理文先生のお城がっこう 歴史編 第36回 九州の城2(伊東氏と都於郡(とのこおり)城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。36回目は前回に続いて「九州の城」がテーマ。現在の宮崎県を中心とする南九州の戦国大名・伊東氏は、どのようにして一大勢力を築いたのでしょうか? 本拠地とした都於郡城の特徴と、48もの支城による支配体制に注目しながら迫ってみましょう。

南九州で力をつけた戦国大名伊東(いとう)氏の基礎(きそ)は、伊東祐堯(すけたか)・祐国(すけくに)二代によって築かれたと言われています。永享(えいきょう)12年(1440)~宝徳(ほうとく)2年(1450)にかけて、川南の曾井(そい)石塚(いしづか)(共に宮崎県宮崎市)を中心に支配領域を拡(ひろ)げた祐堯は、日向国(ひゅうがのくに)へ度々攻(せ)め寄(よ)せる薩摩(さつま)の島津(しまづ)氏を退(しりぞ)けました。

伊東氏が勢力(せいりょく)を拡大(かくだい)してくると、日向国北部で力を持つ土持(つちもち)氏が警戒(けいかい)を強めたため、両者の信頼(しんらい)関係が薄(うす)らいでいきます。すると、土持氏は敵対(てきたい)する島津氏と手を結ぶようになりました。そこで、康正(こうしょう)2年(1456)、祐堯は土持氏と戦い、翌(よく)長禄(ちょうろく)元年(1457)に財部(たからべ)土持氏(高鍋(たかなべ)町あたりで勢力を持つ土持氏一族です)を破(やぶ)り配下としました。これにより、財部宮崎県高鍋町)・新納院高城(にいろいんたかじょう)宮崎県木城町)・門川(かどがわ)宮崎県門川町)・神門(みかど)(宮崎県美郷町)等の諸城(しょじょう)を自分の城とし、財部には落合民部少輔(おちあいみんぶのしょう)を地頭(じとう)として配置したのです。伊東氏は、建武(けんむ)2年(1335)日向に下向して以降(いこう)都於郡城宮崎県西都市)を本拠(ほんきょ)としていました。

高鍋城、日向灘
高鍋城(財部城)より見た日向灘 伊東氏が勢力を拡張した日向灘(ひゅうがなだ)沿岸(えんがん)の景観(けいかん)です

戦国期の伊東氏

文明16年(1484)、飫肥(おび)(宮崎県日南市)主の新納忠続(にいろ ただつぐ)が島津氏11代当主の忠昌(ただまさ)に、櫛間(くしま)宮崎県串間市)で伊東氏に備(そな)える島津久逸(ひさやす)を伊作(いざく)宮崎県日置市)へ還(かえ)すよう願い出ました。これに反発した久逸は、伊東祐堯や豊後(ぶんご)の大友氏に援軍(えんぐん)を求め、飫肥城を攻撃します。ところが、この陣中(じんちゅう)において援軍に来ていた祐堯が急死してしまったのです。翌17年、後を継(つ)いだ祐国は弟祐邑(すけむら)とともに、ふたたび飫肥城を攻めました。これに対し、島津忠昌が出陣、両軍は楠原(くすばる)(宮崎県日南市)で激突(げきとつ)します。この乱戦(らんせん)のなかで祐国は戦死し、伊東軍は多数の戦死者を出して敗退(はいたい)してしまいます。

後継(こうけい)となった尹祐(ただすけ)が成長すると、島津氏や北郷(ほんごう)氏を攻めたて、日向南部の大半を領地(りょうち)として治めることに成功しました。大永(だいえい)2年(1522)には弟の祐梁(すけむね)・祐武(すけたけ)を派遣し北郷氏の都之城(みやこのじょう)宮崎県都城市)を攻撃(こうげき)させてもいます。さらに翌大永3年には、北原氏と同盟(どうめい)し、自ら北郷氏の支城(しじょう)である野々美谷(ののみだに)城(宮崎県都城市)を攻撃し落城させましたが、その陣中にて亡(な)くなってしまいます。家督(かとく)は子の祐充(すけみつ)が継ぎましたが、幼(おさな)かったため、外戚(がいせき)(母の父)の福永祐炳(ふくなが すけあき)ら福永一族が実権を握ったのです。

福永氏が好き勝手に振舞(ふるま)ったため、伊東家の家臣らが反発すると、落合兼由(おちあいかねよし)ら多くの「若(わか)き衆(しゅう)」までもが弾圧(だんあつ)されました。ちょうどその時、祐充が24歳の若さで病死してしまいます。すると、天文2年(1533)叔父・伊東祐武(すけたけ)が「伊東武州(ぶしゅう)の乱」を起こし、福永祐炳ら福永一族4人を自害に追い込み、都於郡城を占拠してしまったのです。祐充の弟の祐清(すけきよ)(義祐(よしすけ))と祐吉(すけよし)は、財部において叔父・伊東祐武に対抗(たいこう)、家中を二つに分けた御家騒動(おいえそうどう)となります。この時、荒武三省(あらたけさんせい)の活躍(かつやく)もあって、祐武は自害し、義清たちは、都於郡城を奪回(だっかい)することに成功しました。

