逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第7回【大友義鎮(宗麟)】6カ国の太守はキリスト教国家建国を夢見た!?

「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」、第7回は北九州の覇者・大友義鎮(宗麟)(おおとも よししげ(そうりん))。豊後国の府内を本拠地とした宗麟は、西洋文化を積極的に取り入れたキリシタン大名として知られています。文化的な側面だけでなく、北九州6カ国を治めた武人でもありました。今回は宗麟の豊後での功績と、発掘調査の進む大友氏館(大分県大分市)、防衛拠点となった天然の要害・臼杵城(大分県臼杵市)について解説していきます。

大友宗麟像
JR大分駅に立つ大友宗麟像。“キリシタン大名”のイメージのまま、西洋風のマントと十字架を身につけている

大友宗麟

キリスト教を保護し、領国を発展させた大友宗麟

大友氏の勢力基盤を強固にした義鑑(よしあき)の子として、豊後国・府内で宗麟は誕生。そのまま順調に宗麟が家督を継ぐことになると思いきや、なんと父・義鑑は宗麟の暗殺を企てたのです。異母弟の塩市丸(しおいちまる)を後継にしたかったんですね。この家督相続の内紛を「二階崩れの変」と呼び、宗麟はこの内紛を治めたことで、21歳の若さで家督を相続。徐々に勢力を拡大していきます。肥後の菊池義武を滅ぼしたり、弟の晴英を大内氏の後継に据えたり…。九州だけでなく、中国地方にも影響力を与えていくようになりました。

大友館跡庭園
宗麟が生まれた大友館跡庭園の全景写真。2016年からの発掘調査により当時の規模で庭園が復元された(大分市教育委員会提供)

家督を継いだ翌年、宗麟はスペイン人宣教師・イエズス会のフランシスコ・ザビエルと謁見。彼を府内に招き、豊後でのキリスト教の布教を許可しました。以降、府内では活発に南蛮貿易が行われるようになります。当時のヨーロッパの世界地図では、九州に大きく“BVNGO(豊後)”と記され、宗麟が「豊後王」として名を馳せていたことがわかりますね。

また、南蛮貿易だけではありません。宗麟自らも、明や東南アジアと積極的に交易を行い、富を蓄積していきます。この財で官職の獲得を進め、九州6カ国の太守となりました。大友氏の最盛期を築きあげたのです。

豊後府内ではキリスト教文化が発展。宗麟はデウス堂(教会)や乳児院、コレジオ(教育機関)の建設を支援します。乳児院を建設したポルトガル人医師のルイス・デ・アルメイダは、日本で初めての外科手術を行った人物として、大分市内に記念像が建てられています。

西洋医術発祥記念像
大分市の遊歩公園にある西洋医術発祥記念像。中央がアルメイダ

キリスト教国家建国を目論見 しかし島津との衝突や家臣の反対を招くことに

宗麟はキリスト教を保護し、街を発展させていきました。しかし、この徹底したキリスト教の保護は、大友氏家臣団の離反を招くことに。北九州6カ国を治めていた大友氏が斜陽化するきっかけになります。

天正5年(1577)、薩摩・大隅を拠点としていた島津氏が勢力を拡大し、日向国へ侵攻を開始。日向を治めていた伊東義祐は、縁戚関係にあった宗麟を頼り、豊後へと逃れます。旧領復帰を願う伊東の願いを叶えるとともに、宗麟は日向にキリスト教国家の建国を夢見るように。もちろん日向へと進軍することは、島津軍との衝突を意味します。これに立花道雪ら家臣団は猛反対。しかしそれを押し切り、日向へと向かった宗麟は、寺社仏閣や仏像、経典などを破却。キリスト教国家の土台づくりを試みました。この行動は、家臣団の宗麟に対する不信感を増大させ、大友勢は統率が取れない状態でした。その状態を知るや知らずや、宗麟はキリスト教に改宗。洗礼名はドン・フランシスコ。宗麟自らが選んだ名前とされ、ザビエルの影響があると言われています。

