理文先生のお城がっこう 歴史編 第38回 織田信秀の居城移転1

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。今回のテーマは織田信長の父・織田信秀。信長は拠点とする城を次々移したことでも知られていますが、その影響を与えたと思われる信秀の居城移転について見ていきましょう。

「尾張(おわり)の虎(とら)」と呼(よ)ばれ、主君(しゅくん)をしのいでその上に出るまでに成長した織田信秀(おだのぶひで)は、信長の父として有名ですが、戦国大名としても大きな成果をあげています。信長が、清洲(きよす)(愛知県清須市)から小牧山(こまきやま)(愛知県小牧市)、岐阜(ぎふ)(岐阜県岐阜市)、そして安土(あづち)(滋賀県近江八幡市)へと、その支配(しはい)する領地(りょうち)が増(ふ)えていくことに伴(ともな)って、居城(きょじょう)(領主が拠点(きょてん)とした城です)の場所を移(うつ)したことが知られています。この居城を移すことは、信長の父である信秀も行っているのです。今回は、嫡男(ちゃくなん)(正室(正妻)の産んだ男子のうちの最も年長の子供のことです)である信長に大きな影響を与えたと思われる、信秀の居城移転(いてん)についてまとめます。

織田信秀の生涯

信秀は、尾張国の勝幡(しょばた)(愛知県愛西市・稲沢市)主で、清洲三奉行(ぶぎょう)(領内に住む人々が、安心して暮(く)らしていくにはどうすればいいか考え、それを実行するための組織です)の一人の織田信定(のぶさだ)の長男として、永正8年(1511)に生まれました。信秀の父の信定は、尾張の守護代(しゅごだい)(守護の下に置かれた事務(じむ)を行う役職(やくしょく)役職です)織田氏の一族で、尾張下四郡(海東・海西・愛知・知多)を治めていた守護代「織田大和守(やまとのかみ)家」(清洲織田氏)に仕える織田氏の庶流(しょりゅう)(本家より分かれた一族のことです)で、大和守家の重臣(じゅうしん)の「清洲三奉行」の一人で、弾正忠(だんじょうのちゅう)(弾正台(だんじょうだい)といい、昔の警察(けいさつ)のような部署の役職の一つです)を称した織田家の当主でした。信定は、伊勢湾(いせわん)に近い木曽(きそ)川に臨(のぞ)む港と牛頭天王(ごずてんのう)社(津島神社)の門前町(もんぜんまち)(有力な寺院・神社の周辺に形成された町のことです)として繁栄(はんえい)していた津島(つしま)を支配していました。

津島神社楼門
津島神社楼門(ろうもん)(後方が拝殿(はいでん))。三間一戸の楼門で、天正19年(1591)豊臣秀吉が寄進(きしん)し、重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定されています。創建(そうけん)時の社名は「津島社」でしたが、神仏習合(しんぶつしゅうごう)(えいきょう)により、「牛頭天王」に御祭神を改めたことにより江戸時代までは「津島牛頭天王社」と呼ばれていました

家督(かとく)(居城や所領などを含め、家を継(つ)いだ人のことです)を相続した信秀は、天文元年(1532)、今川氏豊(いまがわうじとよ)の那古野(なごや)城(現在(げんざい)名古屋城の二ノ丸あたりを中心にした城とされています)を謀略(ぼうりゃく)(人をあざむくはかりごとのことです)で奪(うば)い、勝幡城から居城を移しました。同9年には安祥(あんしょう)(愛知県安城市)を攻(せ)め取り、同11年の第一次小豆坂(あずきざか)の戦いで、今川軍に勝利し、西三河(みかわ)の権利(けんり)と利益(りえき)を保(たも)ち続けたと言われます。

安祥城跡
安祥城跡に残る石碑。寛政4年(1792)以降、大乗寺(了雲院)境内となっていますが、昭和63年(1988)から発掘調査が数度実施され、境内地下に戦国時代の遺構の残っていることが確認されています。二の丸跡は八幡社の境内で、大乗寺の裏手あたりが三の丸になります

同年、美濃(みの)守護・土岐頼芸(ときよりよし)と子の頼次(よりつぐ)が守護代の斎藤利政(さいとうとしまさ)(道三(どうさん))によって尾張国へ追い払われると、越前(えちぜん)の朝倉孝景(たかかげ)と連絡(れんらく)を取り合い協力して美濃へと攻め込(こ)み、一時は大垣(おおがき)(岐阜県大垣市)を奪い取っています。同13年、稲葉山城下まで攻め込みますが、利政に攻め返され大敗します(加納口(かのうぐち)の戦い)。同16年には、岡崎(おかざき)(愛知県岡崎市)を攻め落とし、松平広忠(まつだいらひろただ)を降伏(こうふく)させましたが、翌17年の第2次小豆坂の戦いで、今川方の太原雪斎(たいげんせっさい)に敗れました。今川・斎藤両氏だけでなく、守護代大和守家とも争うようになると、斎藤氏とは和睦(わぼく)(争いをやめて、仲良くすることです)することを選び、嫡男・信長と利政の娘・帰蝶(きちょう)(濃姫(のうひめ))との婚姻(こんいん)が決まりました。

