理文先生のお城がっこう 歴史編 第21回 土の城の終わりを告げた合戦

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。21回目の今回は、戦国時代に盛んに造られた土の城の限界を示す戦いとなった、豊臣秀吉による小田原城攻めについて解説します。どのような戦いが繰り広げられたのでしょうか。



■理文先生のお城がっこう
前回「第20回 戦国時代の攻城戦と籠城」はこちら

豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原城攻(ぜ)めは、代表的な長期戦のひとつでした。敵(てきがた)小田原城の周囲に付城(つけじろ)(攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城です)を築(きず)いて取り囲んだだけでなく、相模湾(さがみわん)の海上にも船を停泊(ていはく)させ、封鎖(ふうさ)したのです。これにより、小田原城の補給路(ほきゅうろ)は完全に絶(た)たれ、完全に孤立(こりつ)してしまいました。天正18年(1590)4月3日に始まった包囲戦は、3か月を経(へ)た7月5日に北条氏直(ほうじょううじなお)が開城降伏(こうふく)することで決着を見ました。

これにより、戦国大名後北条氏(小田原北条氏)は滅亡(めつぼう)し、秀吉による天下統一(とういつ)が完成しました。この小田原合戦に参戦した武将(ぶしょう)たちが、土の城の限界(げんかい)を思い知った戦いが、山中城攻防(こうぼう)戦でした。この戦いこそが、戦国時代に数多く造(つく)られ堅固(けんご)さを誇(ほこ)った土の城の終わりを告げる戦いになったのです。

豊臣秀吉の小田原攻め

豊臣秀吉が集めてまとめた小田原を攻めるための軍隊は、今までに例がなく、これからもあり得ない程(ほど)の凄(すご)い軍隊でした。本隊(中心となる主力の部隊のことです)は約16万、これに水軍(船に乗って戦闘する兵力をいいます。海軍とも言われたりします)2万、上野国(こうづけのくに)(今のほぼ群馬県のことです)から北条領内(りょうない)に攻め込む別動隊(本隊と離れて活動し、本隊の行動を有利に導くための隊のことです)3万5千でした。北条方から見れば実に22万もの大軍が四方から一挙に襲(おそ)いかかってきたことになります。

対する北条氏は、小田原城に約5万余の軍勢で籠城(ろうじょう)(城に籠って、敵の攻撃を防ぎながら、攻め手が食べ物や武器がなくなるのを待つ戦法です)することとし、直接(ちょくせつ)戦うことを避(さ)けたのです。前線(戦場で敵に直接向かい合っている所のことです)にあたる山中(静岡県三島市)、韮山(にらやま)(静岡県伊豆の国市)、足柄(あしがら)(静岡県小山町、神奈川県南足柄市)の3城に精鋭(せいえい)(えり抜きのすぐれた兵士のことです)部隊を送り込(こ)んで迫(せま)りくる豊臣軍に備(そな)え、箱根山中での持久戦(じきゅうせん)(時間をかけて敵の消耗や援軍の到着などを待って戦う方法です)を考えていたのです。また、北関東から攻め込(こ)まれる危険性(きけんせい)もあることを考え、松井田城(まついだじょう)(群馬県松井田町)、館林城(たてばやしじょう)(群馬県館林市)にも兵を派遣しています。北条氏全体の兵力は、約8万人であったとされています。

豊臣軍と比較(ひかく)し、その兵力差はどうにもならない状態でしたが、実はそれより大きな差が兵士の質(しつ)でした。北条氏政(うじまさ)・氏直は、領内の村々の郷村(ごうそん)(村の人々が集まって、共同して村を運営する形態のことです)の成人男子にも武装(ぶそう)を命じて動員した記録が残されています。北条軍は、こうして5万6千人程の農民兵を集めていますので、農民兵が主力部隊だったことになります。対して、豊臣軍は、すでに兵農分離(へいのうぶんり)(兵士と農民を分けて、武士が戦いに専念できるようにすることです)が進み、常備軍(じょうびぐん)(戦いの時だけでなく、戦いの無い時でも組織され、軍事訓練などを行っていた軍隊のことです)が主力でした。

この大軍を前にして氏政・氏直は、かつて上杉謙信(うえすぎけんしん)及び武田信玄(たけだしんげん)の大軍を、小田原城に籠城して勝った経験(けいけん)を活かし、小田原城に籠城する戦法をとることになりました。長期戦になることで、大軍の豊臣軍の食料や武器(ぶき)が不足し、囲いを解(と)いて帰っていくことをねらったのです。この勝つために考えたシナリオを確実(かくじつ)にするため、豊臣軍の主力部隊が通ることが予想される東海道沿(ぞ)いの山中、韮山、足柄の3城に精鋭部隊を派遣(はけん)し、箱根山中での持久戦になるような作戦をとったのです。

韮山城、足柄城
山中城を中心として、韮山城(左)と足柄城(右)の三城で豊臣軍を足止めしようとするのが北条方の作戦でした

山中城の大改修

山中城は、標高580mの箱根山中腹(ちゅうふく)に位置しています。後北条氏が、領国(りょうごく)(領土としている国)の境(さかい)を守るために、永禄年間(1558~70)後半頃(ごろ)に築いたと考えられています。秀吉と対立する可能性が高まった天正15年(1587)以降(いこう)、大がかりな城の改修(かいしゅう)が実施(じっし)されました。領内には城の普請(ふしん)(造ったり修理したりすることです)のための人足督促状(にんそくとくそくじょう)(土木工事・荷役などの力仕事をする労働者を出すように要求する手紙のことです)も出されています。

