逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将まとめ【西日本編】

戦国時代を彩った武将たちと、彼らが関わった合戦や城を紹介する「逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将」。【西日本編】では、関西、中国、四国、九州などの地域でその名を馳せた武将たちををクローズアップし、その波乱万丈の生涯と共に「ゆかりの城」を見ていきましょう。

【明智光秀】安土城より前に“石垣の城”を手がけた築城の名手

明智光秀
「太平記英勇伝」に描かれた明智光秀。着物に描かれた桔梗の花は明智家の家紋だ(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

主君である織田信長を裏切った本能寺の変で広く知られる明智光秀。そうした“天下の謀反人”、または信長の革新性についていけなかった“常識人”など、光秀のイメージは人によって大きく異なるのではないでしょうか。

信長に見出されて歴史の表舞台に現れた光秀は、比叡山延暦寺焼き討ちなど数々の武功が認められ、家臣の中で領地持ちの武将第1号となるまで出世。琵琶湖沿岸に築いた坂本城(滋賀県)をはじめ、丹波攻めの拠点・亀山城福知山城(ともに京都府)など近世城郭の“石垣の城”を築城・改修していきました。

福知山城の天守
福知山城の天守。現在は当時の石垣の上に1986年に再建された天守が立っている

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第3回【明智光秀】「天下の謀反人」は築城上手なカリスマだった!?

【長宗我部元親】“四国の雄”と信長の対立が本能寺の変の引き金に?

長宗我部元親像
長宗我部氏代々の居城・岡豊城跡にある高知県立歴史民俗資料館の長宗我部元親像

“土佐の戦国七雄”に数えられた一族に生まれ、一度は滅亡した長宗我部家の再興を託された元親。岡豊城(おこうじょう)(高知県)を拠点に次々と近隣土豪を制圧し、佐を四分する勢力へと返り咲き。やがて土佐を平定し、四国統一を目指します。

明智光秀の仲介で織田信長と同盟を結んで「四国切り取り自由」の許可をもらい、交通の要所にある白地城(はくちじょう)(徳島県三好市)を攻略して四国統一の拠点とした元親。しかし、信長が元親との同盟を突然破棄したため光秀の面目が潰され、このことが後の本能寺の変のきっかけになったともいわれています。

岡豊城から望む高知平野
岡豊城から望む高知平野

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第14回【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生
第15回【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?

【大友義鎮(宗麟)】北九州を治めたキリシタン大名の栄光と失意

大友宗麟像
JR大分駅に立つ大友宗麟像。“キリシタン大名”のイメージのまま、西洋風のマントと十字架を身につけている

豊後国を治める大友氏の家督を21歳の若さで相続した義鎮は、徐々に勢力を拡大して北九州6カ国を統治。豊後・府内の中心に置かれた大友氏館を本拠地に、また天然の要害・臼杵城(うすきじょう)(大分県)を防衛拠点としていました。なお、大友氏館は近年発掘調査が進んでいて、かつての姿が明らかになりつつあります。

一方、義鎮は豊後でのキリスト教の布教を認めると同時に西洋文化を積極的に取り入れ、領地を発展させていきました。しかし、この徹底したキリスト教の保護は大友氏家臣団の離反を招き、大友氏が斜陽化するきっかけになったのです。

大友宗麟、大友氏館
大友氏館発掘調査では、「景石(かげいし)」という庭園の景観を整える目的で設置された石が多数発見された(大分市教育委員会提供)

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第7回【大友義鎮(宗麟)】6カ国の太守はキリスト教国家建国を夢見た!?

【松永久秀】戦国時代きっての悪人は天守をもつ城の先駆者?

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自害の前に平蜘蛛を叩きつけて粉々にする松永久秀。織田信長が欲しがった名物「平蜘蛛」に爆薬を仕掛け、爆死したとも伝わる(国立国会図書館蔵)

三好長慶の重臣として活躍した後に大和をほぼ手中に収め、信貴山城(しぎさんじょう)(奈良県)を居城とした松永久秀。その翌年にあたる永禄3年(1560)に築いた多聞山城(奈良県)は、天守に相当する4階建ての櫓が備わっていたといいます。もしかしたら織田信長は、多聞山城の天守を安土城の参考にしたのかも?

そんな久秀は、信長を2度も裏切るなど“戦国三大悪人”として悪名高い武将でもあります。彼が働いた3つの悪事とは? そしてそれは本当なのか?

松永久秀、多聞山城
多聞山城の遠景。信長の命により天正4年(1576)に城は破壊され、現在は中学校の敷地となっている

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第16回【松永久秀】派手な逸話に彩られた戦国きっての悪人の素顔

執筆・写真/かみゆ歴史編集部

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