理文先生のお城がっこう 城歩き編 第35回 城内の樹木の役割2

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。35回目は前回に続いて「樹木の役割」がテーマ。戦国時代や江戸時代の城に人工的に植えられた樹木と、その目的について見ていきましょう。

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「【理文先生のお城がっこう】城歩き編 第34回 城内の樹木の役割1

前回、戦国時代の城や江戸時代の城の樹木(じゅもく)について見てきました。曲輪(くるわ)内にほとんど樹木は存在(そんざい)せず、外郭(がいかく)の土塀(どべい)代わりに、見隠(かく)しとして植えられた樹木があることや、山城や平山城の樹木は数を減(へ)らし剪定(せんてい)(樹木の枝(えだ)を切り、形を整えたり、風通しを良くしたりする事です)され、常(つね)に管理されていたことなどをまとめました。それでは、城内に人工的に植えられた樹木は無かったのでしょうか。今回は、人工的に植えられた樹木類について見ていきたいと思います。

御殿と共に造られた庭園

各地の守護大名(しゅごだいみょう)の館には、城内の御殿(ごてん)の近くに人工的に植えらけた樹木がありました。これらのほとんどは、庭園の中を見て楽しむために植えられた樹木でした。室町幕府(ばくふ)と関係の深い守護大名達は、室町将軍(しょうぐん)の「花の御所」をまねすることが地方における社会的地位を表すことだと思って、小型版(こがたばん)の御所を造(つく)って住まいとしたのです。そこに設けられた庭園に植えられた樹木が、曲輪の平らな部分に人工的に植えられた唯一(ゆいいつ)の樹木だったのです。

これらの樹木は、視界(しかい)を遮(さえぎ)ることや、軍事的部分でマイナスになることはありませんでした。それは、曲輪の端(はし)などに、池や庭石と共に植えられた低木だったからです。守護大名の居館(きょかん)で有名な庭園は、越前(えちぜん)朝倉氏の一乗谷(いちじょうだに)館(福井県福井市)、大内氏館(山口県山口市)、北畠(きたばたけ)氏館(三重県津市)などです。国人領主層(こくじんりょうしゅそう)の館にも庭園は造られていたようで、江馬(えま)氏館(岐阜県飛騨市)で確認(かくにん)されています。

江馬氏館跡、庭園
室町時代から戦国時代にかけて飛騨(ひだ)を治めていた武将・江馬氏の館跡で、発掘調査により「庭園」が検出(けんしゅつ)されました。復元(ふくげん)された会所からは当時の主が眺(なが)めたとされる、飛騨の雄大(ゆうだい)な山々と美しい庭園を一望することができます

中でも、一乗谷朝倉氏の館では、急峻(きゅうしゅん)な山の斜面(しゃめん)に屋敷(やしき)ごとに庭園が造られていたことが、発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)で明らかになっています。中心施設(しせつ)である朝倉館では、管領(かんれい)細川家の京屋敷をモデルに石の庭が造られました。館の東南の斜面を背景(はいけい)にした石の庭で、低木も植えられていたようです。この他、滝石組(たきいわぐみ)(石で表現(ひょうげん)した滝のことです)と池泉(ちせん)の南陽寺(なんようじ)庭園、一乗谷の庭園中、最大規模(きぼ)で豪華(ごうか)な庭園が諏訪館(すわやかた)庭園で、上下2段(だん)構成(こうせい)でした。現在(げんざい)は、傘(かさ)のように枝(えだ)を広げた楓(かえで)が庭園に風情(ふぜい)をもたらしています。さらに、中の御殿や湯殿(ゆどの)跡にも石組庭園がありました。

義景館跡庭園、南陽寺跡庭園
朝倉館の斜面を背景にした「義景(よしかげ)館跡庭園」(左)と将軍・足利義昭(あしかがよしあき)をもてなすために作庭されたと言う「南陽寺跡庭園」(右)の現状(げんじょう)です。見事な庭園を今も見ることが出来ます

諏訪館、朝倉義景
「諏訪館」は朝倉義景が妻「小少将」のために造営(ぞうえい)した館と伝わります。4つの名勝庭園の中で最も規模の大きい豪壮(ごうそう)な庭園で、上段部と下段部で構成されている池泉回遊式庭園です。庭園の中央は4mもの巨石(きょせき)を中心とした滝石組が配されています

近世城郭の庭園

近世城郭(じょうかく)に庭園を持ち込んだのは、豊臣(とよとみ)大坂城(大阪府大阪市)の山里(やまさと)曲輪でした。豊臣秀吉(ひでよし)は、ここには茶室と御殿、庭園を設(もう)けて、大切な客人を茶の湯などで接待(せったい)する場としたのです。秀吉は、陣城(じんじろ)である肥前名護屋(ひぜんなごや)(佐賀県唐津市)にも山里曲輪を設けています。名護屋城山里曲輪では、発掘調査により茶室跡が確認され、酒や食事などを出してもてなす場であったと解(わか)りました。これ以後、城には必ずと言っていいほど庭園が設けられるようになっていきます。

