2020/02/28
理文先生のお城がっこう 歴史編 第22回 様々な中世城郭1 小田原北条氏の城
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。22回目の今回は、関東地方を統一した小田原北条氏の築城術について。北条氏は攻めてくる敵に対抗するため、どのように城を築いて守りを固めたのでしょうか。
■理文先生のお城がっこう
前回「第21回 土の城の終わりを告げた合戦」はこちら
小田原北条(ほうじょう)氏は、武力(ぶりょく)や権力(けんりょく)によって関東地方を統一(とういつ)し、治めることに成功しました。北条氏は、力が強く大きい軍隊を地域ごとに造(つく)り上げ、よその国へ攻(せ)め入り、次々と支配(しはい)する国を広げ、数ヵ国を治める戦国大名になりました。
では、数ヵ国を治める戦国大名にまで成長した北条氏は、地方を治めるためや他所の国から攻めてくる敵(てき)に対して、どんな城を造って対抗(たいこう)したのかを考えてみましょう。
北条氏の城は、部分的に石垣(いしがき)を使用することはありましたが、土を切り盛(も)りして造り上げる城をおおもとにしていました。そして、少しも手落ちの無い程(ほど)の守りを固め、これより先はないというところまで行き着いた「土で造り上げた城」を築(きず)き上げたのです。それらの城には、特に北条氏が工夫を凝(こ)らした施設(しせつ)が使われていたため、後の世の人々は「北条流築城術(ちくじょうじゅつ)」と呼(よ)ぶようになったのです。
小田原北条氏の支城ネットワーク
本城(ほんじょう)小田原城を中心に、領内(りょうない)の各所に網(あみ)の目のように支城(しじょう)が設(もう)けられていました
小田原城を中心にした支城の配置
小田原城(神奈川県小田原市)を中心に、韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)、玉縄(たまなわ)城(神奈川県鎌倉市)、八王子城(東京都八王子市)、小机(こづくえ)城(神奈川県横浜市)、館林(たてばやし)城(群馬県館林市)、三崎城(神奈川県三浦市)などの一門(当主の親戚(しんせき)のことです)の城や、鉢形(はちがた)城(埼玉県寄居町)、松山城(埼玉県吉見町)などの支城(しじょう)を地域の軍隊を治める中心的な城として各地の重要な場所に造り上げました。さらに足柄(あしがら)城(静岡県小山町)、浜居場(はまいば)城(神奈川県南足柄市)、泉頭(いずみがしら)城(静岡県清水町)などの兵站(へいたん)基地(きち)(食料や物資を補給するための拠点として設置されました)や戦闘(せんとう)用(戦うために特に適していることです)の城を街道に面した場所や国境(こっきょう)の近くに構(かま)えました。そして、城に交代で勤務(きんむ)する武将(ぶしょう)の配置から城の維持(いじ)や管理をする武将たちまでを、落ち度なくしっかりと決めて、小田原城を中心にした守りを万全にしたのです。こうしたシステムを本・支城体制(たいせい)といいます。北条氏は、このようにして小田原城を一番上位に置いて、その下に様々な役割(やくわり)を持つ城を、自分が治める国の隅(すみ)から隅まで配置したのです。
八王子城の馬冷(こまびやし)と呼ばれる堀切(ほりきり)(左)と鉢形城の二の曲輪(くるわ)と三の曲輪間の空堀(からぼり)(右)です
小田原北条氏の築城術
北条氏は、台地や高台が多く、粘土質(ねんどしつ)で滑(すべ)りやすい関東ロームで成り立つ関東の地形を巧(たく)みに利用する中で、守りを固めた城を築くための技術(ぎじゅつ)を多く蓄(たくわ)えていったのです。その中で、他と比(くら)べて特にきわだっていたのが、各曲輪を直線的でおおがかりな横堀(よこぼり)(曲輪の防備を固めるために曲輪を廻(まわ)るように設けられた堀のことです)と土塁(どるい)で取り囲んだことでした。
また、死角(どうしても見えなくて、射撃ができない範囲です)を無くし、側面から効果的(こうかてき)に攻撃(こうげき)ができるように、通路と虎口(こぐち)に強いつながりを持たせる工夫を凝らしました。それによって、虎口の守りをいっそう固めたのです。それだけではなく、より虎口の守りを強くするためと虎口の前の空間を堡塁(ほるい)(敵の攻撃を防ぐために、造った陣地のことです)として使うために角馬出(かくうまだし)(外側のラインがコの状に四角形になる馬出のことです)を採用(さいよう)しました。
北条氏の特徴(とくちょう)を最もよくあらわす施設が、「堀障子(ほりしょうじ)」と呼ばれる堀の中に障壁(しょうへき)(仕切りや壁のことです)を設けた堀のことです。障壁を設けることで、敵兵の進行を妨(さまた)げ、足止めにする効果がありました。堀の中に入ってしまえば、関東ロームで滑りやすく、よじ登ることも困難(こんなん)でした。そうこうしている間に、狙(ねら)い撃(う)ちの的になってしまいます。関東ロームは、雨水の保水能力(ほすいのうりょく)があるため、雨量の多い季節には、堀内に水が溜(た)まり、小規模(しょうきぼ)なダムが連なるような強固な堀ともなりました。
