2018/08/30
超入門! お城セミナー 第14回【歴史】居館や台場もお城なの?
初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法や、お城の用語など、ゼロからわかりやすく解説する「超入門!お城セミナー」。今回は、館や台場の歴史的な位置づけを解説します。
白村江の大敗後に築かれた古代山城の一つ・鬼ノ城(岡山県)
環濠集落や館は城に含まれるのか?
この連載ではこれまで土でできた「山城」と石を用いた「近世城郭」を城の代表例として解説してきました。でも、お城の本などでは、一般的に「城」というイメージのない鎌倉時代などの武士の居館や、沿岸警備用に大砲を設置した幕末の台場なども、「城」として紹介されています。
そこで「城とは何か?」という根本的なお話になるわけですが、結論から言ってしまうと、城の定義は非常にあいまいです。そのため、一般的な「城=天守」のイメージからはほど遠い、驚くほど広範囲にわたるものが「城」に含まれることがあります。
そもそも「敵から身を守るための軍事的防御施設」というのが最大公約数的な城の定義なのですが、城の研究・調査には、歴史学・考古学・軍事学・地理学・建築学などたくさんの専門家が携わっていて、その専門によっても見方や解釈が違います。また、軍事施設・政庁・住居の線引きが難しいこともよくあります。例えば「城館」という言葉がありますが、「館」は「住居」の比重が高い言葉ですから、「城館」は軍事施設と住居(あるいは政庁も)を兼ねた複合的な施設を指すことになります。それでは「城」と「城館」の何が違うかというと、それはもう専門家によって千差万別の意見があり、明確に定義することはできません。
日本における城郭発展の歴史
以上をふまえた上で、城の発展をおさらいしてみましょう。
城の始まりといわれるのが、吉野ケ里遺跡(佐賀県)に代表される、集落の周りに堀や塀をめぐらせた弥生時代の環濠集落。そして白村江の戦いによって倭国防衛の意識が高まると、北九州や瀬戸内海沿岸の山の上に鬼ノ城(岡山県)のような古代山城(朝鮮式山城)が登場します。また平安時代の東北地方には、大和政権が蝦夷を統治するために城柵(じょうさく)を築いています。多賀城(宮城県)は政庁機能もあわせ持っていました。
福岡市生の松原地区に残る元寇防塁。海岸線に沿って約2.5kmにわたって石築地が築かれている
鎌倉時代、山と海に囲まれ7つの切り通しを砦とした鎌倉(神奈川県)は、都市自体が「鎌倉城」と呼ばれましたし、御家人の居館や室町時代の守護が任地に築いた方形館は、土塁や堀に囲まれた城館でした。また、福岡県の博多湾沿岸に蒙古襲来に備えて築かれた石造りの元寇防塁も城の一種とされます。
全国で争乱が多発した南北朝時代には、各地の急峻な山の上に爆発的な数の中世山城が築かれました。そして戦国時代、山麓の居館とセットになった山城が築かれるようになり、織田信長の安土城(滋賀県)以降、石垣・建築技術が急速に発展して丘や平地に城下町とセットになった近世城郭が各地に築かれていきます。町ごと堀で囲んだ惣構の城は、城下町も城の範囲に含まれることになります。
戦国大名朝倉氏が本拠地としていた一乗谷城(福井県)。城主や家臣たちは、平時は山麓の居館で暮らし、戦になると山上の詰城に籠もって戦った(福井県観光連盟提供)
平和な江戸時代には城の数が激減しましたが、幕末になると開国を迫る欧米列強に備えて沿岸警備のための台場が数多く築かれます。台場は居住性をもたないものの、これも砲台兼要塞という軍事拠点であり広義の城としてカウントされます。
公園になっている品川台場(東京都)。現存しているのは第三台場と第六台場のみである
このように城=軍事的防御施設ではあるのですが、時代が進むにつれてその構造と役割が複雑化したため、城の定義や範囲はあいまいで広くならざるを得ないということなのです。
この先専門家の間で議論や整理が続き、また違った分類の仕方が示される日が来るのかもしれませんね。
執筆者/かみゆ
書籍や雑誌、ウェブ媒体の編集・執筆・制作を行う歴史コンテンツメーカー。
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