理文先生のお城がっこう 歴史編 第23回 様々な中世城郭2 甲斐武田氏の城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。23回目の今回は、多くの大名たちと対立していた甲斐の武田氏が、戦いに勝つために工夫した城づくりの特徴に注目しましょう

武田信玄(たけだしんげん)と勝頼(かつより)父子は、甲斐(かい)(今の山梨県)一国の守護(しゅご)大名から、信濃(しなの)(長野県)・西上野(にしこうづけ)(群馬県の西側)・駿河(するが)(静岡県のほぼ中央部)さらに遠江(とおとうみ)(静岡県の西部地域)・三河(みかわ)(愛知県東部地域)・飛騨(ひだ)(岐阜県北部地域)・美濃(みのう)(岐阜県南部地域)の一部を自分の領地(りょうち)として広げ支配(しはい)するようになっていきました。その間、関東地方から東海地方に至(いた)るまでの各地で、戦闘(せんとう)を繰(く)り広げなければなりませんでした。関東の北条(ほうじょう)氏、越後の上杉(うえすぎ)氏、駿河(するが)の今川氏、三河の徳川氏、そして尾張(おわり)の織田(おだ)氏と、その時々によって敵(てき)味方となって相争ったのです。

支城網による領国支配

武田氏は、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を支配の頂点(ちょうてん)に置いて、自分が支配する国内各地に重臣(じゅうしん)(身分の高いおもだった家来のことです)を適当(てきとう)な位置や持ち場に割(わ)りあてました。江戸期には「武田二十四将(武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談(こうだん)(歴史物を読み上げる伝統芸能です)や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称です)」とされています。各地に支配する土地を与(あた)えられた重臣たちは、その領地を治め守るために多くの城を築(きず)きあげました。甲斐・信濃という山に囲(かこ)まれた地形を出来る限(かぎ)り上手に利用して、陸路や河川(かせん)交通の足場となる重要な地点に城を築いて、敵が攻(せ)めて来た時の備(そな)えとしました。また、山道が多い特有な地形から、敵兵の動きをいち早く察知するため各地に数多くの狼煙台(のろしだい)を造(つく)らせたといわれています。山が多い地形のため、大軍の移動(いどう)は限られた街道を使うしかありませんでした。そこで、通行人や荷物の検査(けんさ)あるいは領国を守るため、こうした交通上の重要な場所や国境(くにざかい)などに関所を置いたのです。重要拠点(きょてん)に築いた城と併(あわ)せて、領国内に効果的で固い守りの体制(たいせい)を設(もう)け、甲斐の国へ簡単(かんたん)に敵の軍隊が入ってくることが出来ないようにしたのです。

武田信玄、最大版図、支城
武田信玄の最大版図とその支城

武田氏の城の特徴

自分の領国を広げるため、武田氏が新たに進出した地域に築き上げた城は、後に武田流、あるいは甲州流築城術(こうしゅうりゅうちくじょうじゅつ)の城と呼(よ)ばれ、城を築くための技術(ぎじゅつ)としては一番優(すぐ)れていると評価(ひょうか)されてきました。武田氏による城の最大の特徴(とくちょう)は、虎口(こぐち)の前面に設けられ敵の攻撃に対して、防御(ぼうぎょ)にとどまらずに攻めかえすことも出来る陣地(じんち)になる三日月堀(みかづきぼり)(半円形をした堀で、その形が三日月に似ていることからこう呼ばれています)を伴う丸馬出(まるうまだし)(形が半円形のため死角が無く守りやすいと言われています)とされてきました。この三日月堀と丸馬出を持つ城が、武田氏が一時的でも支配下に置いた旧(きゅう)領国に数多く残されているため、武田氏の城の最大の特徴だと言われてきました。新府(しんぷ)(山梨県韮崎市)、伊那大島城(長野県松川町)、諏訪原(すわはら)(静岡県島田市)、小長井(こながい)(静岡県川根本町)、小山城(静岡県吉田町)などが丸馬出で有名な城になります。

元亀(げんき)年間(1570~73)前後から武田氏は、遠江・三河を攻め、その領土に侵入(しんにゅう)するために、数多くの、戦いを有利に運ぶための前進拠点となる城を築き上げました。ですが、天正3年(1575)の長篠(ながしの)合戦でひどく負けたことにより、武田方の勢(いきお)いや力はおとろえ弱り、せっかく築き上げた城にも関わらず、次々と徳川方に奪(うば)われてしまいます。武田氏が築き上げた城を自分たちの城にした徳川氏は、武田氏の城を築くための技術を参考にしていきます。そして、さらに改良を加えて、より守りを強くした徳川氏の城を造りあげて行くことになります。武田氏の特徴と言われる丸馬出・三日月堀もうまく使って、徳川氏の城に役立つように規模(きぼ)を大きくし、徳川氏の戦い方に合うように改良を加えて使っていくのです。こうしたことから、現在(げんざい)残っている丸馬出は、徳川氏が造ったと考えられる城の方が多いことになります。

