超入門! お城セミナー 第74回【歴史】四国には天守があるお城がたくさんあるって本当?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、四国の城について。四国には、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城といった現存天守をはじめ、多くの個性豊かな城郭が残っています。それらの城は、どのようにして現代まで生き残ったのか。四国の城郭の歴史を紐解いてみましょう。

松山城本壇
松山城本壇。天守群は天明4年(1784)に落雷で焼失したが、嘉永5年(1852)に再建された。現存天守中最も新しい天守である

四国には現存天守の三分の一が建っている!!

江戸時代までに築造されて現在まで残っている「現存天守」は、日本全国に12基しかないとても貴重な文化財です。12基それぞれにストーリーがあり、それを知って天守を見学すると、「よくぞ今まで残ってくれた」とまさにムネアツですよね。さて、その現存12天守のうち、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(同)、高知城(高知県)の4基は、四国地方にあります。これは現存天守の三分の一を占める割合になりますが、一体なぜ四国にこれほど多くの天守が残っているのでしょうか? 今回は、四国地方の城の歴史を振り返りながら、この疑問を解き明かしていきましょう。

実は四国は、櫓や門などの天守以外の城郭建築物の残存数も全国一。高知城は、天守・本丸御殿・城門・多聞櫓・土塀が完存する唯一の例ですし、松山城・高松城大洲城(愛媛県)・西条陣屋(同)も貴重な現存櫓や門の宝庫です。瀬戸内海など海に囲まれた四国地方は、古くから海運の要衝として重要視されていました。そのため、近世城郭も中国地方に次ぐ数が築かれています。これに加え、太平洋戦争の空襲被害が比較的少なかったことが、残存率の高い最大の要因だと考えられます。

また、四国の城は実に個性が豊かです。徳島城(徳島県)や松山城などは中世城郭の趣を残す山麓居館を備えた城ですし、平山城の中でも丸亀城・宇和島城・高知城などは本丸のある丘が高い例、大洲城や徳島城は逆の低い例。そして、代表的な海城である高松城・宇和島城・今治城(愛媛県)も四国にあります。

天守の個性も様々で、現存4天守だけ見ても以下の通り。

●丸亀城天守…一二三段の壮大な高石垣の上に建つ、現存最小(元は三重櫓)の愛らしい天守
丸亀城天守
幾重にも重なる石垣上にそびえ立つ天守は、丸亀城でしか見られない光景だ

●松山城天守…幕末の天守で築造年代が最新。穴蔵付きで、小天守や櫓と連結した連立式
松山城天守
上空から見た松山城本壇。天守は、大天守、小天守、南隅櫓、北隅櫓の5基の建物を多門櫓でつないだ、複雑な構造になっている

●宇和島城天守…新式の層塔型天守最末期の姿。玄関に来客用の式台がある泰平の世の天守
宇和島城天守
伊達氏が寛文6年(1666)頃に改修した層塔型天守。高さは約15.7mと小ぶりだが、破風が多数使われた格式高い外観である

●高知城天守…天守台がなく御殿と直結。廻縁や高欄付きの、古式でどっしり重厚な望楼型
高知城天守
高知城は、本丸御殿と天守の両方が現存する唯一の城。江戸時代中期に火災で城の建物がほとんど失われており、現在の天守は寛延2年(1749)に再建されたものである

現存天守が多い理由は、空襲が少なかったから!?

こうしたバラエティーに富んだたくさんの近世城郭を四国に築いたのは、他の地方から転封してきた大名たちです。彼らが四国に近世城郭を築いた時期は、大きく3つに分けられます。

①豊臣政権下の築城
豊臣秀吉に大名に取り立てられた東海・近畿地方出身の生駒親正・蜂須賀家政・藤堂高虎がそれぞれ高松城徳島城宇和島城を築城。石垣・水堀・天守といった先進的な近世城郭の技術を四国に持ち込みました。

②関ヶ原の戦い後の「慶長の築城ラッシュ」
関ヶ原の戦功によって四国に領地を得た有力な外様大名たちがこぞって築城を行い、四国に大城郭が林立します。山内一豊の高知城、加藤嘉明の松山城、藤堂高虎の今治城、脇坂安治の大洲城再修築など。

高知城、山内一豊像
高知城に立つ山内一豊像。一豊は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとで活躍し、土佐藩の初代藩主に出世した

③元和の一国一城例・武家諸法度公布後
城の新築や増築・改修が禁止されていた時期ですが、藩主交替などの例外措置で、城郭の改修が行われました。山崎家治(やまざきいえはる)の丸亀築城と次の城主・京極氏による天守(三重櫓)の築造。また、松平頼重(まつだいらよりしげ)が高松城大改修、伊達秀宗(ひでむね)・宗利(むねとし)が宇和島城大改修などを行っています。

こうして見てみると、四国に多くの城が築かれたこと、その城たちの個性が豊かなことは、築城の時期が3つの時期に分かれていたから、また全国各地からやって来た築城主の個性・好みが反映されていたからだと考えられますね。

先に触れたように、中国地方は四国にも増して近世城郭が多く築かれた地方でしたが、城郭建築の残存数が四国を下回っているのは、やはり太平洋戦争の空襲が原因でしょう。軍港で、海軍直営の軍需工場があった広島の呉は重要な軍事拠点だったため頻繁に標的となり、そのため、中国地方(瀬戸内海北岸地域)は空襲の被害が大きかったようです。原爆によって倒壊した広島城(広島県)をはじめ、福山城(同)、岡山城(岡山県)など中国地方の天守の多くは、空襲によって失われました。

原爆投下後の広島城天守台コピー禁止
原爆投下後の広島城天守台。天守は爆風により上層から崩れ落ちた(林重男撮影/広島平和記念資料館提供)

四国でも高松・徳島・松山・高知など、やはり大きな空襲があり城も被害を受けましたが、すでに天守がなかった徳島城以外の3城の天守は焼失を免れています。(丸亀城は空襲にあっていません)

今治市、地図
松山市は1945年7月26日の大空襲によって中心部が壊滅状態となる(写真の赤網部分)。松山城も11棟の建物を失う被害にあったが、天守は無事だった(国立公文書館蔵)

一概に言えることではありませんが、戦後にまとめられた空襲の被害状況を見てみると、四国地方の被害は中国地方に比べると少なく、やはりこれが城郭建築の残存数と関係しているのでしょう。

城は、元々軍事施設として造られた建物。太平洋戦争でも軍の施設として使われた城は多く、戦争で多数の城が失われてしまったのは、ある意味仕方ないことかもしれません。しかし、戦後に広島城や名古屋城などの天守が復興の象徴とされたように、近代以降、城が地域のシンボル、市民の心のよりどころとなっていたことも事実です。そんな貴重な建造物が、恒久的に日本人の宝として受け継がれていくように、戦争のない日々が続くことを祈るばかりです。

夏にオススメの近世城郭がたくさん残る四国。現存4天守をはじめ、個性的な城たちに会いに、この夏は四国の城をめぐる計画を立ててみませんか?



執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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