天文18年(1549)、今川方は織田方の西三河支配の拠点・安祥(あんしょう)(愛知県安城市)を取り戻(もど)すことに成功し、織田信広(のぶひろ)を捕(と)らえました。これにより、松平広忠の嫡男竹千代(たけちよ)(後の徳川家康)との人質(ひとじち)交換(こうかん)が行われ、信秀は西三河を失ったのです。この頃から、病気になって寝(ね)ているようになり、知多郡の水野家、愛知郡の鳴海(なるみ)愛知県名古屋市)が今川方となっていきます。織田方の勢(いきお)いや力の衰え(おとろ)が見え始めた天文21年(18年、20年説もあります)、信秀は末森(すえもり)愛知県名古屋市)で死去します。享年(きょうねん)(故人(こじん)の年齢(ねんれい)を表すものです)42歳(さい)で、葬儀(そうぎ)は萬松寺(ばんしょうじ)で行われました。

亀嶽林萬松寺、織田信秀、墓碑
名古屋市の繁華街(はんかがい)大須(おおす)にある亀嶽林(きがくりん)萬松寺境内に、織田信秀の墓碑(ぼひ)が建立(こんりゅう)されていましたが、老朽化(ろうきゅうか)した諸堂(しょどう)を建て直すため、平成27年(2015)に撤去(てっきょ)されました。同30年に、新しい信秀の墓碑が作られました。写真は、撤去される前の供養塔(くようとう)になります

信秀と都との関係

信秀は、家督を継いだ直後の天文元年(1532)、主君である織田達勝(みちかつ)や、同じ身分の三奉行の一人にあたる小田井(おたい)(愛知県清須市)の織田藤左衛門(とうざえもん)(寛故(とおもと))と争いました。その講和(こうわ)(争いをやめて、仲良くすることです)にあたり、翌年に蹴鞠(けまり)(鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技です)の名手で代々蹴鞠をお家芸とする公家の飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)を招いて、勝幡城で蹴鞠会を開き、さらには清洲城でも連日蹴鞠会を行いました。この時の客人の一人、身分の高い公家の山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』にその様子が記されています。

勝幡城復元図
勝幡城の推定位置(稲沢市観光協会提供)。広々とした「本丸」の庭で蹴鞠が数日間にわたって行われたのでしょうか

また、様々な献金(けんきん)寄付(きふ)行為(お金を無償(むしょう)で提供(ていきょう)することです)を行っています。天文9年(1540)から翌年にかけ、伊勢(いせ)神宮遷宮(せんぐう)(新しい本殿(ほんでん)を造り、神体を移(うつ)すことです)のため、材木、銭(ぜに)700貫文(かんもん)(現在のお金に直すと6千万円くらいです)を献上(けんじょう)(無償で納(おさ)めることです)。同12年、朝廷(ちょうてい)に対し「内裏築地(だいりついじ)修理(しゅうり)料」として4,000貫文(約3億円です)を献上。同16年、禅居庵(ぜんきょあん)摩利支天(まりしてん)堂(建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)寺院)を再建するなどして、朝廷より従五位下(じゅごいのげ)(この位からが貴族(きぞく)になります)に叙位(じょい)(位を受けることです)され、備後守(びんごのかみ)任官(にんかん)(官職に就(つ)くことです)されました。信秀は、守護代織田家の奉行でしたが、朝廷との繋(つな)がりによって、地位や権威(けんい)は主家やその主君である尾張守護の斯波(しば)氏をも上回っていたのです。

なぜ、信秀は、このような多額(たがく)の献金が可能(かのう)だったのでしょうか。それは、門前町である津島の地を治めていたからです。牛頭天王社(津島神社)の参拝(さんぱい)客を相手に様々な商人が集まり、それを聞きつけた人々が訪(おとず)れ、さらなる評判(ひょうばん)となっていました。また、津島の地は、河川(かせん)交通に恵(めぐ)まれ水運の拠点(きょてん)ともなっていたのです。これに併(あわ)せ、熱田という熱田神宮の門前町まで手に入れた信秀は、さらなる財源(ざいげん)を得(え)たのです。

熱田神宮
熱田神宮の拝殿(はいでん)と本殿。名古屋市南部の熱田大地の南端(なんたん)に位置する神社で、古くは伊勢湾に突出(とっしゅつ)した岬(みさき)上に位置していました。そのため、水陸交通の要衝(ようしょう)として栄え、多くの参拝者で賑(にぎ)わっていました。三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祭られています

今日ならったお城の用語

居城(きょじょう)
領主が日常(にちじょう)住んでいる城のことです。または、領主が、拠点(本拠)とするために築(きず)いた城のことです。本城(ほんじょう)と呼ばれることもあります。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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