理文先生のお城がっこう 歴史編 第37回 九州の城3(島津氏と館造りの城)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは「九州の城」の3回目。鎌倉時代から江戸時代まで南九州を支配した島津氏がどのように勢力を拡大していったかを、彼らが拠点とした城の特徴に注目しながら見ていきましょう。

▼「九州の城」第1回・第2回の記事はこちら
・歴史編 第35回 九州の城1(大友氏と臼杵(うすき)城)
・歴史編 第36回 九州の城2(伊東氏と都於郡(とのこおり)城)

元暦(げんりゃく)2年(1185)、島津(しまづ)氏は源頼朝(みなもとのよりとも)から我(わ)が国最大の荘園(しょうえん)である島津荘の地頭職(じとうしょく)に任命(にんめい)されました。その時、島津忠久(ただひさ)はわずか6歳でした。島津荘は、元は近衛(このえ)家の荘園で、日向(ひゅうが)国(現在の宮崎県です)の中南部から大隅(おおすみ)国・薩摩(さつま)国(現在の鹿児島県です)の3カ国にまたがっていました。忠久は、その後、薩摩・大隅・日向の守護(しゅご)職だけでなく、越前(えちぜん)(現在の福井県です)の守護も追加されています。

島津氏は、幕府の有力な御家人(ごけにん)でしたので、当主は鎌倉(かまくら)に住んで将軍家(しょうぐんけ)に仕え、荘園には一族や家来を派遣(はけん)して、地方のことをまかせていました。室町時代後期に入ると、島津氏の一族や、力を付けて来た現地(げんち)の有力者たちが、領地(りょうち)をめぐって争いを繰(く)り返し、薩摩大隅守護の島津家が、衰(おとろ)え始めました。やがて、一族の中から伊作家(いざくけ)(島津氏の分家で、伊作荘を支配していました)の伊作忠良(ただよし)薩州家(さっしゅうけ)(8代当主島津久豊(ひさとよ)の次男の島津用久(もちひさ)(好久)よりはじまった分家です)の島津実久(さねひさ)が勢(いきお)いを増(ま)してきて、他家をしのいで、その上に立つようになったのです。

戦国時代の南九州地図
天正元年(1573)頃の南九州の有力国人衆と支配地の状況です

戦国時代の島津氏

島津氏中興(ちゅうこう)の祖(そ)と言われる伊作忠良の嫡男(ちゃくなん)・貴久(たかひさ)は、14代島津勝久(かつひさ)の養子に入って、15代当主になりました。天文(てんぶん)19年(1550)、伊集院(いじゅういん)(鹿児島県日置市)から鹿児島へと移(うつ)りますが、守護所の清水城(鹿児島県鹿児島市)ではなく、内城(うちじょう)(鹿児島県鹿児島市)を築(きず)いて本城としました。同21年、歴代の島津氏本宗家(ほんそうけ)(一門の中心となる正統(せいとう)な家筋(いえすじ)のことです)の当主が代々任官(にんかん)されていた修理大夫(しゅりのだいぶ)に貴久が任じられました。

さらに、嫡男の忠良(ただよし)に将軍足利義輝(あしかがよしてる)から偏諱(へんき)(名前の一字を授(さず)けられることです)を授けられて「義辰(よしたつ)」(後に「義久(よしひさ)」と再改名しています)と名乗らせたのです。これによって、薩州家を除く島津氏一門・庶家(しょけ)(本家から分かれた一族のことです)から守護・貴久を中心に「一味同心(いちみどうしん)(同じ目的をもって集まり、心を一つにすることです)することを誓って約束した起請文(きしょうもん)(約束を破(やぶ)らないように神仏(しんぶつ)に誓(ちか)った文書です)が作成され、名実ともに守護として認(みと)められることになったのです。

永禄(えいろく)9年(1566)、16代当主となった義久は、薩摩、大隅を統一し、天正4年(1576)日向国の伊東氏を追い落とし、三州(薩摩・大隅・日向三ヵ国のことです)統一(とういつ)を達成しました。同6年の耳川の戦いでは、得意(とくい)の「釣野伏せ(つりのぶせ)(囮(おとり)部隊を使って、敵(てき)をおびき寄(よ)せ、取り囲(かこ)んで壊滅(かいめつ)させる戦法です)という戦法を用い、大友氏に壊滅的な打撃(だげき)を与(あた)えました。大友氏が島津氏に敗れると、大友宗麟(そうりん)が守護を務(つと)める肥後(ひご)国の各和(かくわ)氏と城(じょう)氏が、親しい関係を結ぼうと島津氏に働きかけてきました。

