本能寺の変① 明智光秀の謀反

明智光秀が織田信長に謀反を起こし、日本の歴史を大きく変えた本能寺の変。その背景と全容を、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』に資料提供として参加し、公式サイトの「トリセツ」の監修もされている小和田泰経先生が3回に分けて解説します。第1回は、光秀が謀反を起こすまでの動きを細かくたどっていきます。

徳川家康と穴山梅雪の饗応役を任された光秀

天正10年(1582)3月、織田信長は、最大の敵であった武田勝頼を甲州攻めで滅亡に追い込みました。すでに信長は、東北の伊達政宗や関東の北条氏政とは通じていましたから、中国・四国・九州を押さえれば天下統一も視野に入ったことになります。朝廷でも、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに推任するという「三職推任」を、信長に打診しました。

そうしたなか、5月15日には、安土城(滋賀県)の信長のもとを、徳川家康と穴山梅雪が訪れています。家康は甲州攻めにも参加しており、その論功行賞で武田氏の遺領のうち駿河の支配を認められていました。また、穴山梅雪は武田氏の重臣筆頭であったが、寝返ったことで助命されていました。それぞれ、信長に御礼を述べようとしたのです。これに対して信長は、明智光秀を饗応役に命じ、5月17日までの三日間にわたり両名を接待させました。

安土城
光秀が家康・梅雪を饗応した安土城

このあと、織田信長は、徳川家康と穴山梅雪に京や堺への遊覧を勧めると、自らも上洛の準備にとりかりました。ちょうど、中国攻めで毛利輝元と対峙していた羽柴秀吉から、信長自身の出陣を要請されていたからです。秀吉が率いていたのは1万ほどの軍勢であり、備中高松城(岡山県)には毛利輝元の叔父にあたる吉川元春と小早川隆景が救援に来ていました。信長は、自ら出陣するとともに、畿内にいる明智光秀とその与力にも援軍を命じたのです。

江戸時代初期に川角三郎右衛門が著したとされる『川角太閤記』によれば、光秀は但馬から因幡に入り、毛利輝元の領国となっていた伯耆・出雲に侵入することになっていたといいます。また、江戸時代の軍記物語『明智軍記』には、出雲・石見2か国の恩賞が約束されていたと記されています。いずれも、同時代の史料ではないので信憑性は高くはありませんが、光秀は、備中高松城ではなく、山陰に出陣することになっていたのかもしれません。確かに、光秀が伯耆・出雲に侵入したとしたら、毛利輝元は、そちらにも軍勢を割かなければならなくなります。つまり、それも備中高松城攻めの援軍ということになるわけです。

家臣たちは「敵は家康」と思っていた?

それはともかく、5月17日に徳川家康と穴山梅雪の饗応を務め終えた光秀は、近江の坂本城(滋賀県)に戻りました。光秀が突如として饗応役を解任されたといわれることもありますが、饗応は最初から3日間と決まっていたのではないでしょうか。光秀にしても、ずっと家康や梅雪の接待ばかりしていられません。出陣の準備もしなければならなかったからです。5月26日、近江坂本城を出ると、丹波における居城であった亀山城に入りました。そして、翌5月27日、光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現に参籠したのです。

坂本城、明智光秀
坂本城に立つ光秀の石像

参籠とは、寺社に籠もって祈願することです。愛宕山は当時、神仏習合で信仰の山として知られていました。光秀は、ここで戦勝祈願をしようとしたのです。愛宕山の宿坊に泊まった光秀は、明くる5 月28日、ここで連歌会を催しました。これが有名な「愛宕百韻」です。

連歌とは、2人以上で、和歌の上の句と下の句とを互いに詠みあっていく歌のことで、合わせて100句詠まれたので「百韻」といいます。連歌会には、光秀のほか当代一流の連歌師と謳われた里村紹巴ら9名が参加しました。ここで、光秀が主催者として詠んだ発句、つまり最初の句が、「ときは今天が下知る五月哉」です。「とき」は、明智氏の嫡流である土岐氏を意味し、「天が下知る」は、天下をとる意志を示したとされますが、こじつけにすぎないでしょう。連歌会に参加した誰かが信長に密告すれば、謀反は失敗してしまうのです。

当時は旧暦で、5月は29日までありました。「愛宕百韻」が行われた翌々日の6月1日、家臣らに出陣の命令を下した光秀は、この日の夜、ついに亀山城(京都府)を出立することになりました。光秀が、重臣たちに謀反を打ち明けたのは、このときだといわれています。なかには反対する重臣もいたようですが、光秀の決意が変わることはなく、決行することになりました。

光秀の家臣らが順次出陣していき、軍勢の数は合わせて1万3000になったといいます。一軍となった明智軍は、山陰道の京への入口にあたる老ノ坂を越えて京の桂川に到達しました。このころには日付がかわり、6月2日の午前2時くらいになっていたようです。ここで光秀は、「敵は本能寺にあり」と叫んで士気を鼓舞したという逸話は有名ですが、江戸時代の儒者頼山陽が漢詩に詠んでいるものなので、史実とは言えません。

光秀の家臣が残した覚書によれば、徳川家康を暗殺するのが目的だと考えていた家臣もいたようです。本能寺を攻めると知れば、脱走する兵が出ないとも限りません。光秀が信長の命により家康を討つと称していた可能性もあるように思います。いずれにしても、光秀は桂川の河畔にて鉄砲の火縄に火をつけさせるなど臨戦態勢を整えたうえで京の本能寺に向かっていったのです。

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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書 『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
   『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
   『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
   『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

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