超入門! お城セミナー 第130回【歴史】お台場がお城だったって本当?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回は台場について。都内で人気の観光地「お台場」は、じつは江戸を守る“お城がルーツ。「台場」とはどんな防御施設で、いつ、どのような経緯で造られたのかを解説していきます!

お台場
テレビ局や科学館、商業施設などが建ち並ぶ、東京でも屈指の人気観光スポットお台場。この写真にじつは〝お城〟が映っているのだが、どこかわかるかな?(まちゃー/PIXTA)

ここも城なの!?海に浮かぶ品川台場

東京港の広大な埋立地・臨海副都心のなかで、斬新でシャレた建物が立ち並び、デートや観光ではずせないエリアとなっている「お台場」。このおなじみのエリア名は、ここがもともとは江戸の町を守る重要な城だったことに由来しています。城といっても天守や御殿があったわけではなく、「軍事的防御施設」という広義の意味の城(第14回【歴史】居館や台場もお城なの?を参照)。ここにはその名の通り「台場」がありました。

台場とは、幕末に沿岸警備のために築かれた砲台のこと。国の史跡である「品川台場」(東京都)は、キラキラした遊び場としてのお台場エリアから海の方を見やると目に入る、陸続きの「第三台場(台場公園)」と、その先に浮かぶ島「第六台場」のこと。いつしか「お」が付いて「お台場」と呼び習わされるようになったのは、台場がお上(公権力)の施設だったからでしょう。

幕末の日本沿岸部には、約800もの台場が築かれたといいます。泰平の世を謳歌していたはずの日本に、これほど多くの台場が築かれることになったきっかけは、やはり嘉永6年(1853)のペリー来航です。江戸湾(東京湾)の入口である浦賀沖に、突如4隻の巨大な黒船が現れたことで、江戸は上を下への大騒ぎ。ペリー艦隊の船の大きさは、当時日本最大級だった千石船の、なんと約30倍だったといいますから、外国の圧力をドーンと目の当たりにしたことによるショックは大変なものだったでしょう。『太平の 眠りをさます 上喜撰(じょうきせん) たった四はいで 夜も眠れず』(上喜撰=茶の銘柄。「蒸気船」に掛けている)という有名な狂歌は、当時の様子をうまく表現しています。

浦賀沖からそのまま北上されれば将軍のいる江戸の喉元。当時、諸藩が交代で常に江戸湾を警備していたのにあっさりと侵入を許したことで、外国から日本国を守る対策が急務となったのです。

そこで品川沖西側に、当初12基の台場築造が計画されました。すべてが西側に集中していたのは、江戸湾は川から運ばれた土砂によって広範囲が遠浅になっていて、黒船のような大型船が航行できるのは、海底が谷状になっている隅田川河口から品川沖西側部分だけだったから。ペリー来航から2か月後には普請が始まり、第一〜第三台場は約10か月という短期間で完成したといいます。

品川台場、地図
御殿山下台場と第一〜第十一台場の建設地。12基の内半分は未完成、完成した台場も戦後徐々に埋め立てられていき、現在残っているのは赤で示した第三・第六台場のみである(地理院地図を編集部で加工)

つづいて第五・第六台場も完成をみますが、幕府の財政難のため、第四・第七台場は途中で築造中止、残りの第八〜第十一台場は着工することもなく立ち消えに。結局完成したのは半数以下の5基のみでした。とはいえ、少数ながらもこの築造を遂行したおかげか、翌年のペリー再来航の時には、艦隊は江戸ではなく横浜に向かいました。また、江戸の民を安心させる効果もあったようですよ。

品川台場、第三台場
開発による破却を免れた第三台場。島の縁は石垣に囲まれており、布積や谷積などの積み方が見られる他、最上段(天端)は縁石が海側に張り出す「はね出し」となっている