伊東氏10代当主は、重臣たちの決議により、祐清ではなく弟の祐吉が継ぐことになり、居城(きょじょう)宮崎城(宮崎県宮崎市)としました。天文5年(1536)、祐吉が20歳で病没(びょうぼつ)すると、兄の祐清(義祐)が、佐土原(さどわら)(宮崎県宮崎市)へ入り、伊東家11代当主となりました。佐土原城に入ったのは、本城の都於郡城が焼失していたためですが、翌年にはその佐土原城も火災(かさい)となったため、宮崎城に移っています。翌年、祐清は従四位(じゅしい)下に叙(じょ)せられ将軍(しょうぐん)・足利義晴の偏諱(へんき)(将軍や大名が、功績(こうせき)のあった臣や元服(げんぷく)する者に自分の名の一字を与えることです)を受け「義祐」と改名します。

伊東48城
伊東48城。日向国の戦国大名 伊東義祐、及びその後継である伊東義益の最盛期における、版図内に存在した48の外城及び砦の名数です。義祐が当主である頃は佐土原城を、義益は都於郡城を居城としていました。

永禄(えいろく)10年(1568)、飫肥の島津豊州家(しまづほうしゅうけ)と日向南部の領有(りょうゆう)を巡(めぐ)って抗争(こうそう)し、2万の大軍を率(ひき)いて島津忠親(ただちか)が守る飫肥城を5カ月間包囲(ほうい)し、飫肥城を手に入れるなど島津家を圧倒(あっとう)し、佐土原城を本拠に48の支城(伊東48城)を築(きず)き上げ、日向伊東家の最盛期(さいせいき)を築きました。

元亀(げんき)3年(1572)、相良義陽(さがらよしひ)と連携して加久藤(かくとう)(宮崎県えびの市)を攻めましたが、島津義弘(よしひろ)率いるわずか300の軍勢に、木崎原(きざきばる)の戦いにて敗(やぶれてしまいます。この戦いで、伊東祐安(すけやす)、伊東祐信(すけのぶ)ら5人の大将だけでなく、名だたる伊東家の武将(ぶしょう)が討死(うちじに)し、次第に伊東家は衰退(すいたい)していくことになります。天正4年(1576)の高原(たかはる)(宮崎県高原町)の降伏(こうふくに始まり、小林城須木(すき)三ツ山城野首(のくび)、岩牟礼(いわむれ)城(以上、宮崎県小林市)などが島津家に降伏しました。さらに、日向北部からは土持親成(つちもちちかしげ)が侵攻したため、伊東家は北と南から挟(はさ)み撃ちされてしまいます。

この苦境(くきょう)に際(さい)し、義祐は、家督を嫡孫(ちゃくそん)である伊東義賢(よしかた)に譲りましたが、野尻(のじり)(宮崎県小林市)主・福永氏が島津家に寝返(ねがえ)り、野村文綱(のむらふみつな)、米良主税助(めらちからのすけ)も離反(りはん)したため、佐土原城に戻(もど)り対応策(たいおうさく)を協議しました。伊東氏は、佐土原城を捨(す)てて、次男・義益(よします)の正室である阿喜多(あきた)の叔父(おじ)・大友宗麟(そうりん)を頼(たよ)って逃亡(とうぼう)することを決めました。この出来事を豊後落ち・伊東崩(くず)れとも呼(よ)んでいます。豊後に入った伊東義祐は大友宗麟に支援(しえん)を要請(ようせい)し、天正6年(1578)高城付近にて、島津氏と戦いますが、大友氏は惨敗(ざんぱい)し、宗麟は単身で豊後へと逃走し、島津家は薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)・日向の支配を確固(かっこ)たるものとします。この戦いを「耳川の戦い」と言います。

都於郡城縄張図
『西都市埋蔵文化財発掘調査書』2015年(西都市教育委員会提供)都於郡城縄張図を一部加工。南九州に良く見られる、曲輪と曲輪の間に巨大な空堀を配して、各曲輪間の独立性が保たれています。曲輪は、東西方向に並び、西側は、小曲輪が連続しますが、東は巨大な曲輪が南北方向に配置されていました