ついに両軍は耳川で衝突。奮戦むなしく大敗した宗麟は、島津軍の勢いを抑えるため、豊臣秀吉に援軍を求めます。しかし、戸次川の戦いで仙石秀久ら豊臣軍は敗戦。豊臣軍をもってしても、島津軍の勢いを止めることができなかったのです。ついに豊後・臼杵城(大分県臼杵市)で島津軍との攻防戦が勃発。臼杵城は永禄4年(1561)の第2次門司城の戦いで、宗麟が毛利氏に敗戦した後、丹生島に築いた城です。周囲が海に囲われた天然の要害、宗麟の防衛拠点でした。

宗麟は南蛮貿易で手に入れた「国崩」と呼ばれたフランキ砲を用いて、勢いに乗っていた島津軍をなんとか退けることに成功。臼杵城を死守しました。宗麟は再度豊臣軍への九州出陣を要請しますが、島津氏が降伏するのを見届けることなく、失意のまま病でこの世を去りました。

臼杵城、フランキ砲
臼杵城跡にあるフランキ砲の複製。日本最初の大砲といわれるフランキ砲は、島津氏の猛攻を押しとどめることに成功した

宗麟のキリスト教保護により、府内や臼杵の街は大きく発展。現在の街並みの礎となりました。しかし寺社仏閣の破却など、キリスト教に傾倒するがゆえのいきすぎた行動は、人の心を簡単に離れさせてしまうものでした。宗麟がもう少しキリスト教とうまく付き合えていたならば…。北九州の覇者として、島津氏に対抗しうる力がまだあったかもしれません。

宗麟の支城と攻めた城とは

大友宗麟、支城と攻めた城

【居城】大友氏館(大分県大分市)
豊後・府内の中心に置かれた大友氏館は、一辺200メートル四方の方形。京都の将軍御所をモデルにした、守護館の姿であったと推定されています。平成10年(1998)の発掘調査では庭園跡が発見され、令和2年(2020)に一般公開。現在でも発掘調査が進んでいます。

大友宗麟、大友氏館
発掘調査では、「景石(かげいし)」という庭園の景観を整える目的で設置された石が多数発見された(大分市教育委員会提供)

ちなみに、日本100名城に選ばれている府内城(大分県大分市)。よく大友氏館の跡地に府内城が築城された…と思われがちですが、それは誤り。大友氏館よりも北西側、別府湾寄りに府内城は位置しています。福原直高によって築城された府内城は、宗門櫓と人質櫓が現存。県の指定文化財になっています。

府内城、人質櫓
府内城の人質櫓。大火や地震で何度か損壊したが、文久元年(1861)に再建された

【支城】臼杵城(大分県臼杵市)
臼杵湾を望む丹生島に築城された宗麟の隠居城。周囲は断崖絶壁で、天然の要害としての機能を果たし、堅固な守りをもっていました。石垣にはアルファベットのような刻印が見られる箇所もあります。

臼杵城、大門櫓
大手門近くの古橋口には、臼杵城跡の碑が建ち、復元された大門櫓を望む

【支城】岩屋城(福岡県太宰府市)
大友氏の家臣だった高橋鑑種(たかはしあきたね)が築城した城で、大友氏の筑前支配における拠点として機能していました。鑑種の離反により、高橋紹運(じょううん)が城主となります。九州統一を目指す島津氏の猛攻により、壮絶な戦いが繰り広げられた場所でもあります。

岩屋城
岩屋城本丸跡にある「嗚呼壮烈」の石碑が激戦を今に伝えている

【攻めた城】門司城(福岡県北九州市)
大友氏、大内氏、毛利氏との間で激しい攻防戦が行われた城。大内氏の城となるも、大内氏が没落。毛利氏と大友氏が争い、大友氏が門司城を勢力下に置いたあと、毛利氏の侵攻に敗れ、宗麟は室町幕府13代将軍・足利義輝に仲介を頼み、毛利氏と和睦交渉を開始します。交渉の結果、門司城は毛利氏の勢力下に置かれることになりました。

門司城
大内氏・大友氏・毛利氏の3氏の勢力が拮抗した門司城跡は、現在公園として整備されている

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(速川令美)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中!

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