2021/08/05
逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第3回【明智光秀】「天下の謀反人」は築城上手なカリスマだった!?
「逸話とゆかりの城で知る!戦国武将」、第3回は「本能寺の変」で広く知られる明智光秀。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも話題になりましたよね。今回は、近年判明しつつある意外にも一途なイケメン(イケてるメンタル)!?な人物像や、実は安土城の先駆けとなる近世城郭だった居城・坂本城に迫ります。
「太平記英勇伝」に描かれた明智光秀。着物に描かれた桔梗の花は明智家の家紋だ(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)
延暦寺焼き討ちで活躍!居城・坂本城を得る
主君を裏切った「天下の謀反人」または、織田信長の革新性について行けなかった「常識人」など、光秀のイメージは人によって大きく異なるのではないでしょうか。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では残虐さがエスカレートする信長への葛藤がなんとも切なかったですよね。
明智光秀の前半生については正確な資料があまり残っていませんが、享禄元年(1528)に美濃国に生まれ、斎藤氏の父子ゲンカで道三方についた後に、浪人となったという説が有力です。光秀が歴史の表舞台に現れるのは、足利義昭と織田信長と出会った、後半生から。流浪中だった朝倉氏の一乗谷で義昭に仕え、その後義昭を信長に紹介。そして一緒に上洛を果たします。
上洛から3年後、光秀の人生を大きく転換させる「比叡山延暦寺焼き討ち」が起こります。これまでは、信長の残虐さに驚愕したというのが通説でしたが、近年の研究では、光秀も延暦寺の虐殺に積極的に関わっていたことが判明しています。従来のイメージとは逆だったわけです。
安土城や坂本城以前に築かれた石垣が残る宇佐山城。1570年に光秀が入城して、延暦寺の動きを監視しました
この比叡山での武功が信長に認められた光秀は、近江滋賀郡を与えられ、琵琶湖沿岸に坂本城(滋賀県大津市)を築きます。なんと信長家臣の中で領地持ちの武将、第1号でした。
光秀が築いた坂本城は石垣と天守が立っており、近世城郭のはじまりとされる信長の安土城(滋賀県近江八幡市)の実験場だったとも考えられています。光秀の築城の腕前はなかなかで、日本に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスも「築城について造詣が深く、すぐれた建築手腕の持ち主」と評しています。さすが、信長から厚い信頼を得ていた男です。
坂本城趾公園に立つ、明智光秀の石像と碑
謎多き光秀の意外な素顔
そこからの光秀の人生はトントン拍子。天正3年(1575)には信長に丹波攻めを命じられます。1度目の出陣では八上城(兵庫県丹波篠山市)城主の波多野秀治の裏切りにあい、撤退を余儀なくされますが、拠点となる亀山城(京都府亀岡市)を築いて2年後に再び出陣。八上城を兵糧攻めで陥落させると、破竹の勢いで丹後・丹波の城を陥落させて、その平定に成功しました。丹波平定の際の要となった亀山城・福知山城(京都府福知山市)・黒井城(兵庫県丹波市)・周山城(京都府京都市)は、どの城も光秀が「石垣の城」として築城・改修しています。光秀は信長が生み出した近世城郭の「石垣の城」を築くことで、丹波の人々に信長の権力を知らしめたのです。
ついに国持ち大名となった光秀ですが、天正10年(1582)に本能寺の変を起こします。あまりに有名な事件なのでここでは経緯を繰り返しませんが、この件で日本史上最大の裏切者というレッテルを貼られてしまいました。
▼本能寺の変については、歴史研究家の小和田泰経先生先生の記事をチェック!
本能寺の変① 明智光秀の謀反 https://shirobito.jp/article/1165
本能寺の変を描いた明治時代の浮世絵(本能寺焼討之図/東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)
そんな光秀ですが、流浪の身から成り上がった才人であることは間違いありません。彼が優れていたのは、「報告・連絡」という最も基本的なことでした。光秀が定めた「明智光秀家中軍法」では、戦場での勝手な判断を慎み、命令遵守・連絡を最優先することを記しています。また、光秀の戦況報告書は詳細で、信長にも絶賛されたことがありました。そういったマメな性格が、戦国一のブラック大名である信長の下で出世できた秘訣だったのかもしれません。
また光秀は非常に愛妻家だった事でも知られています。複数の妻がいることがあたり前だった戦国時代に、光秀の妻は煕子(ひろこ)一人だけだったのだとか。夫婦仲も非常に良かったそうで、結婚前に天然痘にかかり、顔に痕が残ってしまった煕子を、光秀は気にせずに迎えたという美談も残っています。「天下の謀反人」は意外にも一途なイケメン(イケてるメンタル)の持ち主だったようですね。
光秀の居城と攻めた城
【居城】坂本城(滋賀県大津市)
明智光秀の居城で西側は比叡山、東側は琵琶湖に挟まれた水城。安土城の試作とも考えられている、日本で一番最初に築かれた近世城郭です。
坂本城は1582年、山崎の戦い後に天守もろとも秀吉に焼かれてしまい、“幻の城”となってしまいました。現在は坂本城址公園となっており、石碑や光秀の石像が置かれています。琵琶湖の湖底に石垣が残っており、渇水時には当時の石垣が出現することもあるのだとか。
琵琶湖沿岸に築かれた坂本城の復元図(イラスト/香川元太郎、監修/中井均)
【支城】福知山城(京都府福知山市)
戦国時代は「横山城」と呼ばれ、塩見信房が城主をつとめていましたが、1579年に丹波攻めを行っていた光秀が攻め落とします。西国平定の拠点として、石垣の城と城下町を築き、明智の「智」の字を用いて「福智山」と名付けられたと伝わっています。
福知山城の最大の特徴は、野面積の石にまじって、寺院で使われる五輪塔や宝篋印塔、墓石や石臼などの「転用石」が石材として使われているということ。石材不足のために「転用石」が用いられたと考えられます。
福知山城の天守。現在は当時の石垣の上に1986年に再建された天守が立っている
【攻めた城】八上城(兵庫県丹波篠山市)
丹波攻めの際、光秀を裏切った波多野秀治の居城。丹波を代表する巨大な城郭で、水場施設の「朝路池」の守りなど、他の山城には見られないほど堅固なつくりとなっています。光秀は約半年かけて兵粮攻めを行い陥落させ、秀治は磔刑に処されました。
八上城の戦いでは、信長が波多野一族を皆殺しにしたため、人質にしていた母が殺されてしまったという悲しい逸話がありますが、近年の研究でこの説は否定されています。
遠景から見た八上城。山・川を活用した守りの強い城だったため、光秀は兵糧攻めで落城させた
執筆・写真/かみゆ歴史編集部(深草あかね)
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