伊東氏の本拠・都於郡城

建武2年(1335)、日向に下向した伊東本宗家の祐持(すけもち)が築城。当初は、地元に住む力をつけた武士(ぶし)の城でしかありませんでしたが、2代祐重(すけしげ)が大改修(かいしゅう)を実施(じっし)し、様子をすっかり改めました。その後、何度か焼失を繰(く)り返しますが、伊東氏の勢力拡張(かくちょう)に伴(ともな)い、城は順次規模(きぼ)などを広げて大きくされ、佐土原城と共に本城として栄えました。

天正5年(1577)、義祐は薩摩の島津義久との戦いに敗れ豊後に脱出(だっしゅつ)したため、城は島津氏の領有する所となり、島津家臣の鎌田政親(かまたまさちか)が入城します。天正15年(1587)、豊臣秀吉による九州攻めにより、島津家久が佐土原城に入城し、都於郡城もその領有下となりましたが、元和元年(1615)幕府(ばくふ)の一国一城令により廃城(はいじょう)となっています。

都於郡城、堀切
本丸と二ノ丸間の堀切。幅約30m、深さ10m以上、長さ約100mと巨大な空堀です

城は、急峻(きゅうしゅん)な崖(がけ)地形に囲(かこ)まれた標高約100mの台地上に位置し、北から西を流れる三財川(さんざいがわ)が天然の堀(ほり)の役目を果たし、河川(かせん)が形成する沼地(ぬまち)が周囲に広がる守りに有利な地でした。そのため、遠くから見ると、まるで船が浮(う)いているように見えたため「浮舟(うきふね)城」とも呼ばれていました。また、城外に存在するなだらかな起伏(きふく)の小山(丘)を利用し、南ノ城、中尾城、東ノ城、日隠(ひがくれ)城などの支城群(ぐん)が取り囲み、守りを固めていたのです。

都於郡城、二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸
二ノ丸より西側を望む。手前が三ノ丸、奥が西ノ丸になります。高低差が良く解(わか)ります

本丸を東端(はし)に置き、ここから西に向かって二ノ丸・三ノ丸が並列(へいれつ)し、本丸北側に奥ノ城、三ノ丸南側に西ノ城という5つの曲輪(くるわ)で構成、各曲輪が深い空堀(からぼり)によって仕切られ独立(どくりつ)している点が大きな特徴(とくちょう)です。

周囲を土塁(どるい)が取り囲む本丸は、段差(だんさ)を設(もう)け南北に曲輪を分割(ぶんかつ)し、虎口(こぐち)を厳重(げんじゅう)な構(かま)えとしています。一部発掘調査(はっくつちょうさ)が実施(じっし)され、16世紀前半頃の中国製(せい)陶磁器(とうじき)類が多数出土し、義祐が飫肥方面まで勢力を拡張し、海外貿易(ぼうえき)を行っていた証(あかし)とされています。

空堀を挟んで西に位置する二ノ丸は、本丸同様土塁囲みであったと考えられていますが、現況(げんきょう)は北側から東側にかけてのみ残存(ざんぞん)するだけです。本丸より一段高く、しかも城域(じょういき)の中心に位置することから、戦略(せんりゃく)上の拠点(きょてん)的な意味合いを持つ曲輪であり、5曲輪中、最初に中枢(ちゅうすう)部として築かれたことが想定されます。南下段に腰(こし)曲輪状の小曲輪が付設(ふせつ)し、ここに虎口を設け前面を固めていました。

都於郡城、三ノ丸、西ノ城、小曲輪、三ノ丸
三ノ丸への通路。手前左が西ノ城、右に小曲輪、正面が三ノ丸、見事な切岸(きりぎし)が広がる

台地西端には、北に三ノ丸、南に西ノ城が配されています。三ノ丸南に小曲輪、西ノ城の東下と南下にも小曲輪が見られます。両曲輪の山麓(さんろく)を三財川が流れ、眺望(ちょうぼう)が開けるため、物見(ものみ)機能(きのう)や狼煙(のろし)施設(しせつ)が推定(すいてい)されています。

本丸の北方空堀を挟んで配されていた奥ノ城は、城主一族の奥(おく)向き(普段(ふだん)生活する場所です)の施設が置かれた曲輪で、南側土塁中央部を開口させ、内部に一文字土居(いちもんじどい)(真っすぐ進むことを防(ふせ)ぐために、入り口の前や後ろに造(つく)られ、内部の様子を見えにくくして遮(さえぎ)る役目を持つ土塁のことです)を設けた虎口跡が残ります。天正5年の落城の際(さい)には、ここから豊後方面へ落ちのびたと伝わります。その中には、年端(としは)も行かない伊東マンショも加わっていたのです。

都於郡城、西ノ城、小曲輪
西ノ城の南端の小曲輪(左)の先端の下にさらに小さな曲輪が設けられています。西の城北東部の切岸(右)大部分の曲輪が、急角度の切岸によって守られています。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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