逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第15回【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?

「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」第15回は、14回に続き、四国の雄・長宗我部元親の後半生に迫ります。四国をほぼ統一したのもつかの間、関白・豊臣秀吉の四国攻めによりその臣下に降った元親。そして秀吉の命により、嫡男・信親とともに薩摩の島津氏攻めのため、九州に渡ります。


▶前編の記事
第14回【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生

長宗我部元親像
長宗我部元親像(模写/東京大学史料編纂所蔵)

長宗我部元親

四国を制するも天下人・秀吉に敗れる

長宗我部元親は天正13年(1585)春、四国統一をほぼ成し遂げました。ところが、お祝いムードもつかの間、元親の苦労をひっくり返す書状が畿内からやって来ました。差出人は天下統一への道を突き進む羽柴(豊臣)秀吉。「讃岐・伊予を返上せよ。大人しく従えば残り2か国は安堵するが、拒否すれば討伐する」という内容でした。

羽柴秀吉
主君・織田信長亡き後、敵対者を滅ぼしながら天下統一の道を突き進む羽柴秀吉。彼の次なる標的は、元親が切り従えた四国であった

元親にとって四国は多くの犠牲を払って得た領土。その内の2か国も差し出すなど、とうてい従えるものではありません。そこで元親は、「伊予1国の返上以外は応じられない」と返答します。これにより、交渉は決裂。賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いで元親が秀吉の敵方に手を貸していたことも相まって、激怒した秀吉は配下の大名に命じて10万とも12万ともいわれる大軍を招集し、四国に攻め寄せました。

元親も秀吉軍を迎え撃つ覚悟を決め、準備を開始。秀吉軍の攻め口を阿波と予想し、一宮城(徳島県)、渭山(いのやま)城(徳島城/徳島県)、木津城(徳島県)などに重臣たちを配置して防御網を形成。自らは白地城(徳島県)を拠点として陣頭指揮をとりました。そして、天正13年(1585)6月、いよいよ秀吉の弟・秀長を総大将とする大軍が四国に上陸します(秀吉は病のため、岸和田城に在陣)。

ところが羽柴軍の動員力は元親の予想を超えていました。攻め口と想定していた阿波だけでなく、羽柴軍は讃岐、伊予からも四国に侵入。ただでさえ兵力で劣る長宗我部軍は、兵を分散させたことで木っ端の如く吹き払われ、支城を守る将たちも土佐へ敗走。勝敗を決する重要拠点であった一宮城は、南城・北城が連係して防御を行う堅城でしたが、これも秀長軍に攻められ落城してしまいます。厳重な守りを敷いたはずの阿波戦線はあっけなく崩壊。伊予・讃岐も次々と羽柴軍に蹂躙されていきます。

一宮城
一宮城登城口。複数の川と険しい山に守られた要害の地であるが、数万の大軍の前に敗れてしまう

一宮城の戦いで秀吉軍の強さを目の当たりにした谷忠澄(たにただずみ)は、白地城に走り、元親に降伏するよう説得。元親は激怒し、忠澄を「未練者」「一宮城に帰って切腹しろ」と罵りますが、重臣たちは根気強く説得を繰り返します。最終的に元親も頭が冷えたのか忠澄らの言葉を受け入れ、羽柴軍に降伏を申し入れました。

秀吉に盾突き敗れた元親には、開戦前よりも厳しい降伏条件が突きつけられます。長宗我部家に許された領地は土佐1国。他の3か国は没収され、阿波は蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、讃岐は仙石秀久(せんごくひでひさ)、伊予は小早川隆景(こばやかわたかかげ)に与えられてしまいました。

悔しさを飲みこみ秀吉に従うが…

かくして、豊臣政権(四国攻め後、秀吉は「豊臣」姓を朝廷からもらいました)の配下となった元親。早くも降伏翌年の天正14年(1586)に、豊臣軍として戦に向かうこととなります。以前から秀吉に味方していた大友宗麟が薩摩の島津軍に攻められ救援を要請したため、元親たちが先遣部隊として九州に派遣されることになったのです。ともに九州へ向かうのは、嫡男の信親と、長年元親と争ってきた十河存保(そごうまさやす)。そして没収された讃岐の国主となった仙石秀久が軍監に付けられました。昨年まで敵だった武将との出陣に元親は不安を覚えたことでしょう。

