理文先生のお城がっこう 歴史編 第24回 徳川の城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。24回目の今回は、徳川の城がテーマです。城の守りの固さで知られる武田氏と、天下統一の道を突き進んだ織田家。両方の技術を巧みに取り入れて生まれた特徴とは?



■理文先生のお城がっこう
前回「第23回 様々な中世城郭2 甲斐武田氏の城」はこちら

徳川家康(とくがわいえやす)は、10年ほどに渡(わた)って武田(たけだ)軍と、攻(せ)めや守(まも)りを繰り広げる戦いを経験(けいけん)しました。そのため、武田氏が滅(ほろ)んだ後、最も武田の城を理解(りかい)する武将(ぶしょう)となったのです。併(あわ)せて、武田家に仕えていた武将たちも数多く召(め)し抱(かか)えてもいます。また、同盟(どうめい)者である織田信長(おだのぶなが)に従(したが)い、各地の戦いに転戦しています。家康は、武田氏が城の守りを固めるために採用(さいよう)していた技術(ぎじゅつ)を巧(たく)みに取り込(こ)むと共に、織田家の持つ最新の技術を学んで、新しい徳川の城を築(きず)き上げて行くことになります

巨大化する丸馬出

徳川氏は、武田氏が一番多く城に用いたと言われる丸馬出(まるうまだし)と、斜面(しゃめん)からの侵入を防ぐために設けた横堀(よこぼり)という築城技術をフルに生かした城造(づく)りを目指して行きます。徳川氏が築いたことが確実(かくじつ)諏訪原(すわはら)(静岡県島田市)の丸馬出は、国内最大規模(きぼ)を誇(ほこ)る丸馬出になります。その規模は、最も幅広(はばひろ)となる中央部(東西幅)で約28m、二の曲輪よりの最大幅は約50mで、約三百坪(つぼ)強の面積を持っています。武田氏が築いたことが確実(かくじつ)興国寺(こうこくじ)(静岡県沼津市)の2倍以上の大きさを持っています。一番外側になる縁辺部(えんぺんぶ)には、幅約11mの土塁(どるい)が築かれているため、平坦(へいたん)面として使用できる面積は、非常(ひじょう)に少なくなっています。馬出からの二か所の通路は、いずれも土橋(どばし)になっていますが、共に中途(ちゅうと)で切断(せつだん)させ、木橋を架(か)け、危険(きけん)がせまったら、切り離(はな)すことが出来るような工夫を凝(こ)らしています。形は丸馬出ですが、その役割や働きは、戦闘(せんとう)正面に設けられた出丸(でまる)としか言いようがありません。

諏訪原城、馬出
諏訪原城の二の曲輪中馬出。我が国最大規模を誇る丸馬出です。曲輪の前面には巨大な土塁を設けているため、平坦部の面積は狭くなっています

どうして徳川氏は、これ程(ほど)大きな丸馬出を築いたのでしょうか。それは、徳川軍が、天下統一(とういつ)に向かって突(つ)き進む織田軍と行動を共にする機会が多かったことと無関係とは思えません。織田軍は、数万の軍勢(ぐんぜい)を引き連れ、次々と城を落としていきます。同時に、天正3年(1575)の長篠(ながしの)合戦に見られるように、騎馬(きば)による戦い(馬に乗った武士(ぶし)(騎馬武者(むしゃ))や騎士(きし)同士の戦いのことです)から、当時の最新兵器である鉄砲(てっぽう)を中心とした戦闘へと戦い方を変化させました。長篠合戦で勝利した徳川氏は、身をもって織田軍による鉄砲を使った戦い方の効果(こうか)を理解(りかい)したのです。分厚(ぶあつ)く高い土塁を盾(たて)とし、曲輪(くるわ)の前面の全周約80mに渡(わた)って火器を手配して準備(じゅんび)を整え、火力によって敵(てき)を攻撃(こうげき)して退(しりぞ)けることを目指したのでしょう。

巨大化する空堀、長大化する横堀

徳川氏の城に横堀が採用されるのは、長篠合戦前後からになります。徳川氏が新しく築いた城で、最初に横堀を設けたと思われる城が、岡崎の城山(静岡県袋井市)と呼ばれる高天神(たかてんじん)攻めの前線基地(きち)です。主郭(しゅかく)の三方に横堀が廻っています。同じように高天神城攻めの中心となった小笠山砦(おがさやまとりで)(静岡県掛川市・袋井市)になると、総延長(そうえんちょう)200m以上にわたる横堀が採用(さいよう)されています。これによって、尾根筋(おねすじ)は完全に遮断(しゃだん)されています。二俣城攻めの砦の一つである社山(やしろやま)(静岡県磐田市)には、主郭を全周取り巻(ま)くように横堀が設(もう)けられています(現在は、一部崩落により失われています)。このように、長篠合戦を境に、急激に横堀が採用されるようになったのは、武田方の城を奪い取って横堀が、どのようにして組み合わせてできたものかということが解(わか)ったからだと思われます。また、武田の城を攻めた時に、最も攻めあぐねた施設(しせつ)が横堀だったからでしょう。