北条氏の城には、こうした特徴が見られますが、これこそが北条流ということでもありません。他の地域や他の戦国大名も似たような防御(ぼうぎょ)施設を使用しています。こうした城の作り方を、北条氏が多くの城で用いていたということです。北条氏は、自分たちが持っている戦闘力を最大限に発揮(はっき)させるには、どんな施設を持つ城を造るのが良いかと考え、それを上手く生かせると思ったのがこうした城だったのです。
堀障子イラスト(作画 香川元太郎)
堀内に障壁を設けることで、敵の自由を奪い、曲輪からの射撃を容易(ようい)にするための工夫でした
滝山城(東京都八王子市)の南東より見た馬出(左)と河村城(神奈川県山北町)の小郭(しょうくるわ)と茶臼郭(ちゃうすくるわ)間の水が溜まった状態の堀障子(右)です
武田・豊臣への対応
永禄(えいろく)11年(1568)以降(こう)、武田信玄(しんげん)が関東へ侵攻(しんこう)する場合に備(そな)え、北条氏はいっせいに領内各地の城の整備(せいび)・改修(かいしゅう)を行います。北条氏が特に力を注いだのは、領国の境(さかい)に位置し峠(とうげ)を越(こ)えようとする敵方の軍勢(ぐんぜい)を押(お)さえる城と、中心となる大切な街道に面した場所にある城でした。
標高317mの三増(みませ)峠(甲府から相模湖を抜けて厚木方面へ抜ける峠です)を押さえる津久井(つくい)城(神奈川県相模原市)、箱根外輪山から北に伸(の)びた尾根(おね)上に位置し駿河国(するがのくに)と相模国(さがみのくに)の国境の峠である足柄峠に築かれた足柄城、甲斐・相模・駿河の三国を結ぶ街道を押さえる深沢(ふかざわ)城(静岡県御殿場市)などの城で、自然に作られた険(けわ)しい地形をうまく利用し、城の守りに取り込(こ)んで、国境を越えて来た敵の兵力を迎(むか)え撃つことが出来るような構造(こうぞう)へと改修したのです。
天正(てんしょう)14年(1586)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の軍勢に対しては、小田原城を中心にして、それを守るように領国内に築かれた100ヶ城に達する支城・枝城(えだじろ)・端城(はじろ)などと呼ばれる城や砦(とりで)などに籠(こも)りました。そして、各城が自由に連絡(れんらく)できるように張(は)り巡(めぐ)らした防衛(ぼうえい)のためのネットワークを利用し、抵抗(ていこう)しようとしたのです。
北条氏の治める領国内に入って来た豊臣軍の兵力を各地に分散させて小さな勢力とした後、食料や物資(ぶっし)を補給(ほきゅう)するための流れを止めて、守りから攻撃に転じて、小さくなった兵力を一つ一つ確実(かくじつ)に撃ち破っていこうとしたのです。しかし、20万人を越えるどうしようもない程の兵力差に対して、この作戦はまったく通用しませんでした。次々と、城が落とされ小田原城は孤立(こりつ)してしまい、降参するしか方法が無くなってしまったのです。
小机城の小曲輪南下の横堀(左)と本丸北下の横堀です(右)。このように、小田原北条氏の城は延々(えんえん)と横堀で囲い込む構造が多く見られます
津久井城(考証:西俣総生/作画:香川元太郎)
武田氏の侵攻を押さえるために築かれた相模国の防衛上、重要な城でした。そのため、改修を重ね防御能力を強固にした山城(やまじろ)となりました
今日ならったお城の用語
支城(しじょう)
領主が居住(きょじゅう)する本城(居城)を補助するために築かれた城です。その形やありさまは、何を補足・保管するかによって様々でした。枝城・端城も同じ目的を持つ城です。
横堀(よこぼり)
曲輪の防備を固めるために曲輪を廻るように設けられた堀のことです。等高線と平行になるように掘られます。広大な規模を持つ場合が、多く見られます。
堡塁(ほるい)
敵の攻撃を防ぐために、造った陣地のことです。一つで、出城(でじろ)のような防備施設となるものもあれば、いくつかを連ねて本城を守ることもありました。
角馬出(かくうまだし)
外側のラインがコの状に四角形になる馬出のことです。
堀障子(ほりしょうじ)
水の無い空堀(からぼり)の中を畝(うね)で仕切った堀を呼びます。畝だけで仕切った場合を「畝堀(うねぼり)」、障子の桟やお菓子のワッフルのように「田」の字型の畝を配置した堀を「障子堀(しょうじぼり)」と呼んだりします。
枝城(えだじろ)
支城と同じ意味の城のことです。本城を根城(ねじろ)と言うのに対し、支城を枝城、又(また)は「出城」とも呼んだりもしました。
端城(はじろ)
本城に付属した小規模な城のことで、支城、枝城と同じです。時代や地域によって、「端城」ともよばれたりしました。
次回は「様々な中世城郭2 甲斐武田氏の城」です。
加藤理文(かとうまさふみ)先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。