逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第14回【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生

「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」、第14回と第15回は四国の覇者・長宗我部元親の生涯に前後編で迫ります。長宗我部氏21代当主として生まれた長宗我部元親は、父の意志を継いで土佐を平定すると、四国もほぼ統一しました。前編は出生から四国統一に迫る快進撃をご紹介します。


長宗我部元親像
長宗我部氏代々の居城・岡豊城跡にある高知県立歴史民俗資料館の長宗我部元親像

長宗我部元親

姫若子から鬼若子へ。初陣で大勝利を挙げた元親

長宗我部氏は「土佐の戦国七雄」にも数えられた一族です。しかし元親の祖父・長宗我部元秀(ちょうそかべもとひで/兼序とも)の代に本山氏ら近隣土豪に攻められ、本拠地の岡豊城(おこうじょう)(高知県南国市)は落城。一時、長宗我部氏は滅亡してしまいました。

この時、元親の父・長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)はわずか6歳。元服すると土佐の名門・一条氏の後ろ盾によって再び岡豊城に入り、「必ず家を再興せよ」という元秀の言葉を胸に、次々と近隣土豪を制圧しました。そして高知平野一帯を掌握し、本山氏、一条氏、安芸氏と並ぶ、土佐を四分する勢力へと返り咲いたのです。

岡豊城
元親が生まれた岡豊城。西・南・東側の斜面に畝状竪堀があった

岡豊城
岡豊城、三ノ段の礎石建物跡

天文8年(1539)、長宗我部元親はこの国親の嫡男として岡豊城で生まれました。しかし色白で物静かな少年だったため、「姫若子(ひめわこ)」と揶揄され、武将としては使い物にならないと思われていました。

永禄3年(1560)、因縁のライバルともいえる本山氏との間で長浜の戦い(高知市長浜)が起きました。この時、元親は武家の嫡子としては遅咲きの22歳で初陣(ういじん)を飾ることとなりました。

しかしこの時点で元親は槍の使い方さえ知らず、教えを請われた家臣は、なかばヤケクソ気味に「とにかく敵の目を突け」とアドバイス。元親は50人ばかりの部隊を引き連れて猛然と敵陣に攻めかかり、助言通りに槍を振るって敵兵2人を倒し、部隊は70もの首級を挙げました。

この元親の活躍に父も家臣も大いに驚き、「姫若子」から一変「鬼若子(おにわこ)」へと呼び名も代わり、家臣は元親に忠誠を誓ったといわれています。そして長宗我部軍は、本山軍の半分ほどの兵力だったにも関わらず、この戦いに勝利しました。

しかしこの直後に国親が病死。家督を継いだ元親は、「本山を駆逐することが一番の供養になると心得よ」という父の遺言通り、その後も本山氏を圧倒し続けました。そして朝倉城(高知県高知市)や本山城(高知県長岡郡)を攻め、永禄11年(1568)に本山氏を降して土佐中部を平定しました。

本山城
本山氏の本城・本山城跡。土佐中央部に進出した際は朝倉城を本城にし、長宗我部氏や土佐一条氏と覇権を争いました

元親の土佐平定、そして四国統一へ

長宗我部元親初陣の像
元親が陣を張った若宮八幡宮前の長宗我部元親初陣の像。まるで四国をつかみとろうとしているかのよう

土佐中央部を手に入れた長宗我部元親は、次に東土佐の雄・安芸氏と衝突。永禄12年(1569)に八流(やながれ)の戦いで安芸城に進撃すると、安芸氏の内部では寝返る者が続出。ついに降伏し、元親は土佐東部を平定しました。

残るは名門・一条氏のみ。長宗我部氏の興亡を描いた『土佐物語』(1708年成立)によると、一条氏の家臣達は元親に寝返り、一条兼定を豊後に放逐。兼定は岳父で豊後の戦国大名・大友宗麟の支援で土佐に攻め込みますが、天正3年(1575)の四万十川(しまんと)の戦いで大敗し、一条氏は滅亡。こうして元親は土佐を平定しました。

この長宗我部軍の強さの秘密には、一領具足(いちりょうぐそく)という制度があります。これは普段、農業を行っている兵達が、つねに田畑の脇に具足(ぐそく)や槍を置いて農作業を行い、戦が始まったという法螺貝(ほらがい)の合図とともに、その場から出陣していくというもの。『土佐物語』には、そんな長宗我部侍のことを「死生知らずの野武士なり」と記されています。

