理文先生のお城がっこう 城歩き編 第34回 城内の樹木の役割1

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。34回目の今回は「樹木の役割」がテーマ。お城に行くと至る所に生えている木々を目にしますが、実は昔は、基本的にお城の中に木は1本も植えられていませんでした! その理由と、樹木が植えられていた数少ないお城の活用例を見ていきましょう。

戦国時代までに多く築(きず)かれた山城(やまじろ)は、現在(げんざい)のように樹木(じゅもく)に覆(おお)われていたわけではありません。城の中に、木は1本すら植えられていなかったのです。木が茂(しげ)っていると、城の内部から視界(しかい)が遮(さえぎ)られ、敵(てき)が攻(せ)め寄(よ)せてきても見えないからです。また、木の陰(かげ)に隠(かく)れたり、木を盾(たて)代わりに使ったりして、攻撃(こうげき)を避(さ)けることも出来ました。あるいは、木に火をつけられると火攻めにあってしまう危険性(きけんせい)もあったのです。

高天神城跡
現在の高天神城跡(静岡県掛川市)。現況は、樹木に覆われた山ですが、城が機能していた当時は、城内の木はすべて伐採され、一本も生えていませんでした

城の中の樹木

江戸時代の城の中に、樹木は植えられていたのでしょうか? 何を見たら、それが解(わか)るのでしょう。

近世城郭(じょうかく)の植生については、正保(しょうほう)年間(1645~48)に幕府(ばくふ)の指示(しじ)のもと描(えが)かれた「正保城絵図」を見ることで、樹木の有無が判明(はんめい)します。「正保城絵図」は、徳川家光(とくがわいえみつ)が全国の大名に対して、作製(さくせい)を命じた絵図で、「城郭を中心とした軍事施設(しせつ)」をしっかり描きなさいとされていましたので、中枢(ちゅうすう)部については木も1本1本丁寧(ていねい)に描かれています。この絵図を見ると、山城である備中松山(びっちゅうまつやま)(岡山県高梁市)などは、山中の樹木の種類を調べて描いたようで、樹木の種類が異(こと)なって描かれています。また、平城(ひらじろ)については、ほとんどの城の中枢部に樹木が1本も植えられてなかったことが解ります。山城や平山城(ひらやまじろ)でも、本丸・二の丸主要部に樹木が確認(かくにん)される城はほとんどありません。大部分の城は、木のない視界(しかい)が広がる姿(すがた)です。

樹木が確認されるのは数城で、白河小峰(しらかわこみね)(福島県白河市)の本丸に数本の広葉樹(こうようじゅ)(広くて平べったい葉を持つ木で、一年中緑の木と、紅葉(こうよう)して落葉する木があります)が見られますが、これは本丸の庭園に伴(ともな)う樹木と思われます。また本丸下段に数本の針葉樹(しんようじゅ)(葉が針(はり)のように細長いマツやスギなどの樹木のことです)も見られますが、崖(がけ)面は、視界確保(かくほ)もあってか木はほとんど見られません。棚倉(たなくら)(福島県棚倉町)では、二の丸に置かれた侍屋敷(さむらいやしき)の空白地に松の木が数10本植えられており、本丸御殿(ごてん)の背後(はいご)に数種の樹木が見られます。

奥州白河城絵図
奥州白河城絵図部分(国立公文書館所蔵)。主要部は、本丸西端に数本の樹木、東下段の曲輪に数本まとまってあるだけで、東から南の崖面にほとんど樹木は見られません

これは、御殿に隣接(りんせつ)した庭園に伴う樹木と考えられます。また、関宿(せきやど)(千葉県野田市)本丸に数本の松が見られます。松は、緊急(きんきゅう)時の食用になるといわれますが、絵図からも城に松が多く植えられていたことが判明(はんめい)します。

奥州棚倉城之図
奥州棚倉城之図部分(国立公文書館所蔵)。本丸の木は、明らかに庭園の木と思われますが、二之丸の北側、三之丸の空白地に植えられた木は松のように見えます。本来視界を遮る樹木は植えませんので、何らかの利用を考えて植えたとしか思えません

城内を隠すために植えられた樹木

主要部ではない三の丸及(およ)惣構(そうがまえ)土塁(どるい)上に植えられた樹木はかなり確認されます。主要部以外の土塁上や曲輪(くるわ)縁辺(えんぺん)(周り、はしの方のことです)に植えられた樹木は、城外から城の内部を見すかされないように植える樹木のことで、内部を外から隠(かく)す目的があったのです。松や杉の木が多く、「蔀植物(しとみのうえもの)」、「茀植物(かざしのうえもの)」などと呼(よ)ばれる目隠し用の植物です。攻撃を目的とした配置の場合は「茀」、守りに重点を置いて配置した場合は「蔀」を使うと言われています。どちらにしても植えられた植物は、単に目隠しとしてのみ使われたわけではありません。万が一に備(そな)えて食料となるもの、薬や燃料(ねんりょう)になるものが選ばれたとも言われているのです。植栽(しょくさい)にあたって、樹皮(じゅひ)・若葉(わかば)・果実(かじつ)・根茎(こんけい)などが食用に適する草木(マツ・シイ・シゴカ)などを選んだとされます。

福岡城絵図,お城がっこう,加藤理文
「福岡城絵図」(福岡県立図書館所蔵)

福岡(ふくおか)(福岡県福岡市)は、本来は土塁上に櫓(やぐら)や土塀(どべい)を廻(まわ)らす予定だったのですが、経費(けいひ)を安くするために、松を土塀代わりに植え、内部を見られないように隠したわけです。臼杵(うすき)(大分県臼杵市)は、曲輪内に1本も樹木が存在(そんざい)しないにも関わらず、塁線(るいせん)上の土塀の前に合計50本程度が確認できます。岸和田(きしわだ)(大阪府岸和田市)も本丸には樹木は1本も見られませんが、二の丸の縁辺部は、目隠しのように数10本の松が確認できます。臼杵城、岸和田城、共に縁辺部に植えられており、これらも蔀の植物として理解されます。

