったら引き返す覚悟をしながらも、もしかしたら行けるかも…という期待もあって、トレッキングシューズで出かけました。
 麓の浄福寺で解説板を読み、ほころびはじめた枝垂桜を眺めていると、お寺の裏から動物の鳴き声のようなものが聞こえたのでそっと覗いてみると、お猿さんたちがお食事中(゚Д゚;)
野生の猿との初めての邂逅がまさか都内だとは(―_―)!!
ここが登城口だったらソッコー引き揚げていたと思うのですが、そうではなかったので予定通り白山大権現横の登城口へ。この緩やかな上りが永遠に続くわけではないというのは皆さまのご投稿で理解しておりましたので油断はいたしません。ですが、観音堂まで素直に石段を上がらずに左の坂から行ってしまったのはちょっと失敗。石段の方がきっと楽です。
 観音堂の先をさらに少し登った電柱のあるところから少し下り坂になって、緩やかな上りをしばらく進むと…出た!直登の道。皆さまが言っておられたのはここのことかとしばし感慨にふけり、この道に備えて途中で拾っておいた木の枝を相棒にがんばって登って、平らな道に出ました。が、それもつかの間、さらに急な土の壁が立ちはだかる…。距離としてはそんなになさそうだけどあまりにも傾斜が急で。二方向から行けそうだったけれどどっちを選択しても大差なさそうな怖さ。まじ、ここ滑った人おるやろ?ザイルと道連れと心の準備がないと私には無理。ここが限界でした。(お食事を終えたお猿さんたちが帰ってくるかもしれないしというドキドキもあり。)
でもこの先に広がる世界を見てみたいので、ともに滑ってコケての覚悟をしてくれる人が見つかったら(いるか?)再チャレンジしたいです。

☆八王子城の中腹に「松竹バス停方面→」という道標があって、どこなんだろうなあと思っていたら、浄福寺城最寄りの「恩方事務所」の1コ前のバス停がそうでした。浄福寺城は松竹城とも呼ぶのだそう。八王子城とほぼ繋がっているみたいです。あと、松竹は「しょうちく」だと思っていたら「まつたけ」でした。

☆☆隠し撮りした写真⑧にお猿さんが三匹隠れています(^_^)/☆☆

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チェブ

城山稲荷神社と城下公園。 (2020/02/23 訪問)

本庄 実忠さんが築城した「本庄城」。
本庄氏は関東官領の山内上杉氏の家臣でしたが北条氏に攻められました。
北条家に仲間入りすると、秀吉さんの北条征伐。
本庄氏も「小田原城」で自害します。本庄氏は滅亡してしまいました。
家康さんの時代に「本庄城」は廃城し、幕府直轄地になりました。
「本庄城」の石碑と説明板は城山稲荷神社にあります。遺構は分かりませんでした。
この城山稲荷神社から少し下った場所に城下公園がありました。
こんもりとした所があり、何となく土塁に見えるような気がしました。、、、土塁に見えて欲しかっただけかもしれませんが。
奥にボーリングの巨大ピンがありました。
これは、昭和の遺構でしょうか(笑)

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カズサン

寺伝に利家誕生と言われる前田城 (2020/03/17 訪問)

 荒子城を終えて西に2、3km程の前田城に初登城。

 車は事前にグーグルマップで確認し前田速念寺前の道は狭く路駐出来そうに無いと判断して東の畑中道に路駐し徒歩で速念寺へ、すると山門前に参拝者駐車場が有りました参拝者以外駐車禁止と成ってますが利用可能か?
 前田城から荒子城に移る前田利昌(利家の父)の時代、寺伝ではここで利家は誕生し一緒に居城を荒子城に移すと言う事か?