品川台場は五角形の人工島で、土台には対岸の御殿山の土石や、目黒川・隅田川の泥が使われているそう。大砲を放つことに特化していたこの台場の構造は、山城や近世城郭とは違ってシンプルなものでした。伊豆周辺の安山岩を使用した周囲の石垣の高さは満潮時の水位から5〜6m、その上にめぐらせた塁壁に、最先端技術を用いた佐賀藩の大砲を30門ほど設置。内部をくぼませて曲輪とし、兵が詰める陣屋や火薬庫を配していました。現存する第三台場は台場公園となり建物跡や復元砲台などを見ることができ、第六台場は野生動植物の自然保護区となっています。

品川台場、砲架
第三台場内では弾薬庫跡や復元された砲架(砲身をのせる台)などを見ることができる

各地の藩に築かれた台場

江戸以外の台場についても見てみましょう。品川以外に幕府が築いたのは、弁天台場(北海道/函館港。現在跡地は造船会社)、堺台場(大阪府/堺市の大浜公園内に石垣などの遺構あり)などの数か所。このほか、諸藩が築いた台場が全国各地にありました。国史跡となっている台場をいくつか紹介しましょう。

廃墟感と整備具合がちょうどいい丸岡藩砲台跡こと梶台場(福井県)は、ペリー来航の前年築造。小浜藩台場跡(同)は、約30か所の台場群の総称で、キャンプ場内にある松ヶ瀬台場にはレプリカ大砲が据えられています。明石海峡大橋を望む明石藩舞子台場跡(兵庫県)は、勝海舟の設計。一部地表に露出し、レプリカ大砲もあります。この対となるのが、対岸の淡路島にある徳島藩松帆台場跡(同)。今は企業保養所ですが石垣は残っているもよう。鳥取藩台場跡(鳥取県)も8か所の台場群の総称で、史跡指定は6か所。中でも緑の芝が美しい由良台場は、ほぼ完存する貴重な台場です。また、関門海峡沿岸に長州藩が築造した台場の一つである長州藩下関前田台場跡(山口県)は、VRで往時の様子を見ることができますよ。

丸岡藩砲台跡
丸岡藩砲台跡には銃眼の空いた胸墻(きょうしょう/敵の砲撃を防ぐための土塁)が残っている

全国約800か所といわれる台場は、そのほとんどが実戦で使われることはありませんでしたが、本来の目的である外圧に対する防御として使われたのは、薩英戦争時の鹿児島湾沿岸の台場と、下関戦争時の関門海峡沿岸の台場。既出の前田台場は、激しい戦闘が繰り広げられた現場。祇園洲台場(鹿児島県)は、石垣などがよく残っています。

壇ノ浦台場
前田台場とともに下関戦争の舞台となった壇ノ浦台場には、復元されたカノン砲などが見られる(poruta10/PIXTA)

また、日本人同士が戦った内戦で使用されたのが、先ほど挙げた函館の弁天台場です。箱館戦争では新選組の持ち場で、土方歳三が救援に向かったことでよく知られていますが、現在は消滅。石材の一部は函館漁港の護岸に転用されたとか。また、こちらも既出の松帆台場は幕府の軍艦を誤って撃ってしまい、砲台の司令官が切腹の憂き目にあってしまったそうです。

このほかにも、戊辰戦争や西南戦争といった内戦の時に築かれた台場もあります。正直、今まで少〜しナメていた感がある台場。なかなかどうして、やはりそれぞれに感慨深い歴史ドラマがあります。適度なサイズで訪れやすく、ほとんどが海岸沿いにあるため絶景が約束されている、日本全国の台場跡。山城ブームの後は、ひょっとして台場ブームがくる??

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。主な制作物に、戦国時代を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、スタンプ帳付の子ども向けお城入門書『戦国武将が教える 最強!日本の城』など。2022年11月から24人の人気戦国武将が様々なテーマで戦いNo.1を争う『歴史バトル図鑑 最強!戦国武将決定戦』が好評発売中

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