福岡城縁辺部
現在の福岡城縁辺部。土塁上に樹木があるのは同じですが、松ではなく広葉樹になっています

和泉国岸和田城図
和泉国岸和田城図部分(国立公文書館所蔵)。本丸には1本の木も見られませんが、外側の曲輪の縁辺部に規則的に松が植えられています、これも、目隠し用の樹木になります

平山城と土の城の樹木

小さな山などを城内に取り込(こ)んだ場合も、樹木の管理はかなり徹底(てってい)していたようで、丸亀(まるがめ)(香川県丸亀市)の場合、正面の斜面(しゃめん)地に視界を遮るような高い木は見られません。その他の三方については、斜面の最も下のあたりに松が描かれていますが、石垣を遮る部分に樹木は見られません。宇和島(うわじま)(愛媛県宇和島市)については、丸亀城より多くの樹木が見られますが、大部分が松で、やはり石垣を遮る部分には植えられていないのです。また、多くの樹木が折り重なり視界を遮るような状態にはなっていません。

土佐国城絵図
土佐国城絵図(高知)部分(国立公文書館所蔵)。山上曲輪内には、樹木を一本も確認することは出来ません。さらに、斜面地の樹木も南側を中心に生えてはいますが、数えることが出来る程度でしかありません。西から北側で樹木は確認できず、草のみ描かれています

高知(こうち)(高知県高知市)については、斜面地に1本の樹木も見られず、城内全体を見ても、天守横に1本見られるにすぎません。平戸(ひらど)(長崎県平戸市)は、斜面地が多いにも関わらず高い木は1本も見られず、低い木らしきものが描かれているだけです。平山城においても、視界を確保することは当然で、常(つね)に樹木は管理され、一定以上の高さに育たないように管理していたことがはっきり解ります。

讃岐国丸亀絵図
讃岐国丸亀絵図部分(国立公文書館所蔵)。平山城ですので城は小山の上に築かれました。石垣より内側の曲輪内に木は1本すら見られません。周囲の小山も山麓の最も下部に若干(じゃっかん)の樹木が見られるにすぎません。徹底的に管理していたと考えられます

丸亀城
現在の丸亀城。曲輪内にも樹木があり、さらに石垣を隠してしまう樹木も見られます。江戸時代の終了と同時に、細かな徹底した樹木管理も放棄(ほうき)されてしまったのです

土塁造(づく)りの城を基本とする関東地方ではどうだったのでしょう。関東地方の土の城を見ると、本丸・二の丸主要部に設(もう)けられた土塁上でも、土塀が存在しない場合は蔀の植物が植えられていたようです。

高崎(たかさき)(群馬県高崎市)では、文化14年(1817)に作成された「御城御土居通御植物木尺附絵図(おしろおどいどおりおうえものしゃくつきえず)」が現存(げんぞん)し、この絵図を見ると全(すべ)ての曲輪の縁辺部に樹木が植えられていたことが判明します。しかも、全ての樹木の木の種類を特定し記録に残しているため、厳重(げんじゅう)な管理下に置かれていたことが解るのです。樹木は、その大きさも表現(ひょうげん)されており、大木がほとんど存在しないことも解り、さらに曲輪内には小木1本すら植えられていなかった様子も見て取れます。このように、城内の樹木は徹底的に管理されていたのです。当然、樹木だけを管理する仕事があり、それを任(まか)せられた家臣が存在していたのです。

御城御土居通御植物木尺附絵図
御城御土居通御植物木尺附絵図(高崎市教育委員会蔵)。文化14年(1817)城内の土塁や遠構にある樹木の樹種と高さを調べて描いた絵図です。土造りの城であったため、当初は内部を隠す目的で植えられたと考えられます。当然、巨木になれば管理も大変になるので、そうならないような万全の管理体制が敷(し)かれていたと推定されます

高崎城
現在の高崎城の土塁と樹木。土塁は現存していますが、樹木は細く近代になって植えられたか、あるいは自然に生えたと思われます

今日ならったお城の用語(※は再掲)

山城(やまじろ)
(けわ)しい地形を利用して、独立(どくりつ)した山頂(さんちょう)部分などを中心に尾根筋(おねすじ)上に曲輪群を配置した城のことで、中世から戦国期に多く造られました。高い山を利用した城のことですが、何m以上の山とか言う基準(きじゅん)はありません。

平城(ひらじろ)
湿地帯(しっちたい)や平地に、堀をめぐらせて築かれた城のことです。江戸時代の城の大部分は、この城になります。海城も広い意味では、平城の一つの形態(けいたい)として捉(とら)えられます。

平山城(ひらやまじろ)
丘陵(きゅうりょう)上や平野の中にある低い山の峰(みね)を利用して、山上から山麓(さんろく)にかけて、階段(かいだん)のように曲輪群を設けた城のことです。近世初頭から、急激(きゅうげき)に築かれるようになりました。

※惣構(そうがまえ)
城だけでなく、城下町まで含(ふく)めた全体を堀(ほり)や土塁などで囲(かこ)い込んだ内部、または一番外側に設けられた城を守るための施設のことです。「総構」と書くこともあります。

※土塁(どるい)
土を盛(も)って造った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土を盛って造られました。

※曲輪(くるわ)
城の中で、機能(きのう)や役割(やくわり)に応じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのは、おもに中世段階の城で、近世城郭では「郭」や「丸」が使用されます。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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