九州に上陸し宗麟の子・義統(よしむね)と合流した先遣部隊にもたらされた九州情勢は、想定以上に悪いものでした。大友軍は有力家臣を失い島津軍に寝返る者も続出していたのです。秀吉は秀久に豊臣本隊が到着するまで待つよう命じますが、すでに宗麟の本拠地・府内城(大分県)すらも危機的状況。軍監・秀久の独断で、鶴賀城(大分県)近くの戸次川畔に布陣し、島津軍に決戦を挑むことになります。

戸次川古戦場跡
戸次川古戦場跡。島津軍の大将・島津家久は当主・義久の末弟で、武勇に優れた指揮官だった

先遣部隊の襲来を知った敵の大将・島津家久は、一時退却の動きを見せますが、これは相手をおびき出して逆襲に転じる、島津軍の必勝戦術「釣り野伏せ」でした。しかしそうとは知らない仙石隊は島津軍を深追い。まんまと釣り野伏せにひっかかり、先遣部隊は壊滅してしまいました。秀久は逃亡、大友義統と元親も敗走を余儀なくされます。そして、戦場に踏みとどまった十河存保(そごうまさやす/ながやす)と元親の嫡男・信親は島津軍に討ち取られてしまったのです。信親の死を知った元親は後を追って自害しようとしますが、家臣たちに押しとどめられどうにか土佐へ帰国しました。

仙石秀久
戸次川の戦いを強行した仙石秀久。戦後、彼は命令違反と敗戦の責任を問われ改易される(模写/東京大学史料編纂所蔵)

失意の晩年と長宗我部家の滅亡

土佐へ戻った後も元親の悲しみは癒えませんでした。さすがに申し訳ないと思ったのか、秀吉から「大隅国を加増しよう」と打診されますが元親はこれも辞退。しかし、秀吉の気遣いには感謝していたようで、その後の小田原攻めでは遠方にもかかわらず水軍を率いて従軍し、朝鮮出兵でも自ら朝鮮半島に渡海するなど、積極的に秀吉の戦いに参加しています。

名護屋城
朝鮮出兵の本拠地となった名護屋城から対馬・韓国方面を望む(PIXTA)

悲しみを振り切るように戦に励む一方で、本拠地・土佐では不穏な空気が漂っていました。信親を忘れられない元親は、どうにか愛息の血筋を長宗我部宗家に残そうと、末っ子の盛親に信親の娘を嫁がせて後継者とすることを宣言。しかし、次男・親和、三男・親忠が健在だったため、家臣たちは猛反対します。元親は反対勢力の吉良親実らを粛清し、強引に盛親を後継者に据えたのです。

その後、元親は慶長4年(1599)に病没。元親の希望通り、盛親が当主となりました。しかし、盛親が関ヶ原の戦いで西軍についたために長宗我部家は改易。再起をかけた大坂の陣にも敗北し、徳川軍に捕らわれた盛親が斬首されたことで、長宗我部家は滅亡してしまいました。

長宗我部元親ゆかりの城

長宗我部元親ゆかりの城

【居城】大高坂山城(高知城/高知県高知市)
九州攻め後、元親が本拠地を移転するため築城を開始しますが、水はけが悪く断念。長宗我部家改易後、土佐国主となった山内一豊の居城となり、幕末まで土佐藩の政庁として使われました。天守と本丸御殿が現存する唯一の城です。

大高坂山城、高知城
幕末に再建された天守(shutterstok)

【居城】浦戸城(高知県高知市)
大高坂山城への本拠地移転を諦めた元親が新たな居城として改修した城。山内一豊の高知城移転により廃城となり、現在は石垣の一部や堀切などがわずかに残っています。

浦戸城
天守台の石垣

【支城】一宮城(徳島県徳島市)
四国攻めで激戦となった阿波の支城。約4万の羽柴秀長軍に攻められますが、谷忠澄をはじめとする城兵は20日も攻撃を耐えしのぎ、その後開城しました。四国攻め後に阿波を与えられた蜂須賀氏が築いた本丸の石垣が残っています。

一宮城
蜂須賀氏時代に造られた本丸虎口の石垣

「逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将」の他の記事:

執筆・写真/かみゆ歴史編集部(小関裕香子)
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』や日本中世史入門書の決定版『キーパーソンと時代の流れで一気にわかる 鎌倉・室町時代』(ともに朝日新聞出版)、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中。2022年4月にはお城の“ざんねん”な歴史や逸話を紹介する「ざんねんなお城図鑑」が発売!

関連書籍・商品など