当初は、小田原へと続く街道を押(お)さえる関所(せきしょ)(交通の要所に置かれた通行する人を調べるための施設です)の役割(やくわり)をする目的だったのですが、豊臣軍を迎(むか)え討(う)つために、北条氏が持つ最も新しい技術(ぎじゅつ)力を使って守りを固めた城に作り直したのです。街道を進むことが予想される豊臣軍に備えるために、街道に沿って守りを固める構造(こうぞう)にしたため、城が長く伸(の)びすぎて、出丸と主要部が切り離(はな)されるような形にならざるを得ませんでした。さらに傾斜(けいしゃ)が急で険(けわ)しい地形であったために、各曲輪(くるわ)間を繋(つな)いで協力して敵に備える機能(きのう)が低くなってしまったのです。北条方は、それに気づくことなく、少しも手落ちのない構(かま)えの城だと自信を持って、豊臣軍を待ち受けたのです。

岱崎出丸
箱根へ向かう豊臣軍に対し、側面から攻撃を仕掛ける拠点として築かれたのが岱崎出丸でした。街道側には、北条氏特有の堀障子(ほりしょうじ)が設けられています

山中城の戦い

3月29日早朝、豊臣軍約7万人の軍勢(ぐんぜい)が山中城を取り囲みました。右翼(うよく)(右側に突き出た部分の事です)に池田輝政(いけだてるまさ)以下2万人、左翼(さよく)に徳川家康(とくがわいえやす)以下3万人、そして中央に総大将(そうだいしょう)の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)以下、中村一氏(なかむらかずうじ)、一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)、山内一豊(やまうちかつとよ)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)など、総勢2万人と三手に分かれて布陣(ふじん)しました。これに対する山中城兵は、城主松田康長(まつだやすなが)以下約4千人で、その兵力差は実に17倍だったのです。

小田原城、西櫓
南側に突出し三方を土塁で囲み、さらに周囲に堀障子を設け防御を強固にしたのが西櫓です。西の丸とは木橋によって連絡していましたが、戦闘に備え切り落とされていたのかもしれません

戦いは岱崎出丸(だいさきでまる)と西櫓(やぐら)から開始され、非常(ひじょう)にはげしい銃(じゅう)を撃(う)ち合う戦いになりました。部隊の先頭に立って、兵士の数に頼(たよ)って一気に攻め寄(よ)せた一柳隊は、全体の隊形や陣形(じんけい)が完全に乱(みだ)れてしまうような激(はげ)しいダメージを受けてしまいます。総大将の直末が、偶然(ぐうぜん)たれた弾(たま)に当たり戦死してしまいました。一柳隊と共に攻め寄せた中村隊が、岱崎出丸にしつこく攻撃を繰(く)り返し、出丸の中に入ることに成功すると、戦いの場は二ノ丸、本丸へと広がりました。

城の中に入ってしまえば、後は圧倒(あっとう)的な兵力差が効果を発揮(はっき)しました。山中城守備(しゅび兵は程なく完全に押さえつけられてしまい、城主松田康長も戦死、正午過ぎに落城(らくじょう)してしまいます。両軍の戦死者約2千人ともいわれ、戦国時代で最も大きな攻城(こうじょうせん)(城を攻め落とすための戦いです)次の世代の人に次々と語って伝えられていくことになります。

山中城、西櫓
西の丸より見た元西櫓と二の丸、本丸方向 各曲輪間には障壁を持つ堀切が掘られ防御を強固にしていました。曲輪間は木橋で接続していました

北条氏が、最新の技術でもって造り上げた城は、最も優(すぐ)れた土の城の完成した姿(すがた)であったと言っても必ずしも言いすぎではありません。しかし、あまりの兵力差によってわずか半日しか持ちこたえることができなかったのです。攻城戦に参加した7万人の軍勢だけでなく、落城の知らせを受けた豊臣秀吉の下に属(ぞく)する武将たちは、自分自身の体験として土の城の限界(げんかい)を思い知らされたのです。合戦後の功績(こうせき)を考え、その程度に応(おう)じて新たな領土(りょうど)を与(あた)えられた武将たちは、一人も残らず石垣(いしがき)で固めた城を築き上げていきます。

この戦いこそ、戦国時代に盛(さか)んになって栄えた土の城の限界を示(しめ)す戦いになったのです。以後、豊臣秀吉の下に属する武将たちは、石垣造(づく)りの城を造ることを目指していくのです。

お城がっこう歴史編,加藤理文
山中城推定復元イラスト(考証:加藤理文/作画:香川元太郎)
箱根旧街道を城内に取り込み、進撃する敵軍をせん滅しようとする構造でした

今日ならったお城の用語

付城(つけじろ)
敵の城を攻めるに時に、攻撃する軍の拠点として築いた小さな城のことです。支城としても使われることもありました。通常、曲輪の数は1~2ヵ所程度の規模でした。

土の城(つちのしろ)
石垣が構築される以前に築かれた、土を切り盛りして防御を固めた中世段階の城のことです。堀や土塁に工夫が凝らされている城が多くあります。近世になっても、東国では土が主体の城が多く見られます。

持久戦(じきゅうせん)
城を攻めたり守ったりする戦いにおいて、時間をかけて敵の消耗や援軍の到着などを待って戦う方法です。

常備軍(じょうびぐん)
戦いの時だけでなく、戦いの無い時でも組織され、軍事訓練などを行って、いつでも戦うことが出来るように準備していた軍隊のことです。

攻城戦(こうじょうせん)
城を攻め落とすための戦いのことです。城を完全に破壊してしまうと言うことはごく稀でした。攻め落とした城は、再利用することが多かったということです。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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