武田氏、丸馬出
中世城郭(左)と近世城郭(右)の丸馬出。近世城郭は、仕切りの土塁や石垣を設け、より折れを多くするようになりました

発掘調査でわかった武田氏の城の特徴

発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)で、武田氏の手によって造られたことが確実(かくじつ)な城があります。それらの城に残されている武田時代の遺構(いこう)から、武田氏の城のつくり方の特徴を見てみましょう。武田氏が築き上げた城の最大の特徴は、曲輪の斜面(しゃめん)に築いた非常(ひじょう)に長い横堀(よこぼり)です。曲輪一つひとつを取り囲んだり、全体を取り囲んだりして、斜面から城の中へ入ろうとする敵を防ぐ施設(しせつ)です。当然、堀を掘った残土で土塁(どるい)を設けますので、より強くて固い守りとすることができました。併せて、斜面に取り付いた兵の自由な動きを止めるための竪堀(たてぼり)を横堀に接続(せつぞく)しています。武田氏は、横堀を中心として、そこに竪堀、堀切(ほりきり)を組み合わせて、より守りを固めた城を造っていたのです。

丸馬出
高天神城堂の尾曲輪の横堀。左から土塁、横堀、そして斜面は切岸となり、容易に曲輪にたどり着くことは出来ません

また、城攻めの時に敵の兵力が一番初めに襲(おそ)い掛(か)かってくる虎口も工夫を凝(こ)らしました。虎口を入った場所に、四角形の空間(枡形(ますがた))を設け、土塁で左右を囲み、前後に城門を設け、入ってきた敵を身動きが取れないようにして、三方から攻撃しようとしたのです。その前に、丸馬出と三日月堀を加えると、中へ入る通路は何度も折れ曲がる複雑(ふくざつ)な通路となり、やすやすと中へ入ることができなくなったのです。同じように、城の中の通路にも工夫が凝らされていました。高天神(たかてんじん)(静岡県掛川市)や高根城(静岡県浜松市)では、通路の高さを違(ちが)えて、行き止まりにしています。おそらく普段(ふだん)城内にいた兵士たちは、木梯子(はしご)などを掛けて利用していたのでしょう。もし戦争になって敵が入って来た時は、梯子を外して「行き止まり」にしたのです。発掘で確認された柱の穴(あな)から、城内に高層(こうそう)の櫓(やぐら)を造って、物見や攻撃の拠点としていた可能性(かのうせい)も高まっています。

高根城、城内道
高根城の行き止まりの城内道。三の曲輪から二の曲輪へと続く通路は、本曲輪を前に突如行き止まりになります。おそらく梯子が架けられていたのでしょう

遺構が調査されたことで、おおよその規模も解(わか)ってきました。たった一つだけ武田氏の築いたことが確実な三日月堀を伴(ともな)う興国寺(こうこくじ)城の丸馬出は、長い方(横)31m×短い方(縦(たて))12mと、あまり大きくはありませんでした。諏訪原城の武田時代の堀は、幅約7mで、深さが4mほどです。高根城の堀切の最も幅が広い箇所(かしょ)が約8mで、深さは5mほど、高天神城の堀切が幅約9mで、深さ約6mと、単独(たんどく)で10mを越える大きな堀は、見つかっていないのです。

武田氏の戦いに勝つために兵力の用い方や計画、兵士の動かし方などをまとめた軍学書である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に面白くて興味(きょうみ)をひかれる記載(きさい)があります。桝形空間の大きさの理想を「五八」としているのです。つまり奥行(おくゆき)五間(約10m)、間口(まぐち)八間(約16m)、面積40坪(つぼ)定型(決まったかたのことを言います)と書かれています。そこに騎馬武者(きばむしゃ)(馬に乗った武士のことです)25騎から30騎、一騎につき従者(じゅうしゃ)(主人の供をするもののことです)4名を中に入れることが出来るとしています。発掘調査によって確認された遺構も、まさにこの程度の大きさなのです。武田氏の城は、数百人、多くても数千人規模による城攻めしか事前に考えていなかったことが良く解ります。

武田氏館西曲輪北側枡形虎口
武田氏館西曲輪北側枡形虎口。前後に城門を設け、左右は高い土塁で囲い込む枡形でした

今日ならったお城の用語

虎口(こぐち)
城の出入口の総称です。攻城戦の最前線となるため、簡単に進入できないよう様々な工夫が凝らされていました。一度に多くの人数が侵入できないように、小さい出入口としたので小口(こぐち)と呼ばれたのが、変化して虎口になったと言われます。

三日月堀(みかづきぼり)
丸馬出の前面に設けられた半円形をした堀のことで、半円形のため死角が無く守りやすいと言われています

※丸馬出(まるうまだし)
外側のラインが半円形の曲線になる馬出のことです。石垣を円弧状に積むのは、非常に高い技術を必要とするため、ほとんどが土造りでした。

※横堀(よこぼり)
曲輪の防備を固めるために曲輪を廻るように設けられた堀のことです。等高線と平行になるように掘られます。広大な規模を持つ場合が、多く見られます。

※竪堀(たてぼり)
斜面の移動を防ぐために設けられた堀のことです。等高線に対して直角に掘られます。連続して配置された場合「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」と呼びます。

※桝形(ますがた)
門の内側や外側に、攻め寄せてくる敵が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗門、奥に櫓門が造られるようになります。

※印は再掲です

次回は、「様々な中世城郭3 徳川の城」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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