空襲・沖縄戦・原爆投下ー太平洋戦争で日本の城はどんな被害を受けたのか

今年も8月15日の終戦記念日が近づいてきました。78年前の太平洋戦争末期、アメリカ軍による空爆によって日本国内でも多くの人命が失われ、また文化財も大きな被害を受けました。天守などお城の建造物も……。太平洋戦争で城郭はどのような戦災を受けたのでしょうか、人々は空襲にどう立ち向かったのでしょうか。 

すべての建造物が倒壊した広島城コピー禁止
原子爆弾により、天守を含むほぼすべての建造物が倒壊した広島城(米軍撮影/広島平和記念資料館提供)

焼夷弾により7つの旧国宝天守が焼失

日本人にとって、夏は歴史を振り返る季節でもある。家族らと語らい、地元の行事に参加し、わずか77年前にあった愚行と悲劇に思いを馳せる。しばし目をつむり、鎮魂と内省の思いを胸に刻む時間である。

太平洋戦争末期の1944年11月以降、アメリカ軍による国内都市部への空襲が本格化し、死者は約56万人、負傷者は約30万人に達した。爆撃の対象となった市町村は800以上に及び、都市機能は失われ、建造物は多大な被害を受けた。その中には、城も含まれる。

日本の近代都市は、江戸時代に藩の政庁が置かれていた街がほとんどである。藩の政庁とは、つまり城のこと。都市が空襲を受けるにあたり、城が被害にあうのは避けがたいことであった。また、明治以降、地方の巨大城郭には軍隊が入り、司令部が置かれていたことも空爆を受けた理由の一つとなる。大阪城(大阪府)や広島城(広島県)、仙台城(宮城県)がそうであった。

空襲の被害としてよく語られるのは、やはり城のシンボルである天守であろう。水戸城(茨城県)、名古屋城(愛知県)、大垣城(岐阜県)、和歌山城(和歌山県)、岡山城(岡山県)、福山城広島城(ともに広島県)の天守が、空襲により焼失・倒壊している。これら7つの天守は、すべて戦前の旧国宝に指定された建物であった。

徳川御三家の居城、水戸城、天守、御三階櫓
徳川御三家の居城・水戸城のシンボルであった天守(御三階櫓)。8月2日未明の空襲で焼失。戦後復元されることもなかった(絵葉書より/水戸市立博物館提供)

岡山城天守
岡山城天守の古写真。城内には天守のほか、県立中学校が建てられていたが、6月29日の空襲でことごとく灰燼に帰した。天守は戦後、1966年に復興(岡山市立中央図書館提供)

このうち、名古屋城は折からの空爆の激しさにより、天守に載る金鯱の疎開措置が取られており、最上階に足場を組んで南方の金鯱は天守内に下ろされていた。しかし、5月14日の空襲ではこの足場に焼夷弾が直撃し、その衝撃で窓が開き、窓から火の粉が飛びこんで炎上の原因になったとされる。この日の空爆では、144面の障壁画とともに、やはり旧国宝に指定されていた本丸御殿も全焼している。

名古屋城天守
炎上する名古屋城天守。天守は銅瓦葺であり、焼夷弾に対しても防火効果があったはずだが、窓から火の粉が入ったことで火の手が広がってしまった(岩田一郎撮影/名古屋空襲を記録する会提供)

天守ではないが、旧国宝の建造物としては仙台城(宮城県)の大手門と隅櫓、伊予松山城の天神櫓など11棟、宇和島城の追手門なども被災した。アメリカ軍の空爆には、発火性のある薬剤を入れた焼夷弾が用いられていた。多くの木造建造物が焼失したのは、この焼夷弾の使用が大きな要因であった。

全壊となった首里城と広島城

被災した城の中でも、全壊といえるほどの被害を受けたのが首里城と広島城である。

首里城は空爆ではなく、戦艦からの艦砲射撃によって壊滅した。1945年3月、南洋諸島や硫黄島で日本軍を破り、日本本土に迫っていたアメリカ軍は次の標的を沖縄に定める。日本軍は首里城に地下壕を築き、これを司令部として上陸してきたアメリカ軍に反抗。それに対し、アメリカは5月25日から3日間にわたり、軍艦ミシシッピをはじめとする戦艦からの砲撃を開始。首里城攻撃を含むこのときの艦砲射撃は、「鉄の暴風」と表現されるほど凄まじいもので、首里城は正殿や守礼門をはじめほぼすべての建物・城門が破壊され、わずかな石垣が残るのみとなった。同時に、歴代琉球国王の肖像画をはじめ、貴重な宝物・歴史資料も失われてしまった。