次に目指すは四国制覇です。『土佐物語』によると、長宗我部氏は秦の始皇帝の末裔とされ、元親も、「土佐一国の主で終わるのは亡き父の本意ではない。せめて南海・西海の王となりたい」という夢を描いていたといわれています。

中央との結びつきも考えていた元親は、まず明智光秀の仲介で織田信長と同盟を結び、「四国切り取り自由」の許可をもらいます。この時信長は「鳥無き島のコウモリ」(ほかに優れた人物がいないところの覇者)と笑って四国切り取りを許したといいます。そして元親の嫡男は信長から一字を賜わり、信親(のぶちか)と名乗りました。

そして元親は、四国の交通の要所にあり、「四国のヘソ」と呼ばれていた白地城(はくちじょう)(徳島県三好市)を攻略し、四国統一の拠点にしました。

当時の阿波と讃岐は、阿波の守護代から近畿一円にまで勢力を広げた三好氏の勢力下でしたが、その三好氏の阿波の拠点・岩倉城を計略によって降し、その一門の十河(そごう)氏も攻略すると、阿波と讃岐をほぼ制圧しました。

しかしこの時、織田信長が元親との同盟を突然破棄。三好氏と同盟を結ぶと、元親に土佐と阿波の南半分以外を返すよう要求しました。しかし元親はそれを拒否します。

この織田信長の行動は、織田・長宗我部同盟を仲介した明智光秀の面目も潰し、このことが、後の本能寺の変のきっかけになったともいわれています。

天正10年(1582)、ついに信長は四国侵攻を決定します。しかしその直前に明智光秀による本能寺の変が起きて信長は自刃。元親は九死に一生を得ました。

形勢が逆転した長宗我部元親は、天正10年(1582)に四国最大の城下町として栄えていた阿波の勝瑞城(しょうずいじょう)(徳島県板野郡)を攻めて十河存保を破り、阿波を平定。さらに天正12年(1584)には十河氏の本城の十河城(香川県高松市)を攻めて十河存保に勝利し、讃岐を平定。さらに伊予の西園寺(さいおんじ)氏と河野(こうの)氏を降し、四国をほとんど制圧しました。

さらに元親は中央での戦いでも、賤ヶ岳の戦い(天正11年・1583)で柴田勝家と、小牧・長久手の戦い(天正12年・1584)で徳川家康と組み、羽柴(豊臣)秀吉と対抗しました。

通説では、天正13年(1585)に四国は元親によって統一されたといわれています。しかし阿波・讃岐・伊予の各地に抵抗勢力が残存し、元親が四国全土を手中に収めたわけではなかった、という説もあります。そしてこれら反長宗我部勢力を影で支援していたのが羽柴秀吉でした。

次回は、関白・豊臣秀吉軍による四国攻めと、それに対抗した四国の雄・長宗我部元親の戦い。そして秀吉の臣下に降り、秀吉の天下統一事業の戦に参じた際に起きた元親・信親父子の悲劇など、長宗我部元親の後半生に迫ります。

長宗我部元親ゆかりの城と攻めた城

長宗我部元親ゆかりの城と攻めた城
 ※その他の攻めた城:朝倉城、安芸城、吉良城、栗本城、湯築城

【居城】岡豊城(高知県南国市)
鎌倉時代に地頭として土佐に入国した長宗我部氏代々の居城。築城は13〜14世紀といわれています。長宗我部氏は長岡郡を中心に勢力を広げ、戦国大名に成長。長宗我部元親の祖父の時に落城しましたが、父・国親が永正15年(1518)頃に再興。天正16年(1588)に元親が大高坂城(現在の高知城)に移るまで居城としました。

岡豊城、本丸
岡豊城の本丸跡

岡豊城から望む高知平野
岡豊城から望む高知平野

【支城】白地城(徳島県三好市)
四国中央部の山間地域にあり、西に伊予国、北に讃岐国、東に徳島平野へと続く阿波国の中心。建武2年(1335)に近藤氏が城を構えて大西氏を名乗り、以来250年統治。天正5年(1577)に四国統一を目指す長宗我部元親が攻略、豊臣秀吉の四国攻めの際は、長宗我部軍の防衛拠点になりました。

【攻めた城】勝瑞城(徳島県板野郡)
鎌倉時代に小笠原氏が守護所を置いたことにはじまります。南北朝時代に守護の細川氏が移り、長く本拠としました。戦国時代には三好氏が台頭し、近畿進出の拠点でした。そのため、勝瑞城は四国最大の城下町として栄えました。
 
勝瑞城
勝瑞城の城跡にある勝瑞義家碑

▶後編
第15回【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?

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執筆・写真/かみゆ歴史編集部(重久直子)
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