小笠山砦、社山城
小笠山砦の横堀(左)と社山城の横堀(右)。小笠山砦の横堀は、山麓からの侵入を防ぐようにUの字を呈し、社山城の横堀は曲輪を全周取り囲んでいます

平地の端(はし)に築かれた諏訪原城の場合は、幅約20m・深さ10mの巨大(きょだい)化した横堀が、平地側の三方にコの字状(じょう)に設けられました。外堀(そとぼり)は、足し合わせた全体の長さが約450mにも及(およ)ぶ長くて大きい堀になっています。さらに内堀(うちぼり)が同じように約200mにわたって三方を囲むだけでなく、斜面にも約250mにわたって横堀を設けて、敵の侵入(しんにゅう)に対処(たいしょ)するための備(そな)えとしていました。この横堀の採用によって、徳川氏の城の築き方は、大きく変わっていきました。様々な防御施設を組み合わせ、斜面からの敵の攻撃などを防ぎ守ることができるようになったのです。守りの薄(うす)い場所に対しては、竪土塁(たてどるい)竪堀(たてぼり)と組み合わせて、横に移動(いどう)することが出来なくしています。また、堀切(ほりきり)との組み合わせで、たとえ曲輪への侵入を許(ゆる)したとしても、他の曲輪へ移(うつ)ることが出来なくなりました。諏訪原城をさらに発展(はってん)させ、横堀と丸馬出を巧みに組み合わせ、防御を固めた城が丸子(まりこ)(静岡県静岡市)で、五ヵ国領有(りょうゆう)以前の徳川の城の最も優(すぐ)れた最高傑作(けっさく)でしょう。

丸子城、横堀
丸子城の横堀。特に北側の防御が強固で、長大な横堀の両サイドに丸馬出を設け、さらに途中に堡塁状の施設が配置されています

従来からの拠点城郭である岡崎城(愛知県岡崎市)や、街道を押さえる重要な拠点であった長篠城(愛知県新城市)には、巨大な丸馬出を新たに設けました。古宮(ふるみや)(愛知県新城市)では、横堀を二重、三重に配置し、工夫を凝らした馬出曲輪を設けるなど、より強固な防御力を持たせるように改造(かいぞう)しています。居城(きょじょう)である浜松城(静岡県浜松市)の背後(はいご)も、天然の地形である犀ヶ崖(さいががけ)を取り込んで、横堀とつなげることで北側の尾根続きを完全にさえぎることに成功しました。

諏訪原城、外堀
諏訪原城の外堀。尾根筋を完全に遮断するような空堀(からぼり)が、450mに渡って延びています。掘った残土は、内側の二の曲輪に積まれ土塁としています

枡形虎口の採用

虎口(こぐち)の形も、大きく変わることになりました。従来(じゅうらい)の徳川氏の城は、最も単純(たんじゅん)で基本的な、土塁を割(わ)って門を配置する「平虎口(ひらこぐち)」が多く用いられていました。両側の土塁をずらして配置して、敵の直進を妨(さまた)げる「喰違虎口(くいちがいこぐち)」は、山上部の曲輪入口に見られます。喰(く)い違(ちが)っていることで、城攻めをする兵士が侵入するためには、鉤(かぎ)の手に折れなければなりません。そこへ側面から攻撃しようとしたのです。両側に鉤の手状に左右対称(たいしょう)の土塁を設け、方形の枡形(ますがた)状の空間を設けた両袖枡形虎口(りょうそでますがたこぐち)の使用も、長篠合戦後に見られるようになります。

古宮城、諏訪原城、虎口
古宮城の両袖枡形虎口(左)と諏訪原城二の丸虎口の礎石城門(右)。横堀や丸馬出だけでなく、枡形虎口や礎石建物という最新技術も取り入れています