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沖縄戦で徹底的に破壊された首里城。守礼門や瑞泉門などが旧国宝指定を受けていたが、すべて灰燼に帰した(沖縄県公文書館所蔵)

20万人近い犠牲者を出した沖縄戦が終結したのが6月下旬。その後、本土への空襲はさらに激しさを増した。そして、8月6日を迎える。

この日、広島の天候は薄曇りであった。労働者や挺身隊らが仕事に着手しはじめた8時15分、原子爆弾が広島に落とされる。原爆の投下目標は、広島城から900m程度しか離れていない相生橋だった。広島城内には江戸時代以降の現存建造物や近代以降の軍事施設などが建っていたが、爆風によってことごとく倒壊。天守は低層階の柱が壊れたことにより、自重に絶えきれずに崩れ落ちた。城内の建造物はすべて失われ、まったくの更地となったのである。

倒壊した広島城天守コピー禁止
倒壊した広島城天守。部材は発火することなく、住民らの建材として持ち去られた(林重男撮影/広島平和記念資料館提供)

太平洋戦争で失われた多くの天守は焼夷弾によって焼失したのに対し、広島城天守は倒壊こそしたが、炎上は免れた。その部材は周辺の住民らによって持ち去られ、バラックの建材になるなど、復興の一助になったのである。

城を守る住民たちの努力

このように、アメリカ軍の爆撃によって日本中の城に被害がでたが、地元の住民たちは手をこまねき、城を放置していたわけではない。

現在は世界遺産にも登録されている姫路城(兵庫県)は、姫路に軍事工場が置かれていたことから、空爆の対象になることは明らかだった。そこで、空から見えにくくするための偽装網(わら縄で編んだ黒い網)をつくり、建造物を覆い隠したのである。7月3日の姫路空襲では城も爆撃を受けたが、大天守や西の丸に着弾した焼夷弾はことごとく不発に終わり、建造物は奇跡的に無事であった。姫路空襲は市街地の40%が焼失するほどの大災害だったが、焼土の中、空襲を耐えしのいだ姫路城天守を見て、多くの市民が涙したという。

高層建造物である天守はただでさえ目につきやすいが、特に白漆喰が存在感を際立たせている。そこで白漆喰を黒く塗り、目立たなくするという処置が多くの城でとられたようだ。福山城松本城(長野県)などで天守を黒く塗る作業が行われたと伝わる。戦中・戦後の混乱の中で、どの城がどのような対策をしたのか、具体的な記録が残る例は少ないのだが、市民らが城を守るためにさまざまな努力をしたのは確かである。

松本城天守
漆黒の下板見張が特徴的な松本城天守。戦時中、白漆喰の部分を黒く塗ったという伝承があるが、史実かどうか定かではない

姫路城の例もそうだが、現存天守の中には幸運により被災を免れた城もある。例えば、高知では7月4日未明に夜間爆撃が行われ、内曲輪内で火災が発生するも、本丸に建つ現存の天守と御殿は無傷で残った。また、現在の国宝天守を抱く彦根城は、8月15日に空爆が予定されていたが、その前日に日本はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏が決定したため、この日の爆撃は中止されている。

以上見てきたように、太平洋戦争は庶民に塗炭の苦しみを与え、城にも大きな被害をもたらした。戦後、復興が進み人々の生活に落ち着きが見え始めると、天守の復興運動が各地に起こる。先に取り上げた焼失した旧国宝の天守7城のうち、水戸城を除く天守は次々に復元天守が築かれ、戦後復興のシンボルとなってきた。

広島城天守
1958年に外観復元された広島城天守。戦後すぐには、城跡を埋め立てて再開発するという議論もあったが、復興を求める市民の声が高まり、天守再建が決定した

城の歴史というと、戦国時代と江戸時代の出来事が中心に語られがちである。それは城が城としての機能を果たしていた時代であり、当然のことなのであるが、明治以降も城は地域の歴史とともに歩みを進めている。特に、太平洋戦争とその後の復興は、日本城郭史においても一つの契機となった。この機会に、地域の城が近現代にどういう歴史をたどったのか、思いを馳せてみるのもよいのではないだろうか。

執筆・写真/かみゆ歴史編集部(滝沢弘康)<お城情報WEBメディア「城びと」>
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。城関連の主な編集制作物に『超入門「山城」の見方・歩き方』(洋泉社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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