理文先生のお城がっこう 歴史編 第25回 近江守護、佐々木六角氏の城

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。25回目の今回は、近江守護の佐々木六角氏が拠点とした観音寺城に注目しましょう。実はこのお城、総石垣造りで有名な安土城よりも前に本格的な石垣が築かれていたのです!



■理文先生のお城がっこう
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近江国(おうみのくに)は鎌倉(かまくら)時代のはじめ、佐々木氏が守護(しゅご)(国単位で置かれた軍事活動の指揮官(しきかん)であり、政策(せいさく)を決定し実行する役職です)職を幕府(ばくふ)から命じられました。それ以来、嫡流(ちゃくりゅう)(本家を継承(けいしょう)する家系(かけい)です)の六角(ろっかく)氏、庶流(しょりゅう)(本家より分かれた一族のことです)の京極(きょうごく)氏を中心にして佐々木一族が繁栄(はんえい)を極めることになります。戦国の世になると、土地や年貢(ねんぐ)の管理をしていた有力な地元の武士(ぶし)が力をつけるようになりました。そして、地方をまとめて支配(しはい)をするようになった有力者を国人領主(りょうしゅ)と呼(よ)んでいます。近江の中で、国人領主として力をつけ、六角氏や京極氏と戦って、戦国大名(幕府の命令を無視(むし)して独自(どくじ)に領地(りょうち)を支配するようになった有力者のことです)として北近江一帯を支配下に置いたのが浅井(あざい)氏でした。

観音寺城
観音寺城最盛期の推定復元イラスト(監修:中井 均/作画:香川元太郎)
山麓(さんろく)の御屋形(おやかた)の脇の追手道がまっすぐと山上部の城へと続いていました。御屋形の南側には石寺新市が広がり、その先に東山道が通っています

観音寺城と佐々木六角氏

佐々木氏は、当初佐々木荘小脇(滋賀県八日市市)に館を建てて住まいとしていました。やがて、支配する地域(ちいき)の拡大(かくだい)に伴(ともな)って、住まいを金田金剛寺(かねだこんごうじ)城(滋賀県近江八幡市)へと移(うつ)しました。南北朝時代になって、各地で争いが多く起こるようになったため、平地に築(きず)かれた金剛寺城から、自然の要害の地にあり守りやすい観音寺(かんのんじ)滋賀県近江八幡市)へと移り住むことになります。いつ頃(ごろ)から築かれ始めたかは、はっきりしませんが、建武(けんむ)3年(1336)には築かれ始めていたようです。これ以後、織田信長に攻(せ)められ、義賢(よしかた)・義治(よしはる)父子が城を捨(す)てて逃(に)げ出した永禄(えいろく)11年(1568)までの、およそ230年間にわたって近江守護の佐々木六角氏の本城だったのです。

観音寺城、繖山
近江八幡より見た繖山(観音寺城跡)、手前の低い山が安土山。繖山がいかに高い山であるかが解ります。左に広がるのは、西の湖です

標高約433mの繖山(きぬがさやま)全山のほとんどを城の範囲(はんい)として、現在(げんざい)までに確認(かくにん)された曲輪(くるわ)の数は1000にも達する、全国でも特に数え上げるに値(あたい)するほどの大きさを誇る山城です。この観音寺城で、一番驚(おどろ)くことは安土城滋賀県近江八幡市)より50年ほど前に本格(ほんかくてき)な石垣(いしがき)を使って造(つく)られた城だったことです。

当時の城は、ほとんどが土で切り盛(も)りした「土の城」でした。石が積まれている城もありましたが、それは曲輪(くるわ)が崩(くず)れないように土を留(と)めるために積み上げた1mたらずのものでした。ところが観音寺城では、城の一番大事な場所とその周辺である本丸・平井丸・池田丸に、高さが3~5mもある石垣を積んでいたのです。もちろん、近世の城とは違(ちが)って、石垣の上に直接(ちょくせつ)「櫓(やぐら)」や「塀(へい)」が建てられていたわけではありません。

観音寺城、石垣
(左)伝平井丸の南西隅角の石垣。巨石を、ほぼ垂直に積んでいます。
(右)伝池田氏屋敷跡の南側、女郎岩の先にある大石垣。「見せるために積まれた石垣」で、城下や追手道(表道)からは、累々と続いて見えたはずです

発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)では、曲輪の中から大きな礎石(そせき)の建物群が見つかっています。京都の相国寺(そうこくじ)に置かれていた鹿苑院(ろくおんいん)僧録司(そうろくし)(各地の禅宗寺院を支配して、その人事を役目として仕事をする機関のことです)の代々の日記を中心にまとめた記録集である『鹿苑日録(ろくおんにちろく)』に、「屋形二階」と記録されていることから、二階建ての建物があったこともわかります。当時の城としては、非常(ひじょう)に進んだ形をした城だったのです。

現在、城跡の中で最も古いと考えられるのが山の麓(ふもと)に設(もう)けられた伝御屋形(おやかた)跡(現天満宮(てんまんぐう)社地)の石垣で、天文年間(1532~55)に積まれたと推定されています。石垣の隅角部(すみかどぶ)算木積(さんぎづみ)はまだしっかりとしておらず、稜線(りょうせん)(一番隅の石で三角形の頂点(ちょうてん)になる線のことです)はまっすぐにはそろっていません、角度もほとんどなく直角に近い状態(じょうたい)で積み上げられた石垣です。残された記録類から、金剛輪寺(こんごうりんじ)の中で寺を建てたり修理(しゅうり)をしたりする集団であった西座(にしざ)の人たちが積んだとされています。佐々木六角氏は、近江にいたこうした技術者の集団を自由に使用できるだけの力を持っていたことがわかるのです。

観音寺城、石垣
山麓の六角氏の屋敷地の前面の石垣で、観音寺城で最も古い時期に積まれたと考えられています。ほぼ垂直に積まれ、矢穴痕も残されています

六角氏がその居城(きょじょう)である観音寺城で石垣を使ったことによって、六角氏と主従(しゅじゅう)関係を結んでいた国人領主たちも、自分の城に石垣を使うようになりました。佐生(さそう)、布施山(ふせやま)城、小脇山(おわきやま)城(滋賀県東近江市)、小堤城山(こつづみしろやま)星ヶ崎(ほしがさき)(滋賀県野洲市)などでも小規模(きぼ)ですが、石垣が残されています。近江では、こうして六角氏を中心に16世紀の中頃から各地の城に石垣が使われるようになっていったのです。

佐生城、星ヶ崎城、石垣
佐生城跡に残る石垣(左)と星ヶ崎城跡の石垣(右)です。六角氏と主従関係にあった有力国人たちも、城に石垣を採用するようになったのです

今日ならったお城の用語(※は再掲)

礎石建物(そせきたてもの)
建造の柱を支える土台(基礎)として、石を用いた建物のことです。柱が直接地面と接していると湿気や食害などで腐食や老朽化が早く進むため、それを防ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。

※算木積(さんぎづみ)
石垣の隅部で、長方形に加工した石材の長辺と短辺が、一段ごとに互い違いになるように組み合わせて積む積み方をいいます。天正年間(1573~92)頃に始まりますが、積み方として完成したのは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後のことです。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
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公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。




※「城びと みんなの投稿」より一部画像引用…佐生城:いわぴいさん、星ヶ崎城:トーダイさん

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