古宮城などが好例ですが、この虎口の工夫は、武田氏の城に多く用いられたと言われています。前回の「甲斐武田氏の城」で見た躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(山梨県甲府市)の虎口、新府(しんぷ)(山梨県韮崎市)の虎口、そして諏訪原城の虎口が、武田氏の手によったと従来(じゅうらい)言われてきました。ところが、諏訪原城の枡形虎口は、礎石(そせき)建ちの城門が検出(けんしゅつ)され、その下層(かそう)に武田氏の遺構(いこう)がありますので、確実に徳川段階(だんかい)と判断(はんだん)されます。従来、古宮城や新府城の両袖枡形虎口は武田段階と言われてきましたが、武田氏滅亡(めつぼう)後徳川氏が入城しており、徳川改修(かいしゅう)としても問題はないのです。

では、なぜ徳川氏は周囲を土塁で囲み、入口と出口を喰い違いにして折れ曲げる両袖枡形虎口を採用したのでしょう。そして、この虎口はどこから学んだのでしょうか。前述したように、徳川軍は、同盟軍として、常に織田軍の合戦に協力しています。姉川(あねがわ)の戦いを始めとする、浅井・朝倉軍との戦闘、そして長篠合戦。家康は、織田軍の陣城(じんじろ)も多数見たに違いありません。諏訪原城の丸馬出に見る火器への対応(たいおう)、そして礎石建ち城門の採用など、城づくりに急激(きゅうげき)な進歩が見られます。諏訪原城で検出された4基の城門は、すべて最新の礎石立ち城門でした。こうした状況から織田軍と共同して戦ったことによる影響(えいきょう)と考えることも出来るのです。

いずれにしろ、接収(せっしゅう)した武田軍の城の技術、そして共闘した織田軍の城の影響を受け、それを巧みに取り込んだ徳川氏は、東国一の大大名にのし上がっていくのです。

諏訪原城復元イラスト
諏訪原城復元イラスト(考証:加藤理文/作画:香川元太郎)。徳川氏が当時最新の技術を取り込んで構築した、土の城の傑作です。

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※丸馬出(まるうまだし)
外側のラインが半円形の曲線になる馬出のことです。石垣(いしがき)を円弧(えんこ)状に積むのは、非常に高い技術を必要とするため、ほとんどが土造りでした。

※横堀(よこぼり)
曲輪の防備を固めるために曲輪を廻(まわ)るように設けられた堀のことです。等高線と平行になるように掘られます。広大な規模を持つ場合が、多く見られます。

※土塁(どるい)
土を盛(も)って造った土手のことで、土居(どい)とも言います。多くは、堀を掘った残土を盛って造られました。

※土橋(どばし)
堀を渡る出入りのための通路として、掘り残した土手(土の堤(てい))のことです。堀で囲まれた曲輪には、最低一つは土橋がありました。木橋では運べない重い物を運んだり、相手方に切り落とされたりして孤立しないようにするためです。

※出丸(でまる)
城の中心的な曲輪から離れて造られた曲輪のことです。敵方の最前線で攻撃をしたり防いだりする役目がありました。出郭(でくるわ)とも言います。

空堀(からぼり)
水の無い堀のことです。山城(やまじろ)で、多く用いられました。近世城郭(じょうかく)においても、重要な場所は空堀が採用されています。堀底は、通路として利用されることが多く認(みと)められます。

竪土塁(たてどるい)
山などの斜面の縦(たて)方向(等高線に対して直角)に盛られた土塁のことです。竪堀として掘った残土を盛り上げた例も多く見られます。登り石垣と同様の機能(きのう)を持っていました。

※竪堀(たてぼり)
斜面の移動を防ぐために設けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘られます。連続して配置された場合「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」と呼びます。

※堀切(ほりきり)
山城で尾根筋や小高い丘(おか)が続いている場合、それを遮って止めるために設けられた空堀のことです。等高線に直角になるように掘られました。山城の場合、曲輪同士の区切りや、城の境(さかい)をはっきりさせるために掘られることが多く見られます。

※平虎口(ひらこぐち)
もっとも基本的な形をした虎口で、土塁や石垣の一部を割って、門を設けたものをいいます。平入り(ひらいり)とも呼ばれます。

※喰違虎口(くいちがいこぐち)
土塁や石垣を平行ではなく、互(たが)い違いにすることによって、開口する部分を側面に設けた虎口のことです。城の攻めては、虎口の前でほぼ直角に曲がらざるを得なくなり、側面からの攻撃を容易(ようい)にする目的がありました。

両袖枡形虎口(りょうそでますがたこぐち)
両側に鉤の手状に左右対称の土塁を設け、方形の枡形状の空間を設けた虎口のことです。前面と後方の門の位置をずらすなどの工夫が見られるようになります。

陣城(じんじろ)
戦闘や城攻めの時に、臨時(りんじ)的に築かれた簡易(かんい)な城を呼びます。


お城がっこうのその他の記事はこちら

加藤理文(かとうまさふみ)先生
alt
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

関連書籍・商品など