義久は、肥後国を支配下(しはいか)に置くために、まず天草(あまくさ)半島に根を張(は)天草五人衆(あまくさごにんしゅう)(大矢野(おおやの)を治める大矢野氏、有明(ありあけ)の上津浦(こうつうら)氏、栖本(すもと)の栖本氏、苓北(れいほく)の志岐(しき)氏、そして河浦(かわうら)・本渡(ほんど)の天草氏です)を従(したが)えると、宇土(うと)半島の阿蘇(あそ)氏の勢力を追い払(はら)い、各和・原の両氏を助けるための道を確保(かくほ)し、北上するための足掛(が)かりを築いたのです。さらに、同9年、人吉(ひとよし)の相良(さがら)氏を配下に治めました。

大友氏が急速に力を失うと、それに乗じて肥前(ひぜん)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が周辺諸国(しょこく)を支配下に置きます。筑前(ちくぜん)、築後(ちくご)、肥後、豊前(ぶぜん)などを勢力下としたのです。しかし、天正12年(1584)の沖田畷(おきたなわて)の戦いにおいて、島津氏は龍造寺氏も打ち破(やぶ)り、九州最大の戦国大名となったのです。義久は、3人の弟(義弘(よしひろ)・歳久(としひさ)・家久(いえひさ))や優秀(ゆうしゅう)な家臣団(だん)に恵(めぐ)まれ、彼らを巧(たく)みに使いこなすことで、九州最大版図(はんと)を持つ勢力になったのです。同13年、阿蘇合戦で阿蘇惟光(これみつ)を破り、肥後を平定すると、義弘を肥後守護代としました。

その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から「惣無事令(そうぶじれい)(大名の間で、個人的な争(あらそ)いを禁じた法令です)が届けられます。島津氏は、家中で対応(たいおう)を話し合いましたが、義久はこれを無視(むし)し、筑前侵攻(しんこう)を開始します。島津軍は、仙石秀久(せんごくひでひさ)を軍監(ぐんかん)とする豊臣連合軍との前哨戦(ぜんしょうせん)、戸次川(へつぎがわ)の戦い等で勝利します。その後、豊臣軍本体の九州上陸を知った豊後(ぶんご)の義弘・家久らは、やむをえず陣(じん)をひくしかなく、大友軍に追い立てられながら退却(たいきゃく)しました。

豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆(こくじんしゅう)(地方で力を持っていた有力者たちです)は一部を除いて、次々と豊臣方に降伏(こうふく)していきました。25万以上もの大兵力を擁(よう)す豊臣連合軍に対し、当初抵抗(ていこう)しますが、主力決戦となった根白坂(ねじろざか)の戦いで完敗してしまいます。島津本領へ豊臣本軍が近づくと、秀吉が信任する高野山の僧(そう)・木食応其(もくじきおうご)の仲介(ちゅうかい)のもと降伏しています。本領である薩摩・大隅2カ国・日向諸県郡は近衛前久(このえさきふさ)の仲介や交渉(こうしょう)の結果、全領安堵(あんど)されることになりました。

島津氏の北上作戦
島津氏の北上作戦。島津四兄弟を巧みに配置し九州支配をめざしました

島津氏の城

島津氏が、戦国大名の基礎(きそ)を築き上げた元久から貴久まで約170年の間居城(きょじょう)としたのが清水城です。天文19年(1550)、貴久はその居城を内城へと移すことになります。これは、山中の清水城から、より交通の利便性の高い地を求めた結果でした。内城に居を移した島津氏は、義久・義弘の代で北部地域(ちいき)を除(のぞ)く九州全域を支配下とする程(ほど)の戦国大名に成長したのです。