 山門は二階建ての立派な楼門風、門前に前田城址の石碑、境内に最後の前田城主とされる前田与十郎の墓、寺は利家の叔父利則が出家して意休と号して前田速念寺住職に成った寺は浄土真宗のお寺です。 一人静に参拝、登城させて頂きました。

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カズサン

利家誕生巨大石碑が建ってる (2020/03/17 訪問)

 昨年12月中旬に蜂須賀城初探訪し夕刻時間切れで探訪できなかった荒子城でしたが3ヶ月後武漢コロナで騒がしい中、寺部城、挙母城を終えて東名、名古屋高速を使い荒子城初登城。

 車は冨士権現天満宮と権現公園の間の交通量の少ない所に路駐、権現公園の北側で若干広い道の路駐の方がいいかも。

 冨士権現天満宮の中に大きく立派な前田利家誕生の石碑が圧倒してる、隣に前田利家と荒子城の説明板、遺構は無いようですがここが若き日の利家が育った処だと思いにふけったり、説明板下のボックスにパンフレット「前田利家百万石への道 犬千代ルート」が入ってました、周辺散策参拝してもう一つの誕生したと言われてる前田城へ移動。

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ふうちゃん

続百名城達成 (2019/11/24 訪問)

続百名城を達成した最後の城です。

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街道おじさん

平戸城登城 (2020/03/10 訪問)

令和3年3月31日まで改修工事で天守、懐柔櫓、見奏櫓は見ることが出来なかったが、
山鹿流軍学による折れや屈曲が施された石垣を見るのは興味深かった。
改修工事終了後に是非もう一度訪れたい。

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todo94

16年ぶりの再訪 (2020/03/14 訪問)

渋柿城、松尾城といった山城攻略は雨が降っていたため断念いたしました。2004年以来16年ぶりに川之江城へ。当然、予想されていたことですが、模擬天守内は私ただ一人の貸し切り状態でした。川之江陣屋にも初めて脚を伸ばしてみましたが、八幡神社に移築されているという陣屋門のチェックには失敗してしまいました。また、いつかチャレンジしてみたいと思います。

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赤い城

藪の中に説明板 (2020/03/15 訪問)

堅倉小学校の裏側、堅倉運動広場に車を停めました。
細い道沿いに低い土塁が残っています。
藪っぽい中に説明板が立っていてそこから土塁が伸びています、が分かりにくい。
佐竹氏が築いた砦だそうです。

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カズサン

チョイ寄り七州城と呼ばれる挙母城 (2020/03/17 訪問)

 寺部城に初登城の後矢作川の西に在り近いので挙母城に二十数年ぶりチョイ寄り、車は豊田市美術館の蓮池跡の駐車場を利用。

 駐車場の直ぐ北に復元二階隅櫓が建ってる、コロナ対策で櫓休館、美術館も駐車場のトイレも美術館休館中及び時間外は利用不可、寺部城から移築された茶室書院「又日亭」が隅櫓の裏側に在る、当日染井吉野桜だ1本1、2部咲きでした。

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カズサン

尾張徳川付家老槍の半蔵渡辺守綱の陣屋 (2020/03/17 訪問)

 コロナウイルス、花粉に気を付けて昨年12月中旬尾張蜂須賀城以降残ってた三河、尾張の戦国武将に関わってる城跡廻りをして来ました。
 車は守綱神社の南道路三角スペースに路駐。

 守綱神社を参拝して北に今は水の無い堀、堀の北に土塁、その上に寺部城の石碑、陣屋内部は建物の礎石があちこち、井戸が3ヶ所、東に土塁法面、北に丘陵が落ち込み水堀用水かも?、西は矢作川、西土塁は竹藪状態、矢作川の河川改修で西側は大幅に変わったのでしょう。西側土塁上には山桜が花をつけていました今年は早いのかな?
 東の3曲輪守綱寺近くに家老遊佐氏の長屋門、松本氏の長屋門が残ってる。

 歴史的には文明年間鈴木重時の築城、松平氏、織田氏、今川氏攻防が在り、最終的には慶長15年(1610)尾張徳川氏の付家老として家康の信認厚い槍の半蔵こと渡辺綱末裔渡辺半蔵守綱が1万4千石で寺部に入封し明治まで続く。

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