二条城、二の丸御殿庭園
二条城二の丸御殿庭園は、15代将軍慶喜(よしのぶ)の上洛(じょうらく)時には、樹木はほとんどなく、池は枯渇(こかつ)して枯山水風の庭園景観を呈(てい)し、荒廃(こうはい)していたようです。大政奉還(たいせいほうかん)後の離宮(りきゅう)時代に行われた植栽(しょくさい)工事は、幕末の庭園景が変貌(へんぼう)する程(ほど)の大規模な改修工事で、今日に至(いた)る基本的(きほんてき)な景観が完成したと考えられます

庭園は、単独(たんどく)で造られることは無く、本丸御殿と庭園、二の丸御殿と庭園というように、常に御殿とセットで造られました。庭園は、大切な人たちを接待するための空間で、御殿からの景色や眺めを重視(じゅうし)して造られていました。これらの庭園の多くは、大きな池を海にみたて、その周りに高くなったり低くなったりする地形や大きな石を配置することで、山や平野を表現していました。池には島までも設けられ、橋さえ架(か)けられていたのです。当然多くの樹木が植えられていましたが、その木は低木で、山や林等の自然を表現する程度(ていど)だったのです。小さな庭園については、水を利用せず枯山水(かれさんすい)(水を一切使わないで、石、砂、草木を使って山や海などを表現した日本庭園の様式の1つです)の庭も多かったようです。庭の位置も平坦(へいたん)面にあり、専門(せんもん)の庭師(にわし)が常に管理する環境(かんきょう)に置かれていました。

幕府政権(せいけん)が安定すると、藩主(はんしゅ)の静養や隠居(いんきょ)場所として別の館が築(きず)かれ、そこには広大な庭園が設けられることが多くなります。国指定の名勝(めいしょう)(日本における文化財の種類のひとつのこと)である彦根城(滋賀県彦根市)の玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)は、今も往時(おうじ)の面影(おもかげ)を残しています。玄宮園(げんきゅうえん)は、江戸時代には「槻之御庭(けやきのおんにわ)」と呼(よ)ばれていました。隣接(りんせつ)する楽々園(らくらくえん)は槻御殿(けやきごてん)と呼ばれ、延宝5年(1677)、4代藩主井伊直興(いいなおおき)により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられています。現在、庭園部分を玄宮園、御殿部分を楽々園と称しています。玄宮園の名は、古代中国の宮廷(きゅうてい)の名によって命名されたと考えられます。近江(おうみ)八景を取り入れて造られたと伝わる庭園は、広大な池水(ちすい)を中心に、池中の島や入江(いりえ)に架かる9つの橋などで構成された回遊式(かいゆうしき)庭園(御殿から眺めるだけでなく、庭の中を歩きながら楽しむ庭園のことです)です。

玄宮園
玄宮園は、江戸時代には「槻之御庭」と呼ばれていました。隣接する楽々園は槻御殿と呼ばれ、4代藩主井伊直興が、延宝5年(1677)より造営を開始し、同7年に完成したと伝えられています。昭和26年(1951)には国の名勝に指定されました

この他、城に隣接する広大な規模を持つ庭園も残されています。日本三名園と言われる兼六園(けんろくえん)(石川県金沢市)、後楽園(こうらくえん)(岡山県岡山市)、偕楽園(かいらくえん)(茨城県水戸市)は、いずれも池泉回遊式の大名庭園です。

後楽園
後楽園は岡山藩主・池田綱政(つなまさ)が岡山郡代官・津田永忠(つだながただ)に命じて造らせたもので、貞享4年(1687)に着工し14年の歳月をかけ元禄13年(1700)に完成しました。藩主が賓客(ひんきゃく)をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としています

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※曲輪(くるわ)
城の中で、機能(きのう)や役割(やくわり)に応じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのは、おもに中世段階の城で、近世城郭では「郭(くるわ)」や「丸」が使用されます。

御殿(ごてん)
城主が政治(せいじ)を行ったり、生活したりする建物です。政務(せいむ)や公式行事の場である「表向き」と、藩主の住まいである「奥向き」とに大きく分けられていました。

山里曲輪(やまさとくるわ)
数寄屋(すきや)風の建物や、庭・池・茶室などを設けた風雅(ふうが)を楽しむための曲輪のことです。自然の風景を取り入れた場所で、山里のように見えたため、この名があります。

※陣城(じんじろ)
戦闘(せんとう)や城攻(せ)めの時に、臨時(りんじ)的に築かれた簡易(かんい)な城を呼びます。

次回は「薬草園を造る」です。

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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