清水城は、南九州特有の火山灰(かざんばい)台地である吉野台地が低く南へ延(の)びる標高約50~60mの丘陵(きゅうりょう)の端(はし)に位置していました。城は、標高約128mの山上詰城(つめじろ)部分と、普段(ふだん)生活する山麓(さんろく)の居館(きょかん)部から成る二元構造(にげんこうぞう)の城でした。

山城部分は、東側を流れる稲荷川(いなりがわ)が形成した急斜面の段丘崖(だんきゅうがい)地形、西側の皷川(つつみがわ)の広い谷を利用し、北から西にかけて堀切(ほりきり)(空堀)を設(もう)け遮断(しゃだん)していたようですが、後世の改変が著(いちじる)しくはっきりとは解(わか)りません。おそらく、自然地形を巧(たく)みに取り入れた天然の要害(ようがい)であったと思われます。山麓の居館部には、正面12間(約21m)の御主殿(ごしゅでん)や厩(うまや)などの建物が建っていたと記録されています。内城へと居城が移ると、屋形跡(あと)には大乗院(だいじょういん)が建てられましたが、明治2年(1869)廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(仏教を排除(はいじょ)するために、お寺などが壊(こわ)された運動です)で廃寺(はいじ)になりました。現在は、清水中学校の用地です。

清水城
清水城の山上部の主郭部分(左)と堀切(右)の状況です。山上部は、遺構が見られますが、山麓居館部は学校用地となり、城郭遺構は見られません

新しく居城が移された内城は、清水城から500mほど西南よりの場所で、後の鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)の東北の地で、標高は10mほどでした。内城の規模(きぼ)や形状(けいじょう)を示す直接的(ちょくせつてき)な資料(しりょう)は残されていません。簡素(かんそ)な造(つく)りの方形館(ほうけいかん)(室町時代から伝統的に築かれた堀に囲まれた四角形の館です)と考えられています。海岸線近くに出てきたことで、城下町を広く取ること出来ると共に、交通の利便性もあがったのです。万が一に際しては、清水城の時から使っていた錦江湾(きんこうわん)を見下ろす標高58.9mの東福寺(とうふくじ)城(鹿児島県鹿児島市)を詰城として利用する体制だったようです。

慶長7年(1602)、秀吉から後継(こうけい)に指名された忠恒(ただつね)の命により、内城から鹿児島城に本城が移されます。内城の跡には、島津貴久と義久の菩提寺(ぼだいじ)(位牌(いはい)を納め、お墓(はか)を建ててあるお寺のことです)である天龍寺(てんりゅうじ)が建てられました。この寺も、明治2年の廃仏毀釈により廃寺となり、後に大龍小学校となり、城の遺構(いこう)は完全に破壊されてしまいました。

内城
現在の内城は、大龍小学校となり、城郭遺構は見られません。校庭に内城時代からのものとされる手水鉢(ちょうずばち)と庭石が残されているだけです

このように島津氏の城は、防御(ぼうぎょ)機能(きのう)に優(すぐ)れた城ではなく、平時の居館と詰の山城を持つ、二元構造の城だったのです。それは、江戸期の鹿児島城にも引き継(つ)がれました。城山を背後(はいご)に、三方を石垣と水堀で囲い込(こ)んだ城は、パーツこそ近世城郭の物を持ち込んでいましたが、構造は中世以来の伝統的館造りだったのです。

清水城、内城、鹿児島城
清水城、内城、鹿児島城と、島津氏の居城は常に錦江湾と桜島を望む地が選択(せんたく)され続けました

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※詰城(つめじろ)
戦闘(せんとう)が起こった時の対応のために、館(居館)の背後や近くの山上などに築かれた臨時的(りんじてき)な城のことです。戦闘が起こった時は、最後の防衛(ぼうえい)拠点(きょてん)になる城です。

二元構造(にげんこうぞう)の城
普段生活する山麓の「居館(きょかん)」部と、いざ戦闘の時に備(そな)えた山上の「詰城(つめじろ)」部との二つの部分に分かれている構造の城のことです。

※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋(おねすじ)や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮(さえぎ)って止めるために設けられた空堀のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士(どうし)の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

※方形館(ほうけいかん)
中世以降(いこう)、武士が日常生活をする場所で、支配する土地の中心となった、四角形(方形)を基本(きほん)とした館のことです。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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